ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
府中本町の駅を降りると、競馬場までは専用の連絡通路が続いている。
中山には船橋法典の地下通路——通称「勝利の回廊」があるが、府中のこれは回廊などという床しいものではない。道幅からして貨物列車が通れそうで、天井は高く、人の流れは途切れず、要するに「参道」である。十三万人を呑み込むための参道。神体は緑のターフと、砂と、ゴール板だ。ご丁寧にダービーウマ娘の顔写真がお出迎えしている。
この参道を、私は一度歩いたことがある。去年の五月、日本ダービーの日。あの日の私は招待客だった。来賓席から、十三万人の歓声を「眺めて」いた。
あの日、私は音の外にいた。
今日は、音の真ん中に立つ。
「ローズさん、通路、こっちだそうです」
ベルが案内板を指した。関係者、の三文字の矢印は、参道から逸れて地下へ潜っていく。観客の川と分かれて、私たちは競走ウマ娘の道へ降りた。地下馬道というやつだ。コンクリートの壁、等間隔の照明、頭上を歩く十三万人の足音が、低い振動になって天井から降ってくる。川崎の地下道は南武線の音がするが、府中の地下道は人間の音がする。設備は文句なしに立派だった。立派すぎて、壁のコンクリートまで偏差値が高そうに見える。
うちの装鞍所*1なんて、ストーブの位置で席次が決まるというのに。
装鞍所の通路に入ると、視線が来た。
来た、というより、刺さった。中央の関係者、記者、警備員。全員が全員、口には出さずに同じことを考えているのが分かる。——来たぞ、地方の二人組。
無理もない。私は、例の勝負服を着ていた。
白地に桜色のリボン、足首まであるロングスカートのセーラー服。スカートの深い切れ込みが、歩くたびにひらりと開く。周囲の中央勢はサイバーだのゴシックだの、色とりどりの一張羅だ。その中でうちのは、色数で言えば白一色。時代で言えばたぶん三十年前。ジャンルで言えば、スケバンである。
記者の一人がカメラを構えたまま隣に何か囁き、囁かれた方が吹き出しかけて咳払いに変えた。なんだあの長スカート、とでも言ったのだろう。言われて結構。中央のパドックに、応援幕は張れない。オジョウの幕は川崎でお留守番だ。だったらせめて、この白が旗の代わりだ。歩く応援幕、走る川崎。そう思うと、スカートの裾が翻るたびに、ちょっとだけ誇らしい。
「注目されてますね」とベルがいつものジャージメイドの勝負服姿で小声で言った。
「されてるな。入場料を取りたいくらいだ」
パドックは、円形の劇場だった。
川崎のパドックは砂利敷きの庭みたいなもので、柵の向こうの客とは世間話ができる距離にある。府中のそれは、すり鉢状の観客席が周回路をぐるりと見下ろす構造で、囲まれる側からすると、値踏みというより検分である。しかも今日の検分官は万単位でいる。二月の白い空の下、吐く息と人いきれが混ざって、パドックの上空だけ靄が薄くかかっていた。
私は歩きながら、敵を見た。
一周先の前方に、その背中はあった。
ダノンガロン。中央のマイル路線を勝ち続けている、現役最強格。単勝一番人気。
一目で分かった。何がと言われると困るのだが、歩き方が違うのだ。速いわけでも、大股なわけでもない。ただ歩いているだけで、パドック全体の重心が彼女の足元に寄っていく。周回する十六人のウマ娘がいて、観客の視線の総量は決まっていて、その配分が彼女のところだけ不公平にできている。
ラムダを思い出した。あれも場の重心を奪うウマ娘だ。ただ、ラムダの絶対が燃えるような絶対だとしたら、こっちは違う。静かな絶対。誇示しない。威嚇しない。歩様のひとつひとつが「証明は済んでいる」と言っている。証明済みの定理は、声を張る必要がないのだ。
その後ろを、シャダイコンパスが行く。中央マイルの二番手常連、府中千六は庭。さらにジャンケンシチー、先行力の鉄砲玉——サンリンドーの講義に出てきた「揉まれて終わる」の主犯格候補である。名前と歩様を、頭の中の出走表に一人ずつ留めていく。ベストインテソーロ、ミッキーアトラス。今日だけの相手ではない。中央に上がってくるというのは、この顔ぶれと今後何度も当たるということだ。
そして視線の配分の話をするなら、不公平のもう一方の極が、私たちだった。
「地方の二頭」に向く視線は、ダノンガロンに向くそれとは温度が違った。あちらが検分なら、こちらは見物である。珍しいものが来た、という顔。何番人気だろうと関係ない。挑戦者と見世物の間の、居心地の悪い椅子に座らされている感じがした。
椅子の座り心地を変える方法を、私は一つしか知らない。走って、証明することだ。
「ローズさん」
周回の途中、半歩後ろでベルが言った。声が少し高い。緊張と高揚を混ぜて煮詰めると、人間の声はだいたい半音上がる。
「なんだ」
「姉も、昔ここを歩いたんです」
一言だけだった。ベルはそれきり口をつぐんで、まっすぐ前を見て歩いた。
聞き返そうと思えば聞き返せた。でも、しなかった。パドックというのは因縁を仕込む場所ではあっても、因縁を紐解く場所ではない。それに、ベルの横顔は説明を求めていなかった。ただ、置いた。この周回路のどこかに残っている足跡の上に、自分の足音を重ねるみたいに。
「ベル」
「はい」
「ワンツーな」
軽く言った。護摩の炎の前でも言った、夏の線香花火の夜にも言った、耳にたこができるほど確かめ合った約束だ。だから今さら、重々しく言う必要なんてない。軽く言えばいい。
軽く言ったはずなのに、口に出した途端、言葉が妙な重さで冬の空気にぶら下がった。約束というのは繰り返すほど軽くなるはずのものなのに、こいつだけは逆で、繰り返すたびに利子がつく。
「はい」とベルは笑った。「できれば、ワンツーで」
止まれ、の号令。停止命令だ。
誘導ウマ娘に先導され、すり鉢の底から本馬場へ、地下馬道をもう一度くぐる。
検量室の前には多数の中央のウマ娘の目、目、目。それに全員耳も向けている。
そして地下からスロープに出て、息を呑んだ。
緑と、砂と、空。府中の馬場は広かった。広いという言葉が申し訳なくなるくらい広かった。川崎のコースがうちの庭なら、こっちは平原である。向正面の奥、ポケットの中に、ゲートが小さく見えた。あそこから百五十メートルの芝を渡って、ダートに合流する。ホワイトボードの上では数センチだった緑の線が、実物では、冬枯れの色を残したまま横たわっていた。
返し馬を終えて、ゲート裏に入る。
十六人分の息が白い。誰も喋らない。中央のGIのゲート裏は、川崎のそれより静かだった。強い者ほど静かになる、というのはどこの世界でも同じらしい。
ふと見ると、ベルが芝の方を見ていた。
芝とダートの切れ目。緑が途切れて砂に変わる、あの境界線を、じっと見ていた。長い時間ではない。数秒だ。それから彼女は視線を戻して、私と目が合うと、いつもの丁寧な笑い方をした。
「確かめただけです」
「おう」
スタンドからは手拍子が始まっている。スターターが台に上がり始めたということらしい。
係員が黄色い旗を振った。枠入り開始。
冬の空の下、ファンファーレと大歓声が向正面まで流れていた。