ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
これは根性の話じゃない
骨は予定表どおりに癒えるくせに、記憶の方は予定表を持っていない。医者はレントゲンを指して「綺麗にくっついています」と太鼓判を捺したが、あの写真に写るのは骨だけで、骨の持ち主が府中で見たものまでは写らない。世の中のレントゲンがもう少し高性能なら、写してほしいものは他にいくらでもあるのだが。傷というのは、癒える速度と忘れる速度が、いつも一致しない。
六月。川崎は梅雨に入っていた。
その朝は珍しく雨の切れ間で、小向の練習バ場には、湿った砂の匂いが立ちこめていた。多摩川は連日の雨で薄茶色に膨らみ、土手の紫陽花が申し訳程度に青い。梅雨の川崎というのは、街ごと洗濯機に入れられて、脱水を忘れられたような有様になる。
「四ヶ月ぶりの砂です」
隣を歩くベルは、上機嫌だった。ギプスはとうに外れ、地味な足慣らしの期間も終え、医者の「競走訓練を再開して構いません」も先週もらった。予定表の上では、今日が日常の再開日だった。
「入院中、夢に見たんですよ。砂の夢。走る夢じゃなくて、ただ砂の上に立っているだけの夢です。贅沢は言わないものですね、人間」
「ウマ娘だろ」
「ウマ娘でした」
そんな軽口を交わしながら、私たちは練習用ゲートの前まで来た。緑色の鉄枠が並ぶ、見慣れた機械である。私もベルも、ここから何百回と飛び出してきた。ゲートというのは要するにただの枠で、枠というのはただの鉄で、鉄には何の悪意もない。
——ないはずだった。
一枠にベルが入り、係員が扉を閉めた。
がしゃん、と鉄の鳴る音がした。
いつもの音だ。私は生まれてからこの方、この音を何千回と聞いている。世界が割れる音に似ている、と私はかつて形容したことがあるが、それは開く方の音の話で、閉じる方の音のことなど、考えたこともなかった。
ベルの肩が、跳ねた。
最初は武者震いかと思った。違った。肩が上下する間隔が、みるみる短くなっていく。呼吸の音が、すう、はっ、すう、はっ、と浅いところだけで往復して、深いところまで届かない。ゲートの鉄枠を掴んだ手の甲に、白く筋が浮いた。
「ベル?」
返事の代わりに、膝が折れた。
ベルはゲートの中でしゃがみこみ、両手で自分の胸元を押さえた。背中が丸まって、小さくなる。呼吸はまだ浅いままで、回数ばかりが増えていく。溺れている、と思った。砂の上で、空気の中で、ベルは溺れていた。
「開けろ! 前、開けてくれ!」
係員が慌ててレバーを引き、前扉が開いた。世界が割れる音がした。誰も飛び出さないゲートの、開く音だけがした。
私はゲートに駆け寄って、それから、伸ばした手の置き場を失った。
背中をさすればいいのか。触れない方がいいのか。声をかけるべきか、黙るべきか。四択問題を前に、私の手は宙で立ち往生した。レースなら、コンマ一秒で位置取りを決められる。相手の呼吸を読んで、隙に脚を差し込める。それが今は、しゃがみこんだ相棒ひとりを前に、どの選択肢にも脚が出ない。読めているのだ、呼吸は。読めた上で、何もできない。
「……すみま、せん」
ベルが、途切れ途切れに言った。しゃがんだまま、顔も上げずに。
「身体が、勝手に……頭では、大丈夫だと、分かって……」
「喋んな。息しろ」
私に言えたのは、それだけだった。
サンリンドーは、騒がなかった。
管理棟から歩いてきて、しゃがみこんだベルの傍らに同じ高さでしゃがみ、「吐く方を長くしろ。吸うのは勝手に入ってくる」とだけ言った。それから係員に軽く頭を下げ、ベルの呼吸が深いところに戻るまで、隣で黙って待った。待つのが仕事の一部だという顔で待っていた。
ベルが立ち上がれるようになった頃、雨がまた降り出した。私たちはゲートを離れ、埒沿いの屋根の下に移った。トタン屋根を雨粒が叩く音の中で、サンリンドーは言った。
「九月までは、ゲート練習は無しだ」
「……そんなに、ですか」とベルが言った。「僕はもう、走れるって、先生も」
「脚の話じゃねえよ」
サンリンドーはポケットに手を突っ込んだまま、ゲートの方を顎で示した。緑の鉄枠が、雨に濡れて黒ずんでいる。
「これは根性の話じゃない。時間の話だ」
反論が、喉元まで出かかった。
走らなきゃ戻れないだろ、と。恐怖というのは慣れて上書きするものだろ、と。私ならそうする。怖い場所には翌日もう一度行く。殴られたら殴り返す。それが私の知っている、唯一の治し方だった。
でも、言えなかった。
言えなかったのは、さっきのベルの背中を見たからだ。あれは「怖がっている」背中ではなかった。頭のベルは大丈夫だと言っていて、身体のベルが全力で拒否していた。同じ制服を着た二人が、ベルの中で綱引きをしていた。根性というのは頭の側の道具で、頭が既に負けている勝負には、たぶん使えない。
「焦る理由が、どこにある」とサンリンドーは続けた。「骨がくっつくのに三ヶ月かかった。骨より深いところなら、もっとかかって当然だわ」
正しさというのは、時々、腹が立つ。
反発する材料が何ひとつ見つからないまま、私はトタン屋根の雨音だけを聞いていた。ベルは「……はい」と小さく言って、頷いた。頷いた横顔が、悔しさと安堵を半分ずつ煮たような色をしていて、私はその色から目を逸らした。
翌週になっても、雨は降ったり止んだりを繰り返した。
私は毎朝、一人で走った。
ベルは別メニューだ。ゲートを使わない基礎の積み直しを、コースの隅で黙々とやっている。姿は見える。声も届く。それなのに、私の走りの中には、ぽっかりと空白があった。
三コーナーで、右隣を確かめる癖が抜けない。追い切りの直線で、視界の端に並んでくるはずの黒鹿毛を、身体が勝手に待ってしまう。いない、と頭が告げても、身体は聞かない。頭と身体が別々の生き物だというのは、何もベルに限った話ではなかったわけだ。
私の走りは、半分がベルでできていたらしい——春に、そう思った。
あの時は、比喩のつもりだった。今は違う。これは配合の話だ。ペース感覚は併せ馬の呼吸から作られ、仕掛けどころは隣の気配との駆け引きから作られ、ラスト一ハロンの我慢は「先に音を上げたら負け」という子供じみた意地から作られていた。材料の半分を抜かれた料理が、それでも同じ味になるはずがない。タイム計の数字は落ちていないのに、走り終えるたび、自分がどこを走ってきたのか分からない。身体が、迷子になっている。
雨上がりの朝練を終えて、私はタオルで首を拭きながら埒にもたれた。多摩川の対岸で、工場の煙突が白い蒸気を吐いている。川崎の空は、梅雨の間もちゃんと働いていた。
「ローズ」
振り向くと、サンリンドーが立っていた。レインパーカーのフードから、雨の名残が滴っている。
「明日は朝から付き合え。足を使うぞ」
「……は? どこに」
「朝、集合。以上だ」
それだけ言って、トレーナーは管理棟の方へ歩いていった。行き先も、理由も、置いていかなかった。足を使う、という言い方だけが、その場に残された。私は濡れた埒にもたれたまま、上流の方角を見た。薄茶色に膨らんだ多摩川が、雲の下をゆっくりと流れていた。