ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
松の内が明けると、正月というものは音も立てずに撤収していく。参道から屋台が消え、寮の玄関から門松が消え、最後にB303から炬燵が消えた。サンリンドーが「これがあると人類は駄目になるんだわ」と宣告して、部室の隅へ追放したのである。炬燵に罪はない。罪があるのは炬燵から出られなくなる我々の側なのだが、裁かれるのはいつだって道具の方だ。世の中はそういうふうにできている。
炬燵の代わりに部室の中央へ引き出されたのは、年季の入ったホワイトボードだった。
「はい、注目。フェブラリーステークス対策講義、第一回」
サンリンドーはマーカーのキャップを歯で咥えて抜くと、ボードに横長の楕円を描いた。楕円というより、伸びきったゴムバンドである。指導力と画力は、別の才能らしい。
「東京競馬場、ダート千六百。さて、うちの庭とは何が違うでしょうか。はい、ベル」
「全部です」
「満点だわ」
満点の回答に肉付けする形で、講義は進んだ。
いわく、スタート地点は向正面の奥に引っ込んだポケットの中。いわく、コーナーはたったの二つ、ワンターンで勝負が決まる。いわく、直線は五百メートル超で、ご丁寧にゴール前には坂まで生えている。川崎の直線がざっと三百だから、あの「もうゴールか」という感覚のあとに、レースがもう半分丸ごと残っている計算になる。
「で、極めつけがこれだ」
サンリンドーはゴムバンドの端に短い線を引き、緑のマーカーで塗り潰した。
「スタートから約百五十メートルは、芝」
「芝」
「芝だ。ポケットから飛び出して、芝を百五十走って、それからダートに合流する。中央の連中には当たり前の道でも、砂しか走ってこなかった南関のウマ娘には、ここが最初の関門になるんだわ」
ボードの上の緑は、たかだか数センチの線だった。数センチのくせに、コースの入口に検問所みたいな顔で居座っている。
「作戦だが」とサンリンドーは私を見た。「ローズ、お前は前で競馬する」
「私が? 逃げ先行は柄じゃない」
「中央のマイル勢の先行力ってのは、鉄砲玉みたいなもんでな。ダートに入ってから位置を取り合ったんじゃ、揉まれて終わる。だから芝のうちに取る。百五十メートルの芝は、関門であると同時に、位置取りの早い者勝ち区間でもあるのさ」
なるほど、と思った。針の穴を通るのが得意な私に、今度は最初から穴の前に並んでおけという話だ。ずるいくらい真っ当な作戦である。
「僕は?」
「ベルはいつも通り、ためて後ろから。お前の末脚は中央でも通る。慌てて隊列に混ざる必要はないさ」
前で運ぶ私と、後ろでためるベル。同じレースの中で、二人の道は最初から分かれている——ということを、この時の私は、単なる作戦の話として聞いていた。
翌朝から、多摩川に通う日々が始まった。
真冬朝五時の河川敷は、空気が刃物である。吸い込むと肺の内側がひやりと目を覚まし、吐く息は白い塊になって背中の方へ流れていく。ガス橋の向こうの空が藍色から灰色へ薄まっていくのを横目に、私たちは河川敷の芝へゲート板を運び込んだ。
一年前も、ここで芝を踏んだ。あの時はベルの弥生賞のためで、結果はご存じの通りの九着である。同じ河川敷、同じ芝、同じ朝の匂い。道具立てが同じでも、載せる目的が変われば景色は別物になる。あの冬の芝は「苦手をどうにかする」ための芝で、今年の芝は「中央GIを獲る」ための芝だ。出世したものである。芝が、ではない。私たちが、だ。
練習は単純だった。芝の上に置いたゲート板代わりの段ボールから飛び出し、百五十メートル先に引いた石灰の線——ダート合流の代役だ——までを全力で駆ける。それだけの反復。
ベルは走れていた。
ストップウォッチを読み上げるサンリンドーの声が、回を重ねるごとに上機嫌になっていくのが分かった。砂の上と遜色ない加速。芝を恐れて腰が引ける素振りもない。中山の芝スタートを一度経験している、というのは伊達ではないらしい。
ただ一度だけ、朝露の残る区間でベルの足元がわずかに滑った。上体がひやりと揺れて、すぐに立て直った。
「おっと」とベルは笑った。「朝露です。芝のせいじゃありません」
「だな」とサンリンドーも笑った。「五時の芝で滑らんウマ娘はいない」
私も笑った。誰も気に留めなかった。強いて言えば——克服という言葉はたぶん、全部が終わった後にしか使ってはいけない——というようなことを、白い息の中で一瞬だけ考えた。一瞬だけだ。次のダッシュの号令で、そんな考えは吐く息と一緒に背中の方へ流れていった。
同じ頃、私の知らない場所で、いくつかの紙が動いていた。
スポーツ紙の一面。『川崎の女帝、中央に殴り込み——年間グランドスラムの余勢駆るか』。見出しの隣で拳を突き上げている私の写真は、我ながらずいぶん人相が悪い。
「よう。例のタマ、本当にフェブラリーに来るんだってな」
電話の向こうでヤハギが言った。サンリンドーは受話器を肩に挟み、ストーブのやかんに水を足しながら答えた。
「BC行かせてもいいタマだって、先に言い出したのはそっちですよね」
「言ったさ。で、実際どうなんだ」
「さあ」やかんが、こん、とストーブの上で鳴った。「答えはフェブラリーでわかりますよ」
出走選定の通知が届いたのは、一月も末のことだった。
サンリンドーが通知の紙をひらひらさせながら入ってきた瞬間、B303は沸騰した。折よく遊びに来ていたオジョウが真っ先に私へ飛びつき、リリィがスマホを掲げ、ベルが両の拳を胸の前で握り込んだ。
「決まったァ! ウェーイ!! あーし、新しい幕作るから! 『走れカワサキ一番星』の隣にもう一枚、府中に持ってくやつ!」
「デザイン案は三分でできる」とリリィがスマホを操作し——三十秒後、真顔になった。「……詰んだ。中央、応援幕禁止*1」
「は?」
「規則。パドック掲出不可」
一同がサンリンドーを見た。トレーナーは頭を掻いた。
「ま、そういうことだわ。幕がパドックにはためくのは、南関の風物ってことさ。設備は向こうが上でも、文化はこっちにある——とでも思っとけ」
オジョウは分かりやすくしぼんだ。風船から空気が抜けるみたいに、肩から順に小さくなって——三秒で膨らみ直した。
「じゃあ幕は川崎でお留守番! 勝って帰ってきた時に、駅前でばーんって掲げるやつ! 凱旋門!」
「凱旋門は別の競馬だな」
「それはそうとさ」と、祭りが一段落した頃、リリィが言った。「服、どうすんの」
「服?」
「中央GI。向こうは全員ちゃんとした勝負服。うちら、レース用の体操服」
言われてみればそうだった。南関のレースは体操服で走るのが当たり前で、勝負服なんて洒落たものは中央の文化である。ダービーのパドックで見た十八人は、確かに全員が一張羅だった。
「体操服のまま中央GI勝ったら、逆にレジェンドになれる」とリリィが言った。
「それはそれで見たいけども!」とオジョウが言った。
「まあ、待て」
サンリンドーが立ち上がり、トロフィー棚の陰の古いスチールロッカーを開けた。がこん、と重い音がして、埃をかぶった衣装箱が出てきた。蓋を開ける。
白が、あふれた。
ロングスカートのセーラー服だった。白地に、桜色のリボン。丈の長いスカートには、走る時のためだろう、深い切れ込みが入っている。清楚と喧嘩装束を三対七で配合したような——要するに、スケバンである。
「昔から部室にあったんだわ。チームの勝負服ってことにしとけ」
「着ろってこと?」
「ま、着てみりゃ分かるさ」
オジョウが「試着! 試着!」と手を叩き始めたので、議論の余地は流れた。
着た。
鏡の前に立つと、白いスカートの裾が足首のあたりで揺れた。切れ込みから覗く脚が、我ながら喧嘩っ早く見える。悪くない。悪くないと思ってしまったことが、少しだけ悔しい。
「ウェーイ!! 女帝、様になってる!!」
「優勝✌️」リリィのスマホが連写音を立てた。
ベルも着た。短髪の美少年風の顔立ちに、ロングスカートのセーラー服。ちぐはぐなはずの取り合わせがなぜだか妙に馴染んでいて、オジョウが「尊い」と呻いた。
スケバンというのは、要するに喧嘩の正装である。中央に中指を立てる、と言って入学してきた人間に、これほど似合う正装もあるまい。桜色のリボンを結び直しながら、私はそんなことを考えていた。
「なあ、これ、誰のだったんだ」
聞くと、サンリンドーは一瞬だけ目を細めた。ストーブの火を見るような、遠い細め方だった。
「昔から部室にあった。それだけだわ」
それだけ、の中身を追及するには、この夜はめでたすぎた。聞くなら今じゃない。そんな気がして、私は口をつぐんだ。
机の上には出走登録の紙面。ブラッシングローズと、ライトニングベルの名前が並んでいる。その横に、箱から出されたばかりの、一着の白いセーラー服。
二月は、もう玄関の外まで来ていた。