ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
翌日、東京シンデレラマイル。
大井の空気は、前日の東京大賞典の余韻をまだ引きずっている。ラムダの名前は風邪のように残り、誰かの会話に紛れ込んでは、しつこく再発する。
一年前の東京ジュニアオークス。
もう、あれから一年が経ったらしい。時間というやつは、こちらの許可も取らずに駆け抜けていく。ついこの前まで、私はこの大井のパドックで、場違いなほど硬い顔をして立っていたはずなのに。
だが、今は違う。
自分でも嫌になるほど、わかっている。
私は強い。
誰にも負けない力がある。少なくとも、この場所では。
一年前の私がここにいたら、どう思うだろう。
きっと、羨ましがるか、疑うか、その両方だ。
だから今日は見せつけてやるつもりだった。あの頃の自分に向けて。
そんなことを考えていたら、聞き覚えのある声が背中に刺さった。
「なぜ大賞典ではなく、こちらに?」
振り返ると、そこにいたのはカスミノヒメだった。
一年前、きっちりと一度、してやられた相手。
もう敵ではない。そう断言していいはずなのに、胸の奥に小さな棘のような感触が残る。嫌な予感というほど大げさではないが、見過ごすには引っかかる。
「本当は出たかったけどね。まあ、中央への挑戦は来年におあずけってことで」
口に出した言葉は軽かったが、嘘はない。
カスミノヒメは一瞬だけ考えるような間を置き、ゆっくりと頷いた。
「そうですか……では、来年は中央に」
「さあね。でもフェブラリーステークスは出る」
自分でも、ずいぶんはっきり言ったなと思う。
カスミノヒメの目が、わずかに細くなった。
「なるほど……ですが、お忘れなきように」
「何を?」
「勝ち逃げは、無しですから」
その瞬間だった。
彼女が顔を上げた、その動きに引っ張られるように、パドックの空気が一斉にこちらを向いた。
視線。
数。
重さ。
出走ウマ娘たち全員の目が、私に突き刺さっている。
敵意とも期待ともつかない、奇妙に温度の低い視線。
まるで「王座」に座る資格があるかどうかを、黙って量られているような感覚。
「とまーれー!」
誘導ウマ娘の声が、乾いた音を立てて空気を切り裂いた。
現実に引き戻される。
カスミノヒメは何事もなかったように踵を返し、本馬場への通路へと歩き出す。
だが、その背中が遠ざかっても、視線は消えなかった。
彼女だけじゃない。
ここにいる全員が、私を見ている。
胸の奥に、ひやりとしたものが落ちる。
真冬の寒さとは違う。
これは、期待と敵意と野心が混ざった、底の知れない寒気だ。
――なるほど。
どうやら今日は、ただ勝つだけじゃ済まないらしい。
私は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
逃げ場はない。
なら、正面から踏み潰すまでだ。
本馬場入場の音楽が鳴る。
大晦日の大井は、日が沈むのも仕事納めとばかりに早い。スタンドの照明が一斉に灯って、砂の上に十四人ぶんの影を長く引き伸ばした。影だけ見れば、どれが女帝でどれが刺客なのか区別はつかない。影というのは平等にできている。平等でないのは、ここから先の一分四十秒だけだ。
スタンドは大入りだった。年の瀬の、やることが競馬しか残っていない人々と、やることを全部済ませてなお競馬に来てしまう人々で、大井は膨らんでいた。昨日の東京大賞典の熱がまだ場内のどこかで燻っていて、その残り火の上に、今日は私が薪をくべる番らしい。
ゲート裏。息を吐くと白かった。
一年前もこの白い息を見た。あの時は、吐いた息の数だけ不安が増えた。今は違う。吐いた息の数だけ、体が軽くなる。人間もウマ娘も、一年でずいぶん変わるものである。
――さあ、大晦日の大井競馬場、メインは第11レース、東京シンデレラマイル! 今年一年の総決算、南関東牝馬路線の千秋楽です。
ゲートインが始まりました。1番ドミツァーナ、2番マリタイムシッパー、3番ハクサンアスターテと順番に収まっていきます。
5番浦和のフラメンカリーナも態勢よし。そして7番、今年の南関東を勝って勝って勝ちまくった、ティアラの女王ブラッシングローズがゲートに向かう!
11番チアーリズム、13番クラヴァット、そして最後、14番カスミノヒメが外枠のゲートに収まりまして――態勢完了、スタートしました!
ほぼ揃った飛び出し! まずはドミツァーナ、宣言通りハナを主張します! 2番手マリタイムシッパー、内の3番手にハクサンアスターテ!
ブラッシングローズは中団のやや後ろ、内目に収まる形!
好発だった。我ながら完璧なスタートだった。
だが世界は、私のスタートが完璧であることを事前に知っていたらしい。外から一枚、また一枚と、丁寧に蓋をするように被せられて、私は馬群の内側へ、内側へと畳み込まれていった。押し合いはない。接触もない。誰も反則なんかしていない。全員がただ「正しい位置」に立っただけだ。
その正しさの総和が、私の進路を消していた。
なるほど、これが包囲というやつか。
パドックで浴びたあの温度の低い視線は、値踏みじゃなかった。あれは点呼だ。持ち場につく前の、静かな点呼だったのだ。
――先頭はドミツァーナ、リードは1馬身!
2番手マリタイムシッパー、3番手の内にハクサンアスターテ、そのすぐ後ろ、4番手の好位にカスミノヒメがつけております!
1コーナーから2コーナー、隊列は落ち着きました。
一番人気ブラッシングローズは中段やや後ろに付けました!
前には尻尾。横には壁。壁の名前はフラメンカリーナといった。
「ごきげんよう、女王様」とでも言いたげな横顔が、視界の端で揺れている。彼女は私を見ない。見る必要がないからだ。速度を合わせ、進路を消し、それだけで仕事は完了している。浦和の劇団員は、脇役の芝居が一番うまい。
私は押した。
押して、押して、それでも前は開かなかった。脚は残っている。力は有り余っている。ただ、力を注ぎ込む場所だけが、この世界から綺麗に取り除かれていた。走っているのに、世界が私のぶんだけ狭い。
――残り九百。
ふいに、視界の砂が一年前の砂と重なった。
同じ競馬場。同じ大晦日。同じ潰され方。あの日の私は進路を塞がれ、揉みくちゃにされ、掲示板の外に吐き出された。悔しさより先に、呆然が来た。ああ、こういうふうに負けるのか、と。
一年かけて強くなった。誰にも負けない力をつけた。
その結論が、同じ場所で、同じ檻の中にいる。
時間というやつは駆け抜けるくせに、律儀に元の場所へ連れ戻す。趣味が悪いにも程がある。
――3コーナー! ここで動いた、外からチアーリズム! チアーリズムが早めの仕掛けで上がっていく! これに釣られて馬群が動き出した、ペースが上がる!
ブラッシングローズは現在まだ後方!徐々に上がる構えを見せている!
――さぁ、ブラッシングローズがグイグイグイグイ押している!
4コーナー、先頭は替わってアスタルテリーネ!アスタルテリーネが一気に先頭に躍り出た!
カスミノヒメも外に持ち出して、さあ大井の直線、最後の直線に入ってくる!
ブラッシングローズはどうするんだ! ブラッシングローズはどうする! 残り286mしかありません!!
残り三百。
檻が、勝負の重さで軋み始めていた。誰かが先に動けば、正しさの総和には必ず綻びが出る。分かっている。分かっているが、その綻びはどこだ。右か。左か。考える時間はもう――
音が、消えた。
歓声も、砂を叩く音も、自分の心臓さえも、電源を落としたみたいに消えた。世界がやけに明るい。十四人のウマ娘が、止まって見える。舞い上がった砂の一粒一粒が、空中で行儀よく整列している。
何かが割れたのだ、と思った。
そして私には、見えていた。
前方の馬群。その重なり合った体と体の隙間に、糸のように細い、一本の進路が通っている。針の穴だ。常識で言えば通れない。だが今の私には、その穴が凍った川面みたいに冷たく、はっきりと、そこにあると分かる。誰の記憶も流れてこない。誰の声も聞こえない。ただ道だけが、私に先を譲っている。
考えるより先に、体が穴に向かって畳まれた。
――残り二百を切った! 先頭アスタルテリーネ粘る粘る!
外からカスミノヒメ、カスミノヒメが交わしにかかる!
大外クラヴァットも来ている!
ブラッシングローズは来ないのか! ブラッシングローズは来ないのか――
ブラッシングローズ来た!ブラッシングローズ来た!ブラッシングローズ来た! 抜け出すか!カスミノヒメと!
ブラッシングローズか! カスミノヒメか! ローズか! ローズか! ローズか! わずかにブラッシングローズか――
音が戻ってきたのは、ゴール板を過ぎてからだった。
歓声と、自分の心臓と、隣で荒く上下するカスミノヒメの呼吸。世界の音量が一斉に元へ戻って、私はようやく、自分がとんでもない場所を走り抜けたことを理解した。
掲示板の1着と2着の欄は、空白のまま沈黙している。
スタンドも沈黙している。十数万――は言い過ぎだが、大井を埋めた人々の全員が、同じ二つの数字を待って黙り込んでいる。大晦日の夜に、これだけの人間を黙らせる娯楽が他にあるだろうか。
隣のカスミノヒメが、肩で息をしながら言った。
「……言った通り、逃がしませんでしたから」
「おう。首の皮一枚な」
LEDが点滅を始めた。
| 第11レース | ||||
| 確定 | ||||
| Ⅰ | XX7X | |||
| > | クビ | |||
| Ⅱ | XX14X | |||
| > | 1 1/2 | |||
| Ⅲ | XX5X | |||
| > | 1/2 | |||
| Ⅳ | XX10X | |||
| > | 1 | |||
| Ⅴ | XX3X | |||
| タイム | ||||
| 1:39.8 | ||||
| バ場 | 良 | |||
スタンドが割れた。
ウイニングラン。
冠の数を指で立てるのは、もうやめにした。三本の次は四本、四本の次は五本と数えていったら、そのうち両手でも足りなくなる。数えているうちは、たぶんまだ何かを証明したいのだ。
だから私は、ただ拳を突き上げた。
夜空に向かって、まっすぐに。
歓声が音の壁になって降ってくる。一年前、この競馬場で掲示板の外に吐き出された小娘のことを、この中の何人が覚えているだろう。誰も覚えていなくていい。私が覚えている。それで勘定は合っている。
引き上げる途中、カスミノヒメが待っていた。
「来年は中央なのでしょう」
「フェブラリーな」
「なら、勝ってきなさい。ヒメの、クビ差のぶんまで」
言い捨てて、彼女は先に歩いて行った。ツンの分量が年々減っている気がするのは、気のせいだろうか。
ウイニングライブのリクエスト用紙*1を前に、私はしばらくペンを迷わせ、それから一息に書いた。
――岸田教団&THE明星ロケッツ『STONE OCEAN』。
受付のお姉さんは用紙を二度見して、「……アイドル曲では、なく?」と確認してきた。なくていい。今夜の私に、可愛い曲は似合わない。
恐らく課題曲の『BRIGHTEST HEART』のことだろうが、正直あの曲は少し古臭いしこっちのほうが歌ってみたいんだから仕方ない。
ステージに上がると、客席は明らかにきらきらした曲を待つ顔をしていた。すまないな。今夜の女王はロックである。
イントロのギターが走り出した瞬間、客席の空気が一拍ざわつき、次の一拍で全部持っていかれたのが分かった。
石の海を穿って進む歌だ。分厚い壁を、檻を、正しさの総和とやらを、まとめて撃ち抜いていく歌だ。
選んだ理由なんて説明してやらない。今日の私のレースを見た人間なら、イントロだけで分かるはずだ。
強くて、まっすぐなコードの上を、私は走るように歌った。上手いかどうかは知らない。ただ、大晦日の冷えた夜気の中で、白い息と手拍子がひとつのリズムに揃っていくのが、ステージの上からはっきり見えた。
走りで人を熱狂させたい。それが私の原点だったはずなのに、歌でも人は熱狂するらしい。ちょっとした誤算だが、悪い気はしなかった。
歓声の光の洪水の中で、ふと、さっきの静寂を思い出した。
音が消えた世界と、この轟音の世界は、たぶん同じ場所にある。裏と表みたいに。
最前列で、オジョウが振り切れた振り付けで踊り、リリィがスマホを掲げ、サンリンドーが柄にもなく口笛を吹いていた。その隣で、ベルが笑っている。昨日、大賞典を走り終えたばかりの顔で、誰よりも大きく手を叩いている。
――ベル。
歌いながら、私は思った。
お前に、聞かなきゃならないことができた。
あの割れた世界のこと。針の穴のこと。お前がずっと見ていた、あの景色のことを。