ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
大井ジャパンダートダービーのパドックは、独特の熱を帯びていた。
歓声でも緊張でもない、もっと生々しいもの――これから起きる衝突を、皆が薄々理解している空気だ。
いた。
あれが、ラムダ。
一目で分かる。
サンリンドーが言っていた「夏を越えたら上がりウマ娘と大差ないかもしれない」なんて見立てが、どれほど甘かったか。
闘志が違う。眼の奥に、前とは別の光が宿っている。空腹の仔犬みたいだったあの日の面影はない。身体は引き締まり、筋が浮き、ひと回り――いや、半回りは確実に大きくなっている。
強くなっている。
疑いようもなく。
「あっ……チュロスの」
声をかけられて、私は一瞬だけ拍子抜けした。
その顔は、確かにラムダだった。
「久しぶりだなぁ」
「どうも」
ベルも、短く頭を下げる。
「きみも、ここで走るのか。それは良かったよ」
ラムダは心底嬉しそうに言った。
その言葉が、余計に腹立たしい。
「今日は空腹じゃなさそうだな」
「さっきドーナツを貰ったから心配ないよ。それに今日は先生が夕飯を好きなだけ食べさせてくれるからね。もう待ちきれないよ」
「相変わらずみたいだな」
横でベルが、一歩前に出た。
「前は遅れを取りましたけど……今日は、負ける気はないですよ」
その瞬間、ラムダが首を傾けた。
こちらを、値踏みするでもなく、試すでもなく、ただ不思議そうに見返してくる。
「――そうかな?」
そして、はっきりと言った。
「今日のわたしのイメージに、きみに負けるイメージはないよ」
言い切りやがった。
私は思わず、舌打ちを飲み込む。
「本当に?」
ベルが問い返すと、ラムダはあっさり頷いた。
「本当さ。ところで、きみはなんて名前かな」
「おい、今まで知らなかったのかよ」
「ウマ娘はどれも同じ顔に見えちゃってね」
悪びれもせずに言う。
なんて奴だ。
「……ベル。ライトニングベルです」
「きみはライトニングベルというのか。ありがとう」
その名前を、丁寧に口にする。
「今日、お前の記憶に刻んでやるよ」
私が言うと、ラムダは少しだけ楽しそうに笑った。
「そうか。ライトニングベル、きみは足が速いか?」
真っ直ぐな目。
逃げ場のない視線が、ベルを射抜く。
「少なくとも、負けると思ってるなら、ここには立ってません」
ベルは一歩も引かなかった。
「そうか。それなら嬉しいよ」
ラムダは、心底楽しそうだった。
「わたしと同じくらい走れる仔が、もっといたら楽しいもん」
そのとき、誘導ウマ娘の声が割り込む。
「とまーれー!」
ラムダは踵を返し、最後に一言だけ残した。
「今日は、楽しませてもらうよ」
その背中を見送りながら、私は確信した。
こいつは怪物だ。
そして――ベルは、今まさにその怪物と同じ舞台に立っている。
トレーナー席は、パドックとは別種の緊張に満ちていた。
歓声から一段引いた場所で、数字と可能性と慢心が、静かにせめぎ合っている。
「よう」
気安い声でヤハギが現れた。年季の入った余裕が、その一言に滲んでいる。
「お久しぶりです。全日本ジュニア優駿以来ですね」
サンリンドーが応じる。言葉は丁寧だが、視線は油断していない。
「今日は負けんよ。ライトニングベルも、まあまあやってるようだがな」
軽口の形を取っているが、本気で言っているのが分かる。
サンリンドーは肩をすくめた。
「競馬に絶対はありませんよ」
「ラムダには絶対がある」
ヤハギは即答した。
「……このやりとり、前にもやったよな?」
「ははは」
乾いた笑いが、二人の間に落ちる。
その空気を、ヤハギがふっと変えた。
「それよりよ。お前んとこの……ブラッシングローズだったか」
「えっ」
サンリンドーの声が、わずかに裏返る。
「あれ、地方で収まる器じゃねえぞ。中央でやらせる気はないのか?」
「本人の希望もありますから」
「BCに行かせてもいいタマだ」
その言葉は、勧誘というより断定に近かった。
「中央に送るなら、うちに来てくれよ」
「それは……どうでしょうね。本人の意思もありますし」
かわしながらも、サンリンドーの表情は揺れている。
そのとき、一人の青年がヤハギの横に立ち、無言でタブレットを差し出した。
長身で、輪郭のはっきりした顔。胸元にはサブトレーナーのバッジが光っている。
「おう、遅かったな」
ヤハギは画面を一瞥し、頷いた。
「ラムダは大丈夫そうか」
「いつも通りですよ」
落ち着いた声だった。
「ああ、まだ紹介してなかったな」
ヤハギがサンリンドーの方を見る。
「サブトレーナーの――」
「サカイです」
「どうも」
短い挨拶が交わされる。
「普段のラムダは、こいつが面倒見てる」
「そうなんですか?」
サンリンドーの眉がわずかに上がる。
ウマ娘をサブトレーナーに任せる。中央でも、そう多くはないケースだ。
「ああ。俺は全体のスケジュールと海外遠征で手一杯でな」
ヤハギは平然と続ける。
「まあ、ラムダも頭が良くて自走できる。こいつみたいな新米のペーペーでも十分だ」
「ペーペーは酷いですよ、先生」
「いいじゃねえか」
軽く笑い合う二人。
サンリンドーは、その様子をじっと見ていた。
「……そういうやり方もあるんですね」
「今は外厩もあるしな」
ヤハギは言った。
「これも中央だよ」
その言葉が、妙に重く響いた。
次の瞬間、ファンファーレが鳴り渡る。
空気が一気に張り詰める。
「始まりますね」
サンリンドーが言う。
「ああ」
ヤハギは短く頷き、前を見た。