ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
トレーナーという人種は、肝心なことほど言わない。行き先を言わずに「付き合え」と言い、理由を言わずに「足を使うぞ」と言う。手口だけなら詐欺師と同じである。違いがあるとすれば、詐欺師は財布の中身を持っていき、トレーナーは体力を持っていく、という点だけだ。どちらも取られた側は泣き寝入りになる。
翌朝、土手の集合場所に現れたサンリンドーは、自転車に跨っていた。あのボロいワゴン車と同じ色に錆びた、ボロいママチャリである。前かごが歪んでいた。梅雨の晴れ間の空の下で、トレーナーは呑気にベルなど鳴らしている。嫌な予感しかしなかった。
「車は」
「たまには足で来い」
「あんたはその足じゃないだろ」
「俺のはトレーナー業だ。お前のは練習だ」
「どこまで」
「着けば分かる」
会話というのは、本来もう少し情報のやりとりをするための道具のはずである。私は文明の利器・南武線の存在を主張しようかと一瞬考えたが、言うだけ無駄だという顔をトレーナーがしていたので、黙って走り出した。
多摩沿線道路を、上流へ。
川は昨日までの雨をまだ引きずって、薄茶色のまま太っていた。対岸の工場地帯が遠のいて、河川敷の色が少しずつ緑に寄っていく。サンリンドーは私の斜め前を、ペダルを漕ぐでもなく漕がないでもない絶妙な速度で流し続けた。走者の心を折るのに最適な速度、というものがこの世にはあって、自転車はそれを出すために発明されたのだと思う。時々ハンドルから片手を離して、欄干の鳥など眺めている。トレーナーとは気楽な稼業である。
一時間ほどで、見覚えのある橋が近づいてきた。
多摩水道橋。つい先月、私が世界の境界線か何かのように思い詰めて渡った橋だ。今日見ると、ただの橋だった。橋というのは本来ただの橋で、勝手に意味を背負わせていたのは渡る側の都合である。私は立ち止まらずに走り抜けた。それができるようになったことを、誰に報告するでもなく、脚だけが知っていた。
さらに上流。是政橋。
長い斜張橋の向こうに、巨大な屋根が見えた。
東京競馬場のスタンドである。二月に、ベルが落ちた場所。胸の奥で何かが小さく軋んだけれど、サンリンドーは振り返りもせずに橋を渡っていく。私も渡った。屋根は、黙って建っていた。建物には何の悪意もない。ゲートと同じだ。悪意のないものを前にしたときの身の処し方を、私たちはまだ練習している最中なのだった。
分倍河原の駅前商店街は、狭かった。
狭いというより、密だった。看板と看板が額を突き合わせ、庇と庇が肩を組み、電線がその上で複雑な五線譜を描いている。奥行きというものが感じられない。まるで書き割りのセットだ、と私は思った。芝居の書き割りは裏に回ると木の骨組みしかないものだが、この商店街も一本裏へ入れば、案外あっさり多摩川の風が吹いているのではないか。
その書き割りの一角、駅から一分——というより駅から転がれば着く距離に、その店はあった。
『洋食マッスル』。
日に焼けたテント看板に、力こぶの絵。曇りガラスの引き戸の脇には、年季で艶の抜けた食品サンプルが並んでいる。海老フライが三十年前の角度のまま反っていた。
「知り合いの店だ」
サンリンドーはそれだけ言って、引き戸を開けた。それ以上は言わない。知り合いとは誰で、いつからの知り合いなのか。この男の過去に通じる扉は、いつも一枚だけ開いて、廊下の暗がりを見せて、すぐ閉まる。私も訊かなかった。訊かないことに、だいぶ慣れてきた。
店内はカウンターが三席、四人掛けのテーブルが六卓。厨房から油と玉ねぎの匂いが立ちこめて、壁の短冊メニューが日焼けの度合いで年代測定できそうだった。白衣の大将が顔を上げる。
「おう、来たか」
「大将、俺はいつもの。で、こいつには好きなもんを食わせてやってくれ」
「いつもの、で通じる客なんて、今どきあんたくらいのもんだよ」
大将は笑って、注文票に何も書かずに厨房へ向いた。いつからの「いつもの」なのか。この店の油の匂いには、うちのトレーナーの知らない年月が、たぶん相当量、揚げ込まれている。
「……好きなもの?」と私は訊き返した。
「今日は好きな物を食っていい日だ。体重管理は明日から思い出す」
世の中にこれほど美しい日本語があるだろうか。私はメニューの短冊を端から検分し、厳正なる審査の結果、ロースかつとハンバーグの相盛り、ライスウマ娘盛りを申告した。大将が「いい食いっぷりだ」と笑い、まず玉子スープの椀が置かれた。注文の前に肉が来ず、スープが来る。この店の礼儀作法らしかった。
ロースかつが揚がるより先に、引き戸が賑やかに開いた。
「腹減ったーッ! 今日も飛ばしたった!」
声だけで店の気圧が変わった。入ってきたのは、体格のいい栗毛のウマ娘——見覚えがある。マテンロウコーム。去年の目黒記念を十馬身の大逃げでぶち抜いて、府中を沈黙させた張本人だ。後ろから中央のジャージを着たウマ娘が二、三頭、笑いながら続いてくる。
「大将ー、マッスル丼! ウマ娘盛りで!」
「あいよ」
マッスル丼。壁の短冊の中で一枚だけ値段の桁が違う、この店の名物である。後に実物を見て知ったが、あれは丼というよりサラダボウルに白飯を敷き詰め、かつとハンバーグと海老フライを地層のように積んだ土木工事だった。
「聞いてよ大将ー、ポケモン馬鹿のやつ、今朝も坂路サボってカード剥いてたんだよ。ノリさんにどやされて、罰で厩舎の草むしり。息子だからって甘やかすからああなるんだって」
「ノリさんとこも大変だな」
中央のチームの話らしい。ノリ、という名前は掲示板で何度か見た。ベテランのトレーナーで、ナイトストレイドの——
と、そこまで考えたところで、一団の最後尾に気づいた。
騒がしい集団の真ん中ではなく、半歩後ろ。力の入っていない、ゆるい歩き方の黒鹿毛が一頭。歩幅は小さいのに、なぜか一番静かに、一番滑らかに店の敷居をまたいだ。
その黒鹿毛が、こちらのテーブルに目を留めた。
「おっ かわいいウマ娘ちゃんじゃーん? 君どっから来た……」
軽薄な声が、途中で止まった。
一拍。彼女の顔から、へらへらした成分だけが引き潮のように消えた。
「お前、ローズか?」
「何だ、知り合いか?」
サンリンドーが素朴に訊いた。素朴な疑問というのは、時々、どんな尋問より答えにくい。
知り合い。その言葉の守備範囲は広い。広すぎる。
——小学生の頃の話だ。多摩区の山側。同じ歳の友達になれるウマ娘は気性難の私の性格も相まって彼女ひとりしかいなかった。
ナイトストレイド。
毎朝うちの前まで来て「今日も走ろ」と言った。毎夕、別れ際に「明日も走ろ」と言った。それだけなら、いい思い出で済んだ。「他の子と走るのは無しな」と言うようになり、私が人間の友達と帰った日には口をきかなくなり、翌朝には何事もなかった顔でまた「走ろ」と言った。友情というものの湯加減を、あの頃の私たちはどちらも知らなかった。
学年が上がり歳を取るにつれて、彼女が私に向ける感情はフラタニティだとかシスターフッドだとかではなくもっと別の微熱を帯びた視線であることを察した。
思えば昔から距離が近く、スキンシップというにはやけに不自然なことがしばしばあった。それの意味するものが一つの結論を導くことに気づいた私は、少しずつ彼女から遠のいた。
やがて彼女は中央のトレセンに行き、私は川崎を選んだ。願書の件で親と揉めたのは事実だが、実はもうひとつ、誰にも言っていない理由がある。中央トレセンには、あいつがいる。それだけのことだ。それだけのことを、私は数年胸の奥の引き出しに入れて鍵をかけていた。
去年のダービーを、私は来賓席から観た。大波乱の勝者の名がターフビジョンに映ったとき、私は何も言わなかった。隣のベルにも、誰にも。見て見ぬふりというのは、走るのと同じで、続けるほど上手くなる。
「……昔、近所だった」
私が言えたのは、それだけだった。
「近所!」ナイトストレイドは笑った。「近所て。おい大将、この子、ウチの元・相ウマ娘やぞ」
「勝手に格上げすんな」
「まさか川崎に行っちゃって、そこでも大活躍してるとはなぁ。やっぱりウチの相ウマ娘眼は間違ってなかったな」
「その眼は今日び何を見てるんだよ」
「つれないなぁ。今からでもトレセンに入れよ。部屋、空いてるし」
「……別にええやん」
言ってから、自分で驚いた。ええやん。ずいぶん古い言い回しが、口から勝手に出た。小学生の頃、彼女の圧を受け流すときの、私の定型句だった。身体というのは頭より記憶力がいい。ゲートの音に竦むのも、昔の口癖が蘇るのも、たぶん同じ棚に仕舞われている。
ナイトストレイドは、一瞬だけ目を細めた。それから、からりと笑った。
「いいの、いいの。今やウチはダービーウマ娘なんだから、慕ってくる後輩なんて山ほどいるし?」
「ストレイドさん、こないだ後輩に貸したポケカ返ってきてないっすよね」とマテンロウコームが横から刺した。
「そろそろ飯にしろ。冷めるぞ」
サンリンドーの一言で、場は解散になった。私のロースかつは、確かに少し冷めかけていて、それでも衣の下から肉汁が滲んで、腹立たしいほどうまかった。斜め向こうの席で、ナイトストレイドは普通盛りのオムライスを、実にゆっくり食べていた。マッスル丼の土木工事を素手で解体していくマテンロウコームの隣で、その普通盛りは、なぜだか一番強そうに見えた。
帰り道、事件は起きた。
「俺は府中に別件がある。お前は先に走って帰れ」
「別件って何だよ」
「トレーナー業だ」
それだけ言うと、サンリンドーはママチャリに跨り、多摩川とは違う方角へ漕ぎ出して、書き割りの商店街の裏へ消えた。別件の中身は、例によって置いていかない。あの歪んだ前かごには、行きに掠め取った私の体力のほかに、まだ何か積んである気がしてならなかった。
そして、もうひとつ。
「ついでだから、途中まで一緒行くわ」
ナイトストレイドが、当然のような顔で隣に並んだ。断る理由を探しているうちに、彼女はもう走り出していた。昔と同じだ。こちらの返事を待たずに走り出して、こちらが追う形になる。
是政橋を渡り、多摩川の右岸を下る。行きに一時間半かけた道のりの、腹に揚げ物を抱えた復路である。私の呼吸は早々に音を立て始めた。脚が重い。フォームが崩れる。崩れたフォームを立て直そうとして、余計な力が入る。
隣の彼女は、けろりとしていた。
息の音がしない。足音も、ほとんどしない。信号待ちで止まっても、肩が上下していない。オムライスを食べたばかりの、ただの帰り道の速度のはずなのに、私が必死で維持している速度と同じなのだった。
中央最強格の「なんでもない日常」を、私は初めて、こんな至近距離で見た。
強さというのは、案外、気配を消して歩いている。表彰式の光の中や、十馬身の大逃げの中にだけあるのではなくて、揚げ物の匂いの残る土手を、鼻歌まじりに流している。
多摩水道橋が見えてきたところで、ナイトストレイドは速度を緩めた。彼女の帰り道は、ここから坂の上らしい。
「ローズ」
「……何だよ」
「力んでるとこ、遅い。ウチが知ってる速いやつ、みんな脱力してる」
言うだけ言って、返事も待たずに、ひらひらと手を振って坂の方へ消えていった。昔と同じだ。言いたいことだけ置いて、走っていく。
私は土手に残されて、自分の両手を見た。拳が、まだ固く握られていた。走っている間ずっと、たぶん、ロースかつを頼んだあたりからずっと。指を一本ずつ開くと、掌に爪の痕が四つ、白く残っていた。
脱力、ねぇ。
言うのは簡単だ。力を抜け、と言われて抜ける力なら、誰も苦労はしない。頭で分かっていることを身体に教える方法を、私はひとつも持っていなかった。ゲートの前のベルと、握り拳の私。頭と身体の喧嘩という点では、うちのチームは今、二件同時に係争中である。
夕方に向かう多摩川が、薄茶色のまま、力を抜いて流れていた。川に勝てる気は、当分しなかった。