ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います   作:トマスアレポ

47 / 56
怖いってことは、本気だってことだから

サンリンドーは相変わらず新聞を広げている。

肘をつき、顎を少し引き、赤鉛筆でウマ柱に印を打つ。あの人は考えている時ほど無口になる。赤鉛筆の先が紙を叩く音だけが、部屋のリズムになっていた。

 

紙面のかなりの部分が、同じ名前で埋まっている。

 

――ダート最強ラムダ、秋初戦始動。

 

芝の記事が大半を占める新聞で、ダートのウマ娘がここまで扱われるのは珍しい。異例と言っていい。

つまり、それだけだ。あのケンタッキーダービーが、中央の連中の脳天を殴りつけたということだろう。

 

私はソファの背にもたれ、天井を見上げながら口を開いた。

 

「でさ、ベルはジャパンダートクラシック、勝てそうなの?」

 

あと一か月もしないうちに、大井で行われるレース。

ダートクラシック三冠の最後の一冠。ベルにとっては、喉から手が出るほど欲しいはずだ。

 

「うーん……そうだなぁ」

 

サンリンドーは新聞から目を離し、天を仰いだ。まるで、そこに答えが書いてあるかのように。

 

「弱気やめろ」

 

私が言うと、彼は苦笑した。

 

「弱気じゃない。今のベルなら、中央勢相手でも文句なしに勝てるくらいには本格化してる。不来方賞も取ったしな」

 

「じゃあ、ラムダにも?」

 

一瞬だけ、間が空いた。

 

「それは、わからないが……」

 

「なんだよ」

 

「……あのウマ娘は、特別な奴かもしれない」

 

サンリンドーは新聞を畳み、赤鉛筆を置いた。

 

「早熟の天才ってタイプでな。秋に伸びてくる上がりウマ娘と当たると、案外あっさり追い越される――そういう存在であることを、祈るしかない」

 

「神頼みかよ」

 

「やれることは、やってるさ……」

 

その言葉のあと、私はベルのほうを見た。

さっきから、彼女はずっと俯いている。

 

「ねぇ……本当に大丈夫?」

 

ベルは、少し間を置いてから答えた。

 

「最後の一冠……取れるかどうか、本当に不安で……」

 

「そんなに心配しなくてもさ」

 

言いながら、私は自分の声が軽いことに気づく。

ベルは首を振った。

 

「僕には……もう後がない気がするので……」

 

その言葉が、部屋の空気を少し重くした。

サンリンドーが、低い声で割って入る。

 

「あまり根を詰めないほうがいい。今のベルなら、イグニッションと比べても遜色ない走りができる」

 

彼は、まっすぐベルを見た。

 

「プレッシャーは、心の斤量だ。無理に背負う必要はない」

 

「……そうですけど……」

 

ベルは納得しきれない顔のままだった。

 


 

9月の夜。

寮の屋上は、思ったよりも明るかった。晩夏という言葉がまだ居座っていて、夜更けになっても空気が生ぬるい。

先輩たちは屋上の端でホタル族を決め込み、赤い点と白い煙が、ゆっくりと闇に溶けていく。あの人たちは、だいたいいつも自分の世界を完結させるのが上手だ。

 

ベルは、その少し離れた場所にいた。

膝を抱え、街の光をぼんやりと眺めている。武蔵小杉の方向だろうか。タワーマンションが生み出す光の粒が、規則正しく瞬いている。

 

「……ここにいたんだ」

 

声をかけると、ベルは小さく肩を揺らしただけで、こちらを見なかった。

私は隣に腰を下ろす。コンクリートの冷たさが、じわりと伝わってくる。

 

「ベルは寮じゃないよね。家帰らないの?」

「なんか、帰る気しなくて」

「そっか…」

 

 

しばらく、何も言わない時間が続いた。

遠くで車の走る音。先輩の笑い声。煙草の火が、瞬いて消える。

 

「……もう、勝つしかないんです」

 

ベルが、ぽつりとこぼした。

膝を抱く腕に、力が入る。

 

「後が、もう……」

 

私は夜空を見上げた。星は少なくて、その代わりに街灯が多い。

 

「確かにさ、負けはキツいよ」

 

言葉を選びながら、私は続ける。

 

「でもさ、それで即ゲームオーバーになるわけじゃない」

 

ベルは、ゆっくり首を振った。

 

「それは……そうなんですが……」

 

その先の言葉が、出てこない。

出てこないというより、出したら壊れてしまいそうな感じがした。

 

私は、少しだけ身体を前に倒した。

 

「ベルさ。前にも言ったけど、あんたはもう十分、走ってきた」

 

灯りの海の向こうに、見えないゴールを探すみたいな横顔だった。

 

「勝たなきゃいけない、って思うのは分かる。でも、それが全部になった瞬間、走るのが一番つらくなる」

 

ベルは、黙ったままだ。

その沈黙は、拒絶じゃない。考えている音だ。

 

「結果は大事だよ。否定しない。でもね」

 

私は、少しだけ笑った。

 

「少なくとも、ここにいる限り。私とサンリンドーと、川崎の連中は、ベルが一回負けたくらいで放り出したりしない」

 

ようやく、ベルがこちらを見た。

目の奥に、不安と、それでも消えない火が混じっている。

 

「……それでも、怖いです」

 

「うん。怖くていい」

 

私は即答した。

 

「怖いってことは、本気だってことだから」

 

9月の夜風が、屋上を吹き抜ける。

ホタル族の煙が流れて、街の光が一瞬滲んだ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。