ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います   作:トマスアレポ

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無いなら無いなりに

水というのは、この世で一番正直な審査員である。

審査基準はただひとつ、力んだ者から沈める。泣き落としも実績も通用しない。重賞五勝の肩書を提出しても、水は書類を見ずに突き返してくる。おぼれる者は藁をも掴むというが、正確には、掴むから沈むのだ。

 

翌週から、私の練習メニューに「プール」の二文字が加わった。

 

「心肺を作る。脚は休ませながらな」とサンリンドーは言った。「それと、お前の宿題にちょうどいい」

 

宿題が何を指すのか、訊くまでもなかった。力んでるとこ、遅い——多摩水道橋のたもとに置き土産されたあの一言は、あれから毎晩、布団に入るたびに枕元へ出勤してくる。真面目な言葉である。私より勤勉かもしれない。

 

ボロいワゴン車に揺られて連れて行かれた先は、川崎区の外れだった。産業道路の匂いのする一角に、市営の温水プール『ヨネッティー堤根』が建っている。隣には巨大な煙突。ゴミの処理センターである。つまりこのプールの水は、川崎市民が出したゴミを燃やした熱で温められている。

 

一月に観たAJCC、あの日知った中央のクラブチームの設備を、私はまだ覚えている。坂路、ポリトラック、そして温水プール。会員制の、消毒液の匂いまで上品そうなやつだ。こちらの湯加減は、燃えるゴミが握っている。昨日誰かが捨てた燃えるゴミが、今日の私を温めている。

 

「無いなら無いなりに、だ」とサンリンドーは券売機に小銭を入れながら言った。「こっちにはこっちの水がある」

 

水に貴賎はない、ということにしておいた。

 


 

白状すると、私は泳ぎが得意ではない。身体は砂を蹴るようにできていて、水を掻くようにはできていない。それでも足の立つ深さでのウォーキングから始めて、ビート板、バタ足、と課題は順調に進んだ——順調に進んだのは課題だけで、私は進まなかった。

 

蹴っても、進まない。

 

砂なら、蹴った分だけ前へ出る。強く蹴れば速くなる。十年かけて身体に叩き込んできたその方程式を、水は鼻で笑った。強く蹴るほど水面が暴れ、水面が暴れるほど身体が沈み、沈むまいとして全身に力が入り、力が入った分だけまた沈む。見事な悪循環だった。悪循環というのは得てして設計が美しい。

 

「力を抜け」とプールサイドからサンリンドーが言った。監視員用の椅子に勝手に腰掛けて、麦茶など飲んでいる。

 

「抜けるならとっくに抜いてる」

 

「だろうな」

 

だろうな、で済ますな。私は二十五メートルを世界最遅で往復し、レーンの端で息を整えた。掌を見ると、また拳を握っていた。水の中でまで握っていたのだ。呆れて指を開く。爪の痕が四つ、ふやけて白い。水中で拳を握ったところで、水は指の間からいくらでも逃げていくというのに、身体は律儀に土手の続きをやっている。

 

三十分後、私は敗北した。腕も脚も出涸らしになって、抗議する気力もなく、仰向けに水面へ倒れ込んだ。

 

浮いた。

 

沈むと思ったのに、浮いた。手足を放り出し、耳の下まで水に浸けて、ゴミの熱で温まった水にただ乗っかっていると、天井の梁がゆっくり流れていく。私は動いていないのに、世界の方が動いていた。

 

——おい、と思った。これは知っている。

 

走ることで自らは静止に近づき、世界の方が動き始める。私が私の走りの芯だと信じてきた、あの感覚。最高速の只中で訪れる、あの静けさ。水はそれを、逆側から証明してみせたのだった。私が力を手放した分だけ、水が仕事をする。世界に仕事をさせる分だけ、私は静かでいられる。

 

なんのことはない。あの脱力ウマ娘は、私が最高速でしか出せない場所に、鼻歌まじりの帰り道で立っているのだ。

 

腹は立ったが、宿題の設問だけは読めた気がした。解答欄はまだ白い。それでも設問の読めない試験と読めた試験では、絶望の質が違う。

 

「顔がマシになったな」と麦茶が言った。

 

「うるさい」

 


 

同じ頃、小向の練習バ場に、丁寧な足音がひとつ。

 

ライトニングベルは、ゲートのない外周コースを歩いている。歩き、速歩、また歩き。物足りないほどゆっくりと、しかし一周も欠かさずに。すれ違う係員へいちいち頭を下げるものだから、周回数より礼の数の方が多い。

 

コース脇に立つサンリンドーの手には、ストップウォッチ。ただし、押されたところを見た者はいない。計っているのは、たぶんタイムではない。

 


 

七月の頭、B303の黒板に、サンリンドーが白墨で四文字を書いた。

 

スパーキングレディーカップ。地元川崎、ナイター開催の重賞である。ベルが府中で落ちてから、私はまともに勝っていない。世間はその理由まで、とっくにお見通しらしい。私は出走届の文字を眺める。カクテルライトの下の、勝負の匂いを思い出す。

 

審査員は水だけではない。砂も、なかなかに正直である。

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