ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
ベルは、まるで電池を抜かれた玩具みたいに、砂のコースに転がっていた。さっきまで全身を駆動させていた力が、ゴール板の向こうで一斉にオフになったらしい。近づくと、顔から首筋まで砂にまみれていて、表情だけ見れば立派な戦死者だった。
検量室前まで引き上げてきたものの、その顔色は依然として「終末」を主張している。世界の終わりがもし表情で表現できるなら、きっと今のベルみたいな顔になるだろう。
「終わりだ……何もかも」
小さく呟いたその声は、砂袋より重かった。
「二着なら、よくやってる」
サンリンドーが淡々と言う。慰めというより事実の報告だ。
私はそれを受けて、少し声を張った。
「そうだぞ! イグニッションとか見てみろよ。掲示板入ったかどうかも怪しいぞ!」
八つ当たり気味なのは自覚している。でも今は、論理より勢いが必要な場面だ。
ベルはゆっくり首を動かし、こちらを見る。
「……一着以外に、価値があるんですか」
胸の奥が、ぎしっと音を立てた。
その瞬間、ベルがふと周囲を見回す。
「おつかれー!」
「ベルきゅん、カッコよかったよ!」
「地方の意地や! ようやった!」
柵の向こうから、声が飛んでくる。熱と湿気と拍手が混ざった、いかにもレース後らしい空気。勝者専用の歓声とは違う。でも、確かにベルに向けられている。
私は顎でそちらを示した。
「ほらな?」
ベルは、きょとんとしたまま、もう一度ファンの方を見る。
理解できない言語を聞いたみたいな顔だ。
「……なんで……負けたのに、そんなこと言えるんだろう……」
答えは簡単だ。でも、簡単すぎて、今はうまく言葉にできなかった。
サンリンドーが、少しだけ声のトーンを落とす。
「とにかく、ウイニングライブが終わったら、さっさと帰ろう」
ベルはまだ砂だらけのまま、黙って頷いた。
翌日、トレーナー室は妙に静かだった。
静かというより、言葉が居心地悪そうに壁際で正座している、そんな感じだ。
ライトニングベルは椅子に腰掛けたまま、長いため息を吐いた。その息は、昨日の砂よりも重く、空気に残った。
「二着に終わったせいで……」
言葉の続きは分かっている。中央転入。両親。振り向いてもらえるかもしれない、たった一度のチャンス。
ベルの中では、昨日のゴール板は「終点」になってしまっていた。
正直に言えば、ラムダさえいなければ――という考えが頭をよぎらないわけじゃない。
でも、それは言わない。言った瞬間、ベルはもっと自分を責める。
私は机に寄りかかりながら、できるだけ軽い声を出した。
「ベルも聞こえたでしょ。あの声援」
「ええ……でも、あれはラムダに向けてのものでしょう」
即答だった。
あまりにも自然で、胸がちくりとした。
「違うって。ベルにもあったよ」
ベルは首を振る。
「負けた僕に、そんな資格があるんでしょうか……」
その言葉を、机の向こうから切り取るように、サンリンドーが言った。
「あるさ」
短い。だが、妙に重い。
彼は引き出しを開け、どさりと封筒の束を机に置いた。
「ほら。全部、ライトニングベル宛だ」
ベルの目が、わずかに見開かれる。
封筒の山は、昨日の着順とは無関係に、そこに存在していた。
「……なんで、こんなの溜め込んでたのさ」
思わず私が言う。
「忙しかったからさ」
何でもないことのように、サンリンドーは言う。
その隙に、リリィがベルの隣へ滑り込む。
「ベル、ほら。これ」
スマホの画面を差し出され、ベルは恐る恐る覗き込む。
そこには昨日のレース映像、切り抜き、コメント、コメント、コメント。
――砂のシルバーコレクター
――負けてもなお強し
――あの二着は誇れ
知らないうちに、ベルはちゃんと「誰かの記憶」に残っていた。
「……え……?」
「ベル、スマホ持ってなかったもんね」
リリィがさらっと言う。
「クラスLANEとか、どうしてたん?」
「……なんですか、それ」
「嘘でしょ?!」
思わず声が裏返った。
「ほら、ベルは顔がいいからさ。支えたい人、勝手に増えるタイプだし」
「マジかぁ……」
ベルは画面と封筒を交互に見て、少し戸惑いながら、頭を下げた。
「あの……とにかく、ありがとうございます」
「スマホは絶対、買ってもらった方がいい」
リリィの即断即決に、私は深く頷く。
「そうだぞ」
その様子を眺めながら、サンリンドーがぽつりと言った。
「ま、ベルの親御さんからは、よく連絡来るからさ。俺からも、それとなく言及はしてみるよ」
「……えっ」
ベルの声が、少し震える。
「そんなの、あったんですか」
「ああ。まあ、俺宛だったからな。今までは話さなかったが」
ベルはしばらく黙り込み、やがて小さく息を吐いた。
何かが、胸の奥でようやく噛み合ったみたいな顔だった。
負けたレースは、確かに取り消せない。
でも、昨日ベルが走った事実は、もう誰にも奪えない。
「ねえ、ベル」
私は言った。
「誰かのためじゃなくていい。自分のために走っていいんだよ」
ベルは封筒の山を見つめながら、静かに頷いた。
そんな折だった。
スマホが震えた。机の上で、まるで「面倒ごとが来たぞ」と知らせる虫のように。
画面を覗くと、表示名は遠慮も配慮もなく《イグニッション》。
「……イグニッションかよ」
思わず声に出る。嫌な予感は、大体当たる。
LANEを開く。
『どっから知ったの、これ?』
しばらくして返事。
『ベルはいるか?』
『今、横に』
『では伝えてくれ。「仁川の舞台で待つ」と』
一瞬、画面を見つめた。
私は深呼吸してから、打つ。
『私は糸電話じゃない』
間髪入れず、次が来る。
『ところで、君も向かうか?』
『私は出ない』
ほんの少し、間が空いた。
『なるほど……怖気付いたか』
この人は、人の地雷を踏む天才だ。
『よく言うよ。ベルやラムダに遅れたのに』
そのまま、既読が付かなくなった。
沈黙の種類としては、「図星を突かれて拗ねた」に分類されるやつだ。
「……」
隣でベルがこちらを見ている。
「何だったんです?」
「仁川の舞台で待つ、だってさ」
ベルは少し考えてから、苦笑した。
「ああ……JBCクラシックのことですね」
「仁川って言い方、腹立つよな」
「分かります」
サンリンドーが腕を組んだ。
「宣戦布告だな」
空気が、わずかに張る。
「ベルは、次どうするの」
私が聞くと、ベルは俯いた。
すぐには答えが出ない、というより、答えを出す資格があるのか迷っている顔だ。
サンリンドーが、少しだけ柔らかい声で言った。
「もう少し、走ってみるか?」
ベルは小さく息を吸い、吐いた。
「……分かりません。でも」
その先は、昨日までのベルとは違う声音だった。
「応援してくれる人がいるなら、やってみる価値はあると思います」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の重さが少し軽くなる。
「なら、決まりだな」
サンリンドーが頷く。