ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
三月の多摩川河川敷は、まだ風が冬の名残を引きずっている。
朝五時。土手の下の砂のコースに白い息を吐きながら、私はスタート地点に立っていた。隣には誰もいない。当然だ。併せる相手は今、府中の病院のベッドの上で、白身魚の病院食を褒めている。
「行くぞ」とサンリンドーが言って、ストップウォッチの親指を構えた。
私は走った。いつも通りに走った。呼吸の刻み、砂を掴む足裏の角度、コーナーで身体を倒す深さ。全部の部品がいつも通りに動いて、いつも通りのタイムが出た。サンリンドーがウォッチを覗き込んで、「悪くないわ」と言った。悪くない。その通りだった。数字は何ひとつ落ちていない。
なのに、走り終えた砂の上に立って、私は妙な空白の中にいた。
速い、というのは比較の言葉だ。誰かより速い。昨日の自分より速い。隣で削り合う誰かの呼吸より、半歩だけ前に出る。私はずっとそうやって「速さ」を測ってきたのであって、単独で刻まれる一分何秒という数字は、言ってみれば体温計の目盛りみたいなものだった。健康ではある。だが、それだけだ。
隣に誰もいない朝のコースで出すベストタイムは、誰もいない教室で言う「異議あり」に似ている。正しくて、虚しい。
私の走りは、もしかすると半分くらいが——
そこまで考えて、やめた。言葉にしてしまうと、本当にそうなってしまう気がした。人間の頭の中には、言語化した瞬間に確定する種類の真実というものがあって、賢い人間はそれを未確定のまま棚に置いておく術を知っている。私は賢くないので、棚に置く代わりに走った。次の一本も、その次も、悪くないタイムだった。悪くない、が三本続いた朝は、たぶん良くない。
「川崎記念は四月だ」
B303のホワイトボードの前で、サンリンドーはマーカーのキャップを鳴らしながらそう言った。
「地元だ。コースは目をつぶっても曲がれる。中央の連中がわざわざ砂を踏みに来る番だわ。——次はここを獲る」
ホームで、迎え撃つ。理屈の上では、これほど分のいい話もなかった。私は頷いた。頷いた自分の首の動きが、どこか他人の操作みたいだったことは、誰にも言わなかった。
四月の川崎レース場には、春の夜のぬるい風が吹いていた。
パドックには『走れカワサキ一番星』の幕が掲げられ、周回の私に地元の声援が降ってきた。圧倒的一番人気。ティアラの女王、川崎の女帝、重賞五連勝——場内アナウンスが読み上げる私の肩書きは、どれも本物のはずだった。
レースについて、書くことはあまりない。
ゲートが開いて、いつもの位置を取りに行って、取れなかった。三コーナーで外から被されて、四コーナーで手応えが空になって、直線は、ただ長かった。フェブラリーSで二着だったベストインテソーロが、川崎の砂を府中の直線みたいに悠々と伸びて一着。私は塊の後ろで、八着でゴール板を過ぎた。
見せ場は、なかった。以上。
頭上ではカクテルライトが今夜も綺麗だった。緑と青と橙の光が砂の上に降りて、いつもなら私を照らすためにあると錯覚できたその光は、今夜はただの照明設備だった。照明というものは公平で、勝者も八着も同じ明るさで照らす。公平さというのは、時々、残酷と同じ顔をしている。
ウイニングライブの音が、遠くで始まった。
引き上げる私の背中に、スタンドの拍手が届いた。負けた地元のウマ娘にも拍手を送るのが川崎の客だ。ありがたくて、砂より重かった。幕の白い布が夜風に揺れているのを、私は見ないようにして引き上げた。
B303の戸を開けると、オジョウが飛んできた。
「ローズちゃーん!」
胸に頭突きの勢いで抱きつかれて、私は二歩たたらを踏んだ。尾花栗毛のつむじが顎の下でぐりぐり動く。
「八着とか関係ないし! あーしらがいるっしょ! ね!?」
空元気、というやつだった。声の張りが二割増しで、二割増しのぶんだけ、こちらの現状が正確に伝わっているのが分かる。優しさというのは時々、診断書より精度が高い。
パイプ椅子の上で膝を抱えていたリリィが、スマホから顔も上げずに言った。
「メンタルはデバフ。回復手段はwikiに載ってない」
「載せとけよ、そういうのこそ」
「載ってないから、みんな自己流でやる。……うち、こういう時に祈る家だからさ」
リリィはそこで言葉を切って、画面をスワイプした。祈る家。その三文字の向こうに白いドレスとパドックの光景がちらついた気がしたが、彼女はそれ以上何も言わず、私も訊かなかった。人の荷物の中身を検める権利は、まだない。二回目だ、この台詞を思うのは。
サンリンドーは、何も言わなかった。
部屋の隅で薬缶に水を足して、ストーブにかけて——四月にまだストーブが現役なのがこのプレハブである——湯呑みを四つ、音を立てずに並べた。負けた日の講評をしないトレーナーの沈黙には、二種類ある。見放した沈黙と、待っている沈黙だ。薬缶が鳴き始めるまでの間、私はロッカーの上の衣装箱を見ていた。白地に桜色のセーラー服。一着は洗って畳まれたまま。
茶が四つ、配られた。誰も乾杯とは言わなかった。