ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います   作:トマスアレポ

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一体何だったんだろうな

府中の駅で南武線に乗り換えて、登戸で降りた。改札を出て駅の階段を下る間、私は自分の心拍を数えていた。数えるまでもなく速い。ゲート入りの直前でもここまで上がったことはない。レースは怖くない。困ったことに、今日という日は怖かった。

 

理由は分かっている。分かっているから始末が悪い。府中の病室でベルの話を聞いてから三日、私はずっと一つのことを考えていた。「呪いが解けた気分です」とベルは言った。二着でも喜ばれる家族がいるという事実だけで、あいつの中の何かが軽くなった。なら私の中の重いものは、いったいどこに置いてきたら軽くなるのか。答えを探しに行く場所は、消去法で一つしかなかった。

 

久しぶりに戻ってきた登戸の街並みは全てが置き換わっていた。雑多な商店街は消えて新築の雑居ビルやマンションばかり乱立している。

 

頭の奥で、古いフィルムが一コマだけ回った。小さな手を引く、もっと小さな手。誰かの匂い。声までは思い出せない。母の記憶は、私の中でいつもこの一コマきりで止まっている。それ以上再生しようとすると、フィルムのほうが焼き切れる。

 

私は交差点で立ち止まり、また歩き出した。

 


 

水道橋通りを進み、警察署の交差点で曲がると、遠くに浄水場の白い建物が見えてくる。あの角を折れれば、実家はもうすぐそこだ。寮に入ってから一度も帰っていない。三年近く帰っていない場所に向かって歩いているというのに、足だけは体に染みついた道順を正確に覚えていた。体というのは、心より律儀にできている。

 

門扉を開けると、庭は伸び放題の雑草だった。玄関の鍵は、私が知っている頃と同じ場所に同じ形で挿さっていた。開けると、埃っぽい空気が顔にかかった。

 

三年分の埃だ。三和土には靴が幾つも脱ぎ散らかされ、廊下の隅にはたたまれないままのゴミ袋がいくつも積んである。私の記憶の中の「敵の城」は、もっと整然として、もっと威圧的な場所だったはずだ。目の前にあるのは、ただ生活に疲れた家の匂いだった。敵にしては、あまりに手入れが行き届いていない。

 

リビングの明かりがついていた。ソファに、父が座っていた。テレビの音量は小さく、こちらに背を向けたまま動かない。表情は見えなかった。

 

「帰ってたのか」

 

低い声だった。振り返りもしない。

 

「ちょっと忘れ物。すぐ帰る」

 

我ながら、随分と乾いた声が出た。父はテレビ画面を見たまま、ソファの上で少しだけ座り直した。髪の色は自分と同じ灰色がかった白髪。ウマ娘ではなく人間(ヒトミミ)のそれは老いの記号だ。

 

「ここ自分ちだぞ。何なら今日は夕飯は」

 

「友達と約束あるから」

 

嘘だった。今夜、私に約束などない。それでも喉から先に出た言葉のほうが本音より速かった。父は少しの間黙って、それから言った。

 

「そおかあ。よかったなぁ」

 

会話はそこで途切れた。テレビの中で、知らない誰かが知らない話題で笑っていた。沈黙の重さを量る道具があったなら、この部屋には常設しておくべきだろう。私は突っ立ったまま、次の言葉を探す手間さえ惜しくなっていた。

 


 

用もないのに、目だけが勝手に部屋の壁を彷徨った。

 

そこで、初めて気がついた。

 

壁の一角に、切り抜きが並んで貼ってある。競バ新聞の記事。私のレースの写真。浦和桜花賞の一着入線、東京プリンセス賞のゴール板、関東オークスで三本指を掲げる瞬間。切り抜きは古いものから新しいものへ、几帳面な順番で貼り足されていた。そして棚の上、母の遺影の前にも、同じ切り抜きが一枚、供えるように置かれていた。

 

「あのさぁ」

 

声が、自分でも驚くほど小さく出た。

 

「……観に来てたんだ」

 

父はようやくこちらを向いた。三年分老けた顔で、少し困ったように笑っていた。

 

「恥ずかしがると思っててな」

 

それだけだった。理由も、言い訳も、それ以上は続かなかった。

 

私は棚の前に立ち尽くしたまま、自分の中で何かが静かに空気を抜かれていくのを感じていた。長年、私はこの家を、この人を、乗り越えるべき壁として組み立ててきた。頭ごなしに中央を強要し、勝手に願書を出し、私の夢に土足で踏み込んできた——そういう邪悪で強大な敵として。だが目の前にいるのは、ただ古い競バ新聞を几帳面に切り抜く、随分と小さく、弱い一人の男だった。

 

これまで自分は、一体何の確執と戦っていたんだろう。

 


 

「トレセン学園に来ないかって話、あったんだよ」

 

気づけば私は、そう口にしていた。今年の中央スカウトの話だ。父は少し間を置いて、テレビの音量をさらに一段落とした。

 

「俺にも来たな。まあ、お前が決めることだと言っておいたが」

 

「……マジ?」

 

思わず声が裏返った。父はばつが悪そうに肩をすくめた。

 

「地方でやりたいんだろ?」

 

問われて、答えに詰まった。

 

「……まあ、みんなすごいって言ってくれるし。それに……」

 

「それに? 何だ」

 

「……何でもない」

 

言葉は喉の途中で自分から引き返していった。まだ形にする準備ができていない何かだった。

 

「今年もまた中央のレース出るよ。その時は……」

 

続きが出てこなかった。観に来てほしい、とは言えなかった。三年分の距離が、その一言の手前で分厚い壁になっている。父はこちらを見て、それから短く言った。

 

「いくさ。どこでもな」

 

私は長く、長く息を吐いた。

 

「そう……ありがと」

 

それだけの短いやり取りだったが、部屋の空気は、来た時よりわずかに軽くなっていた気がした。何も解決していないのに。願書の話は結局出なかった。母の話も、これ以上は出なかった。それでいいのだと、今は思う。積年の確執というのは、裁くものではなく、こうして静かに置いていくものなのかもしれない。

 


 

二階の自分の部屋は、出て行った時と大して変わっていなかった。壁に貼ったままの古い出走表、埃をかぶった賞状、小さなテレビの上には、幼い頃さんざん擦り切れるまで見た岩手のレースの録画テープがまだ立てかけてあった。あの日、遺影を掲げて勝ったウマ娘の映像。私の原点は、こんな古い部屋の、こんな古いテープの中に、変わらず眠っていた。

 

手に取ろうとして、やめた。今日はもう、持ち帰るべきものは十分に持ち帰った気がした。

 

一体何だったんだろうなぁ、と思う。三年分の武装も、身構えていた対決も、蓋を開ければこの程度だった。拍子抜けするほど、ちっぽけな確執だった。

 

帰り道、多摩川の土手に出た。夕暮れの川面がオレンジに焼けていて、対岸のずっと先、府中のほうの空だけが、わずかに違う色をしていた。あの空の下に、東京競馬場がある。あの空の下に、まだベッドの上のベルがいる。

 

スマホを取り出し、短いメッセージを送った。

 

『前に進む』

 

それだけ打って、送信した。既読はすぐにはつかなかった。それでいい。返事を待つより先に、私はもう歩き出していた。

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