ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
「NO SIGNAL」は通信状況によりトラッキングセンサー情報が取得できないそのウマ娘番号が表示されます。
全出走ウマ娘の位置情報が取得できている間は表示されません。
↓矢印は進行方向を示します
<< 600←現在の通過距離を示します
①②③④ ⑤ ⑥ ⑦⑧⑨ ⑩ ⑪
⑫ ⑬⑭ ⑮⑯⑰ ⑱
58.3km/h←先頭馬の時速を示します
東京優駿←レース名を表示します
――ファンファーレの最後の一音が、二月の白い空に吸い込まれていきます。東京競馬場、第11レース、フェブラリーステークス! 今年最初の中央GI、ダート千六百メートルに、十六人の精鋭が顔を揃えました!
ゲートインが進んでいます。2番ジャンケンシチー、4番ミッキーアトラス。5番、地方・川崎から参戦ブラッシングローズ!
一番人気7番ダノンガロン。王者は静かに、実に静かにゲートへ入りました。8番ベストインテソーロ、態勢よし。10番シャダイコンパス、続いて12番、川崎のライトニングベル、地方参戦ウマ娘がもう一人!
14番テリオスキッド、最後に大外16番ダイナファルクラムと収まって、ゲートに揃いました態勢完了!
スタートしました! 好スタート、まずは百五十メートルの芝の攻防です!
押して出たのはジャンケンシチー、ジャンケンシチーがハナを主張!
2番手にベストインテソーロ、そしてブラッシングローズが3番手の内、シャダイコンパスが続いて、ダノンガロンは中団この位置です。
――各ウマ娘、まもなく芝からダートへ合流します!
芝の緑が、切れる。
スタートの瞬間から見えていた境界線が、足の下へ滑り込んでくる。緑から、砂へ。踏み替えの、一歩。多摩川の河川敷で何百回も繰り返した、ただの一歩だ。
その一歩の下で、足元の感触が、一瞬だけ嘘をついた。
時間が、伸びる。
この静けさを僕は知っている、と思いかけて、すぐに違うと分かった。領域〈ゾーン〉の静寂は、世界のすべてが味方になってくれる静けさだ。これは、その裏側だ。誰も、何も――
世界が、傾いた。
脚の裏に砂の感触が戻ってきた瞬間、私は安堵に近いものを覚えていた。百五十メートルの検問所は、通過した。ここから先は勝手知ったる砂の国で、私は注文通りの三番手にいて、前にはハナを切ったジャンケンシチーの背中と、それを追うベストインテソーロの背中がある。上々の滑り出しである。
後ろの方で、声がした。
「危ないっ」「よけてよけて!」
ああいう声は、南関では日常の一部だ。浦和の0.5コーナーでも、川崎の三角でも、隊列が詰まればウマ娘は叫ぶ。挨拶と悲鳴のちょうど中間にある、あの独特の声。一年半、砂の上で揉まれて身についた慣れが、私に囁いた――気にするな、前を見ろ。
その慣れというやつが、よりにもよってこんな形で裏目に出ることを、この時の私はまだ知らない。
――各ウマ娘ダートコースに入りました。
おっと、後方で一人転倒――12番ライトニングベル故障発生でしょうか、12番ライトニングベルは転倒! 競走を中止しました!
先行集団先頭はジャンケンシチー、リードは一馬身半!
2番手ベストインテソーロ、3番手の内にブラッシングローズ。
ダノンガロンは中団の外、持ったまま、まだ持ったままで向正面を進んでいく――
走っている当人にとってのレース実況というのは、歓声とどよめきと風の音を混ぜ合わせた、一本の大きな音の川でしかない。十六の名前がその川を流れていく。流れていった名前のひとつが――他のどの名前よりも私に近い名前が――「中止」という言葉と結ばれて場内に読み上げられていたことを、私は知らないまま、前だけを見て走っていた。
向正面は、長い。川崎なら二回は曲がっている距離を、府中は平然と直進させる。ペースは淀みなく流れ、隊列は縦に伸び、正面からは二月の乾いた風だけが吹いてくる。私は三番手で呼吸を整えながら、頭の中でいつものレースを組み立てていた。四コーナーで前を射程に入れる。直線で抜け出す。そして最後は――後ろから、ベルが来る。
いつも、そうだったのだ。私が前で踏ん張って、ベルが後ろから銀色の末脚で追い込んできて、ゴールの手前で二人の道が重なる。今日もそのはずだった。約束は、そういう形をしていた。
だから私は、疑いもしなかった。
――隊列は三コーナーへ、残り八百を切りました!
先頭ジャンケンシチー、マイペースの逃げ!
これを追うベストインテソーロ!
そして外から、外からテリオスキッドが楽な手応えでまくり上がってきた!
一気に4番手の外まで進出!
後方からはダイナファルクラムも動き出している!
四コーナーのカーブに入って残り六百、ダノンガロンも外に持ち出した!
さあ直線、東京の長い長い直線に向いてくる――!
直線は、長かった。
坂の手前で、視界の右側をダノンガロンが通過していった。並ぶ、という工程がそもそも発生しなかった。彼女は私の外側を、まるで別のレースを走っているような顔で流れていって、次に瞬きをした時にはもう、前を行く争いの中へ吸い込まれていた。
その前では、祭りが始まっていた。
粘るジャンケンシチーに、大外からダイナファルクラムが襲いかかり、それをダノンガロンがまとめて呑み込み、内からベストインテソーロがもう一度伸びてくる。スタンドの咆哮が、坂の上から波になって降ってくる。GIの直線というのはこういうものか、と、私は走りながらどこか他人事のように眺めていた。祭りは目の前で開かれているのに、私の招待状だけが、どこにも見当たらなかった。
私は押した。脚は確かに動いていたし、息も残っていた。それなのに、川崎なら、大井なら、ここから確実に伸びるはずの区間で、伸びているはずの私の脚は、祭りとの距離を一センチも縮めなかった。壁というものは、ぶつかって初めて壁だと分かるものだと思っていた。違った。中央の壁は、触れることすら許さない速さで、ただ私の前を流れ続けるのだった。
一人に交わされ、一人を交わし返し、坂を上り切って、それきりだった。
――残り二百と五十メートル、先頭はまだジャンケンシチー粘っている!
外から一気にダイナファルクラムが追ってきた!
代わって先頭はダノンガロン!
内から盛り返すベストインテソーロ!
二頭の叩き合い! ガロンか! テソーロか! ガロンか! テソーロか!
――二人並んでゴールイン! 1着2着は写真判定! 追い上げたダイナファルクラムは3着!
私は、七番目にゴール板を過ぎた。
掲示板にも載らない数字である。悔しさが胸の奥で名乗りを上げるのが分かった。この時の私の世界には、まだ、悔しがるなどという贅沢が存在していた。
ゴール板の先で速度を殺し、歩きに落として、息を整える。
吸って、吐く。白い息がひとつ、ふたつ。
場内は、写真判定のどよめきで満ちていた。十三万人が一斉に隣と喋ると音はこうなる、という見本みたいな音だった。ただ——何かが、少しだけ違った。歓声でも悲鳴でもない、色で言うなら灰色がかったざわめきが、祭りの音の底に一筋だけ混ざっている。和音の中で一本だけ調弦の狂った弦が鳴っているような、そういう違和感。写真判定というのは人を落ち着かなくさせるものだから、と私は思った。負けた人間の耳は、世界をだいたい悪い方へ翻訳する。
向正面の遠くを、白い車が走っていくのが見えた。救急車だ。緑の作業服の馬場スタッフが数人、同じ方向へ駆けていき、担架を抱えた医療スタッフがそれを追っていく。
何かあったのか。
その程度だった。他人事だった。私の頭は敗因の在庫調べで手一杯で、七着という数字を裏返したり、透かしたり、七回くらい数え直したりするのに、残りの全部を使っていた。
「川崎の子か?」
顔を上げると、ダノンガロンが立っていた。
その背後で、確定のアナウンスが鳴った。
写真判定の結果、第1着、7番ダノンガロン。着差は、クビ。スタンドが今日一番の音量で沸き、勝者の名前が音の波になって馬場へ降ってきた。
彼女は、振り返りもしなかった。自分の名前を載せた歓声を背中で受け流したまま、汗の一粒も見当たらない顔で、向正面の方を顎で示した。
「一緒に走ってた子が、競走中止してたぞ」
声には、非難も同情も混ざっていなかった。ただ事実だけが、まっすぐに置かれた。
「は?」
一拍、遅れた。言葉というのは、音として耳に届いてから意味になるまで、時間のかかることがある。その一拍のあいだだけ、世界は親切にも静止していてくれた。
「……嘘だろ」
走り出していた。
ゴール板とは逆へ。レースの流れとは逆へ。たったいま走り終えたばかりの馬場を、私はレースの時より必死に走った。順路も、規則も、あったものではない。係員が何か叫んだ気もしたが、あの声を聞き流した耳である。今さら、何を聞き入れてやるものか。
背中では、勝者を讃える歓声がまだ鳴っていた。走るほどにそれは遠ざかる。向正面にスタンドはない。祭りの音は届く前に薄まって、遠い海鳴りに変わっていく。祭りから遠ざかる方向へ全力で走っているのだということを、頭より先に、脚が理解していた。
芝とダートの境界線のあたりに、人が集まっていた。
スタッフの背中と背中の隙間に、担架が見えた。担架の上に淡いパステルの紫色が乗っていた。それがベルでないと思いたかった。だがそのデザインはジャージメイドのそれで――
祭りの音が届かないこの場所には沈黙が横たわっていた。たぶん、世界でいちばん重い静けさだ。
その静けさの底で、担架の白が運ばれていって――
視界が、暗転した。