ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
ゲート裏で発走時刻を待つ、この数分間は、たぶん時間の定義がおかしくなっている。
一分が一時間で、一秒が一日みたいに伸びていく。
心臓は胸の中で、誰かに掴まれている。
鷲掴み、という表現が一番近い。優しさは一切ない。
遠くでファンファーレが鳴る。
軽快で、祝祭的で、残酷だ。
その音が聞こえた瞬間、逃げ場は完全になくなる。
ゲートの先、ダートコースの向こうに立つ係員が、黄色い旗を下ろし始めた。
発走時刻だ。
僕は14番。
後ろの方の枠だ。
ゲートの中で孤独に待つ時間が短いのは、正直ありがたい。考えすぎる前に、世界が始まってくれる。
——来る。
寸刻。
ガタン。
ゲートが開いた瞬間、世界はすでに走り出していた。
僕が動くより先に、世界が前へ前へと流れていく。
隣のウマ娘――テリオスキッド。
外から一気に加速し、そのまま内へ切れ込んでいく。
最初から、最終直線みたいな脚の使い方だ。
腕も脚も、限界を前借りしている。
ああ、これが逃げの覚悟なんだ、と妙に納得する。
阪神ダート2000mは芝スタート。
最初は緑を踏みしめる。柔らかく、軽く、しかし一瞬だ。
やがて足元が変わる。砂。重さが、正直になる。
地面が砂に切り替わる頃には、先頭争いはもう形になりつつあった。
……出足が鈍い。
芝スタートが、僕には合っていない。
ダートクラシックの時みたいに、前目に付けるのは厳しい。
どうする。
考えろ。
考えろ。
スタンド前を通過する。
歓声が、風みたいに耳を抜けていく。
誰の声か分からない。でも、確かにこちらを見ている。
向こう正面に入っても、隊列は崩れない。
僕の位置は、中段より少し後ろ。
このままだと、四コーナーの時点で詰む。
どうする。
どうする。
逃げウマ娘がいるせいで、ペースは緩まない。
淡々と、しかし確実に速い流れ。
地方のウマ娘たちが、少しずつ置いていかれる気配が、尻尾の先から伝わってくる。
脚の運びが乱れている。
呼吸が浅い。
……ああ、ここまでか。
僕はまだ、いる。
でも、ここから先は選択を間違えたら、同じ場所に落ちる。
三コーナーが近づく。
ペースが、さらに上がる。
前にいる。
一番人気――コグニト。
赤い勝負服が、夕闇を裂くみたいに一段、二段と速度を上げていくのが見えた。
それに反応するように、黄色い勝負服のジャスティンガルチが動き、白地に赤ラインのダノンガロンも間合いを詰める。
彼女たちもまた、スイッチを入れた。ギアチェンジ。
世界が一段、速くなる。
――行かなきゃ。
頭ではそう叫んでいるのに、身体が応えない。
脚が、半拍遅れる。
肺が、空気を掴みそこねる。
まずい。
このままじゃ——
世界に、置いていかれる。
その瞬間だった。
空気が、ぴたりと止まった。
時間が、薄いガラスみたいにひび割れて、動かなくなる。
音が消える。
歓声も、蹄音も、心臓の鼓動さえ——
……いや。
光は、あった。
視線が、自然と足元に落ちる。
そこに、細く、しかし確かに光る“道”が伸びていた。
淡い稲光みたいなラインが、砂の上に描かれている。
見ると、前を走るウマ娘たちも、皆同じだ。
それぞれの足元に、それぞれの光の道がある。
なんだ、これは。
コースにこんなギミックはない。
幻覚? レースハイ? それとも——
考える前に、僕はその道を踏んだ。
次の瞬間、“何か”が流れ込んできた。
映像じゃない。音でもない。
もっと生々しい、温度を持ったイメージだ。
――いい目をしているなぁ。
――姉に比べてダート向きの馬体ですが、走ると思いますよ。
――いい流星だ。稲妻みたいでな。
声が、重なる。
低く、柔らかく、懐かしい。
誰かの手が、鼻先に触れる。
顔を撫でる。
確かにそこに、ぬくもりがあった。
――うん、こいつはそうだな……ライトニングベルだ。
――いいですね。お姉さんにも通じる名前で。
懐かしい。
理由もなく、胸が苦しくなるほど。
それはウマ娘としての記憶じゃない。
もっと昔。
もっと原始的で、誤魔化しのきかない世界。
フラッシュバックみたいに、しかし夢よりはっきりと。
まだ言葉も知らず、ただ走ることしかできなかった頃――
視界が、ぱっと開けた。
そうか。
僕の名前は、最初から――
『ライトニングベル』。
“馬主”さんは、そう名付けてくれた。
電撃みたいな末脚を、いつか必ず鳴らしてくれ、と。
その想いが、今になって、身体の奥でスイッチを入れた。
背骨を、雷が走る。
血管の中を、電流が駆け抜ける。
ああ——
まだだ。
まだ、終わってない。
僕は、前を見た。
「位置上げろベル! 位置上げろ!」
叫んだ声が、自分でも驚くほどひっくり返った。
横でサンリンドーも、喉の奥を全部ひっくり返す勢いで声を張り上げている。
「よし、来い!」
二人分の声援が、スタンド前の空気を無理やり押し曲げる。
ターフビジョンの中、ベルは四コーナーでまだやや後ろ。
絶妙に、希望と絶望の境目みたいな位置だった。
――間に合うか。
そんな言葉を考えた瞬間、実況が一気に加速する。
――さあ第4コーナーから直線に上がってきた!
――先頭はテリオスキッド!テリオスキッド!
そして今度は5番のダノンガロン!ダノンガロンの追い比べ!
しかし外に持ち出した8番のコグニト!コグニト!
逃げウマ娘の黒とピンクの勝負服が、砂を蹴散らしながら先頭を死守している。
だが、次の瞬間。
赤い勝負服が、画面の外から飛び込んでくる。
ああ、中央の一番人気。やっぱり、強い。
直線、残り300。
その時だった。
ベルが――動いた。
稲妻。
ほんとうに、そんな言葉しか浮かばなかった。
鋭い手応えで、前にいたウマ娘たちを一頭、また一頭、飲み込んでいく。
「ベル! ベル!」
声が裏返る。
喉が痛いのも構わない。
「いけーっ! 差せー! 差せええええっ!」
サンリンドーも叫ぶ。
二人して、理性というものを完全に置き去りにしていた。
――更には2番手ジャスティンガルチ!大外からぐーんとライトニングベルが足を延ばしてくるが!
来てる。
確かに、来てる。
でも――
――先頭は8番のコグニトゴールイン!
一瞬、世界が真空になる。
私とサンリンドーは、まったく同じタイミングで声を漏らしていた。
「ああーっ……」
身体の力が、ストンと抜ける。
膝から下が、地面に吸い込まれそうだった。
「……何着?」
サンリンドーはターフビジョンを一瞥して、短く答えた。
「4着だ。行くぞ!」
もう次の行動に切り替わっている。
さすがトレーナー、切り替えが早い。容赦ない。
検量室で、ベルを迎えなきゃいけない。
入着こそ逃した。
でも、地方ウマ娘としては最先着だ。
――胸を張っていい。
帰ってきたら、盛大に褒めてやらなきゃ。
喉が潰れるくらい、ちゃんと。
そう心に決めて、私はサンリンドーの背中を追いかけた。