ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
サンリンドーは相変わらず新聞を広げている。
肘をつき、顎を少し引き、赤鉛筆でウマ柱に印を打つ。あの人は考えている時ほど無口になる。赤鉛筆の先が紙を叩く音だけが、部屋のリズムになっていた。
紙面のかなりの部分が、同じ名前で埋まっている。
――ダート最強ラムダ、秋初戦始動。
芝の記事が大半を占める新聞で、ダートのウマ娘がここまで扱われるのは珍しい。異例と言っていい。
つまり、それだけだ。あのケンタッキーダービーが、中央の連中の脳天を殴りつけたということだろう。
私はソファの背にもたれ、天井を見上げながら口を開いた。
「でさ、ベルはジャパンダートクラシック、勝てそうなの?」
あと一か月もしないうちに、大井で行われるレース。
ダートクラシック三冠の最後の一冠。ベルにとっては、喉から手が出るほど欲しいはずだ。
「うーん……そうだなぁ」
サンリンドーは新聞から目を離し、天を仰いだ。まるで、そこに答えが書いてあるかのように。
「弱気やめろ」
私が言うと、彼は苦笑した。
「弱気じゃない。今のベルなら、中央勢相手でも文句なしに勝てるくらいには本格化してる。不来方賞も取ったしな」
「じゃあ、ラムダにも?」
一瞬だけ、間が空いた。
「それは、わからないが……」
「なんだよ」
「……あのウマ娘は、特別な奴かもしれない」
サンリンドーは新聞を畳み、赤鉛筆を置いた。
「早熟の天才ってタイプでな。秋に伸びてくる上がりウマ娘と当たると、案外あっさり追い越される――そういう存在であることを、祈るしかない」
「神頼みかよ」
「やれることは、やってるさ……」
その言葉のあと、私はベルのほうを見た。
さっきから、彼女はずっと俯いている。
「ねぇ……本当に大丈夫?」
ベルは、少し間を置いてから答えた。
「最後の一冠……取れるかどうか、本当に不安で……」
「そんなに心配しなくてもさ」
言いながら、私は自分の声が軽いことに気づく。
ベルは首を振った。
「僕には……もう後がない気がするので……」
その言葉が、部屋の空気を少し重くした。
サンリンドーが、低い声で割って入る。
「あまり根を詰めないほうがいい。今のベルなら、イグニッションと比べても遜色ない走りができる」
彼は、まっすぐベルを見た。
「プレッシャーは、心の斤量だ。無理に背負う必要はない」
「……そうですけど……」
ベルは納得しきれない顔のままだった。
9月の夜。
寮の屋上は、思ったよりも明るかった。晩夏という言葉がまだ居座っていて、夜更けになっても空気が生ぬるい。
先輩たちは屋上の端でホタル族を決め込み、赤い点と白い煙が、ゆっくりと闇に溶けていく。あの人たちは、だいたいいつも自分の世界を完結させるのが上手だ。
ベルは、その少し離れた場所にいた。
膝を抱え、街の光をぼんやりと眺めている。武蔵小杉の方向だろうか。タワーマンションが生み出す光の粒が、規則正しく瞬いている。
「……ここにいたんだ」
声をかけると、ベルは小さく肩を揺らしただけで、こちらを見なかった。
私は隣に腰を下ろす。コンクリートの冷たさが、じわりと伝わってくる。
「ベルは寮じゃないよね。家帰らないの?」
「なんか、帰る気しなくて」
「そっか…」
しばらく、何も言わない時間が続いた。
遠くで車の走る音。先輩の笑い声。煙草の火が、瞬いて消える。
「……もう、勝つしかないんです」
ベルが、ぽつりとこぼした。
膝を抱く腕に、力が入る。
「後が、もう……」
私は夜空を見上げた。星は少なくて、その代わりに街灯が多い。
「確かにさ、負けはキツいよ」
言葉を選びながら、私は続ける。
「でもさ、それで即ゲームオーバーになるわけじゃない」
ベルは、ゆっくり首を振った。
「それは……そうなんですが……」
その先の言葉が、出てこない。
出てこないというより、出したら壊れてしまいそうな感じがした。
私は、少しだけ身体を前に倒した。
「ベルさ。前にも言ったけど、あんたはもう十分、走ってきた」
灯りの海の向こうに、見えないゴールを探すみたいな横顔だった。
「勝たなきゃいけない、って思うのは分かる。でも、それが全部になった瞬間、走るのが一番つらくなる」
ベルは、黙ったままだ。
その沈黙は、拒絶じゃない。考えている音だ。
「結果は大事だよ。否定しない。でもね」
私は、少しだけ笑った。
「少なくとも、ここにいる限り。私とサンリンドーと、川崎の連中は、ベルが一回負けたくらいで放り出したりしない」
ようやく、ベルがこちらを見た。
目の奥に、不安と、それでも消えない火が混じっている。
「……それでも、怖いです」
「うん。怖くていい」
私は即答した。
「怖いってことは、本気だってことだから」
9月の夜風が、屋上を吹き抜ける。
ホタル族の煙が流れて、街の光が一瞬滲んだ。