ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
五月の多摩川河川敷には、単走の足音しかしない。
併せる相手のいない朝練というのは、片方の靴だけで歩くようなものだ。歩けなくはない。ただ、歩幅の見当がいつまで経ってもつかない。四月の川崎記念でホームの大歓声を裏切ってから、私の朝はずっとこの調子だった。速さの意味だけが、どこかに置き忘れられている。
その日は日曜で、練習を早めに切り上げてB303に戻ると、テレビがついていた。
「あーしらも見よ見よ! 中央のGI!」
オジョウが誰へともなくリモコンを掲げている。隣でリリィがスマホから顔を上げもせずに「暇だから」と一言。二人とも、私が何も言わずにパイプ椅子へ座るのを黙って許した。気の遣い方が下手なチームで良かったと思うのは、こういう時だ。
――さあ、五月晴れの東京競馬場、第十一レースはヴィクトリアマイル! ティアラ路線のマイル王座決定戦です! 十八頭、フルゲートが揃いました!
テレビのスピーカー越しの絶叫は、実物より一段くぐもって聞こえる。府中の空気そのものは伝わってこない。伝わってくるのは、数字と名前だけだ。それでも画面の向こうの十八頭ぶんの緊張は、しっかりとこちらまで届いた。
レースは荒れた。一番人気が中団で脚を余し、二番手人気は道中で外に張られて終わった。実況の声がひっくり返るくらいの大波乱で、直線では聞いたこともない名前がいくつも浮かび上がってくる。競馬というのは、格付けを信じ切った人間から順番に裏切っていく娯楽だ。今日はその裏切りが、いつもより念入りだった。
――キャロットベルダンは中段で揉まれている! 大外9番テンラッキーポピー凄い脚! 荒れるぞォ!
画面の隅、追い込んでくる一頭の走り方に、目が止まった。
後方でじっと脚を溜めて、直線だけで根こそぎ持っていく。焦らない。慌てない。前が壊れるのを待ってから、静かに刃を抜くみたいな脚。どこかで見た走り方だ。
いや、正確には違う。私はこの脚そのものを見たことはない。ただ、似た脚を隣で数えきれないほど見てきた。鎌倉記念のレコード、大賞典の二着争い、この一年で何度も悔しがりながら見せつけられてきた、あの末脚の兄弟分みたいな走りだった。どこで、と考える前に、実況からその名が飛び出た。
――なんとなんとテンラッキーポピー! 14番人気から大仕事をやってのけました!
――二着もなんと18番人気エクスプレスベル!
聞き覚えのある苗字だった。いや、苗字ではない。名前の、後ろ半分だ。
「エクスプレス、ベル」
口に出してみて、ようやく像が結ばれた。フェブラリーSのパドックで、ベルが一言だけ置いていった台詞。「姉も、昔ここを歩いたんです」。あの一言の、続きがここにあった。
スマホを取り出す指が、自分でも驚くくらい速かった。
『さっきのVM、二着に出てたエクスプレスベルって』
送信して五秒も経たないうちに、既読がついた。
『僕の姉です』
それだけだった。丁寧語すらついていない、四文字と三文字の断片。スタンプもなければ、驚きの記号のひとつもない。淡白すぎる文字列の裏に、どれほどの温度が押し込められているか、画面越しでも分かってしまうのが、かえって恐ろしかった。
私は立ち上がっていた。
「どこ行くん?」とオジョウ。
「ちょっとな」
理由を説明する余裕はなかった。小向の寮を飛び出し、南武線に飛び乗る。日曜の昼下がり、車内は行楽帰りの家族連れでのんびりしていて、その呑気さが今の私にはひどく場違いに思えた。多摩川の鉄橋を渡る音が、いつもより急いているように聞こえるのは、たぶん気のせいだ。焦っているのは電車ではなく、私の心臓のほうである。
府中本町で降りて、病院までの道を走った。競馬の翌日でもないのに息が上がるのは、レース以外で全力を出すことに慣れていない証拠だった。
病室のドアを開けると、ベルはベッドの上でタブレットを膝に置いていた。画面には、さっきと同じレースのリプレイが流れている。何度も、何度も、二着の脚だけを巻き戻して見ていたらしい。
顔を上げたベルは、笑っていた。ただし、笑い方の配分がいつもと違う。嬉しさと、痛みと、その両方をどちらも隠せずに持て余している顔だ。
「姉さんです」とベルは繰り返した。「本当に、姉さんでした」
丸椅子を引き寄せて座ると、ベルはぽつぽつと語り始めた。ジュニア期の夏に早々に勝ち上がり、阪神JFでは人気薄ながら2着に入る期待の一番星だったこと。それが本格化する前に壁にぶつかり、いつしかGIや重賞から姿を消したこと。それから先は、小倉、福島、新潟といったローカルを転々としながら、目立たない条件戦を走り続けていたこと。
「両親は、姉さんのことばかり応援してました。僕が門別に行った理由の半分は、それです」
丁寧語は崩れないまま、声の芯のところだけがわずかに掠れていた。
「でも今日、姉さんが勝てなかった理由、分かった気がするんです」
タブレットの中にはヴィクトリアマイルのレース後談話が見えている。当然ベルの姉の談話もあった。
「――砂で頑張ってる妹の走りを参考にしました。あの子は私より大舞台で頑張っていたので」
私は言葉を失った。
銀のコレクターと呼ばれた脚が、こんなところで誰かを救っていたなんて、誰が予想できただろう。負け続けることに一番苦しんでいたはずのベルの走り方が、遠く離れた場所で、姉の脚質そのものを組み立て直していたのだ。
「両親、喜んでたそうです。二着なのに」とベルは言った。「勝たなくても、喜ばれることってあるんですね」
その一言が、病室の空気を静かに押し広げた。
「呪いが解けた気分です」
ベルはそう言って、タブレットを閉じた。
「僕、ずっと勝たなきゃ意味がないと思ってました。勝って、見てもらって、それで初めて、家族になれる気がしてて」
「今は違うのか」
「今日、分かったんです。姉さんは二着で、それでも喜ばれた。だったら、僕が四着だった時も、七着だった時も、たぶん――」
言葉の途中で、病室のドアが開いた。
サンリンドーだった。手に、輪ゴムでまとめた紙の束を抱えている。ファンレターにしては分厚すぎるし、封筒の書体も揃っていない。
「実はな」とサンリンドーは切り出した。「お前の親御さんから、ずっと便りが来てたんだわ」
ベルの表情が固まった。
「信じてなかったろ。だから黙ってた。悪かったな」
「……どこから」
「姉さん経由で、な。詳しいことは聞くな。俺も全部は聞いてない」
サンリンドーはそれ以上を語らず、束を棚の上に置いた。ファンレターの山のすぐ隣に、差出人の違う封筒の列が並ぶ。一目で見分けはつかない。ただの紙の束が二種類、同じ棚の上でくっついているだけだ。
ベルは手を伸ばしかけて、途中で止めた。一番上の封筒に指先だけ触れて、それ以上は動かさない。開けるかどうかを、今この場で決める必要はないのだと、私にも分かった。それでいい、と思った。全部読ませる必要はない。今日はまだ、隣にあるという事実だけで十分だった。
窓の外には、府中方面から続く多摩川の帯が見えた。夕方の光を受けて、川面がわずかに金色を帯びている。
ベルの呪いは、今日、確かに軽くなった。負けても喜ばれる人間が、この世界にはちゃんといる。それを姉の背中で証明された。
だったら、私の呪いはどうなのだろう。
勝ち続けなければ意味がない、と思っていたのは、私も同じだったはずだ。中央に中指を立てると啖呵を切って、以来ずっと、勝つことでしか自分を測ってこなかった。負けた時の自分を、誰かが喜んでくれると信じたことが、一度でもあっただろうか。
考えて、思い出そうとして、記憶の抽斗の奥で埃をかぶった一枚が引っかかった。多摩水道橋の向こう、浄水場の見える家。もう何年も帰っていない、あの家の玄関の匂い。思い出そうとするたびに、なぜだか玄関先までしか記憶が続かない。その先に何があったのか、私はいつからか、確かめることをやめてしまっていた。
答えは、すぐには出なかった。
出なかったが、行く場所が、ひとつだけあった。