ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
気がつくと、私は病院の待合室の椅子に座っていた。
府中の空が暗転してから、ここに座るまでの記憶が、ところどころ抜け落ちている。
検量室で誰かに肩を掴まれたこと。ワゴン車の助手席で信号の赤ばかり数えていたこと。受付でサンリンドーが書類に何か書いていたこと。
覚えているのはそれくらいで、あとは映写機のフィルムが飛んだみたいに、場面と場面の間が真っ暗だ。
ウマ娘の頭というのは、処理しきれない一日に出くわすと、勝手に編集を始めるものらしい。編集権はこちらにない。
待合室には消毒液の匂いが薄く敷き詰められていて、廊下の奥の自販機が時折、がこん、と紙コップを落とす音をさせた。壁の時計は二十時を回っている。日曜の夜の病院は静かで、静かな分だけ、遠くのナースコールの電子音がよく通った。
椅子が、硬い。
病院の椅子というのは、座る人間の不安に合わせて硬くなる仕組みになっているらしい。健康診断の日にはただの椅子だったものが、今夜は石でできている。
私は膝の上で拳を握ったり開いたりしながら、その石の上で診断を待っていた。
身体はいつの間にかジャージに着替えていて、着替えた場面の記憶は例の編集で飛んでいる。
それでもシューズの中には府中の砂が少し残っていて、爪先を動かすたびに、ざり、と小さく鳴った。
走り切ってしまった七着ぶんの砂だった。
七着。
自分の着順を思い出したのはこの時が初めてで、思い出した三秒後にはもうどうでもよくなった。着順というものが人生でどうでもよくなる日が来るとは、思ってもみなかった。
「ライトニングベルさんの、ご関係の方」
白衣が呼んだ。サンリンドーが立ち、私も立った。石の椅子から立ち上がるのに、ずいぶん力が要った。
診察室で聞かされた言葉の大半は、外国語だった。左脚。中手骨。骨折——そこだけ、日本語だった。
「命に関わるものではありません。神経や腱も無事です。固定と安静で骨は必ず癒合しますし、競走能力に影響を残さない見込みです。ただし」
医者は「ただし」の前で一拍置いた。医者というのは、一拍置く訓練を受けている人種だ。
「全治まで、数ヶ月。復帰にはそこからさらに時間がかかります。今シーズンの前半戦は、諦めてください」
戦線離脱、という言葉を、医者は使わなかった。使わなかったが、部屋の中に置いていった。
面会は明日から、と言われて、私たちは廊下に出た。
夜の病院の廊下は長い。等間隔の照明が床のリノリウムに白く映って、歩いても歩いても同じ景色が続く。府中の地下馬道を思い出した。今朝くぐった時、頭の上には十三万人の足音があった。ここの天井の上には、消灯前の病室の静けさしかない。
自販機の前でサンリンドーが立ち止まり、紙コップの珈琲を二つ買った。一つを私に押しつけて、自分のには口をつけずに、壁にもたれた。
「芝のスタートもできるから問題ない——そう考えた、俺が馬鹿だった」
「……阪神で走れてたろ。練習でも走れてた。誰が見たって」
「誰が見たって、じゃ駄目なんだわ。トレーナーってのは、誰も見てないもんを見るための係だ」
反論の言葉を探した。朝露で一度だけ滑った、あの多摩川の朝が浮かんだ。ベルは笑った。サンリンドーも笑った。私も笑った。誰も気に留めなかった。——気に留めなかったのは、三人ともだ。そう言おうとして、やめた。責任を三等分したところで、誰の荷物も軽くならない。
サンリンドーは紙コップの中を覗き込んだまま、ぽつりと言った。
「夢を追うってのは、ほんと、罪なもんだな」
その台詞を、私は前にも聞いたことがある。
一年前の二月。雪の残る多摩川の河川敷で、まったく同じ言葉を、まったく同じ声で。あの時は弥生賞の前で、今は中央GIの後だ。道具立てが変わっても、台詞だけが同じ場所に立っている。
サンリンドーの目は、廊下の突き当たりよりもっと遠くを見ていた。突き当たりには非常口の緑のランプしかないのだから、あの目に映っているのは、この病院のどこでもないはずだった。誰を見ているのか、訊けば答えたのかもしれない。でも訊かなかった。人の荷物の中身を検める権利は、たぶん私にはまだない。
緑のランプが、一度だけ瞬いた気がした。
「明日、また来るぞ」とサンリンドーは言って、珈琲を一息に飲んだ。「熱いな」
知ってた、と私は思った。
翌日の夕方、面会時間の始まりと同時に、私は病室の戸を叩いた。
ベルはベッドの上で身体を起こしていた。左脚は白い固定具に包まれて、布団の上に無防備に投げ出されている。窓の外には府中の街の灯りが点き始めていて、ベッドサイドには早くも果物の籠がひとつ——ファンからだという——鎮座していた。
「来てくれてたんですね」
声は、いつものベルだった。丁寧で、静かで、ちゃんと笑っている。それがかえって始末に悪かった。
「おう。……調子、どう」
「痛み止めがよく効いています。最近の病院ってすごいですね。あと、食事が思ったより美味しいです。今日は白身魚でした」
「そう」
「ワンツーは、お預けですね」
軽く言った。私が昨日ゲート裏で軽く言ったのと、同じ軽さで。約束を軽く扱うのは、重くしないための私たちの流儀だ。その流儀を、ベルは骨の折れた脚でベッドに寝たまま、正しく守っていた。
何か言わなければ、と思った。大丈夫だとか、待ってるとか、脚は治るって先生が言ってたとか。励ましの言葉の在庫は頭の中にいくらでも積んであるのに、手に取って検品すると、どれもこれも嘘の匂いがした。大丈夫かどうかは私が決めることじゃない。待つのは私で、待たされるのはベルだ。在庫は棚に戻すしかなかった。私は世界で一番役に立たない見舞い客として、丸椅子の上に黙って座っていた。
「悔しいのは」とベルが言った。
窓の方を見ていた。夕暮れの最後の色が、固定具の白をわずかに染めていた。
「悔しいのは、転んだことじゃないんです。走っているローズの背中を、今年は後ろから見られないことが、悔しく、ってェ……」
丁寧語が、最後で溶けた。
私は立ち上がって、ベッドの縁に浅く腰かけて、布団の上のベルの手に自分の手を重ねた。気の利いた台詞は最後まで出てこなかった。出てこなくてよかったのだと、今は思う。言葉の在庫が空の人間にできるのは、ただそこにいることくらいで、そして時々は、それで足りる。
消灯時間を報せる放送が流れるまで、私たちはそうしていた。
府中本町から、南武線に乗った。
下り電車は空いていた。ロングシートの端に座って、暗い車窓を眺める。府中の灯りが遠ざかり、やがて多摩区の住宅地の脇を通過する。窓の外はどこかの家の漏れる灯りで満たされていた。
電車が溝の口からの高架に差しかかって、音と色がが変わった。
規則正しい流れる窓の外を見て、それから私は座席の上で、握った拳を一度だけ見た。
明日から、私は一人で走る。