ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
罵声が飛んでくるわけではない。石を投げられるわけでもない。スポーツ紙の見出しが私の名前を二番手の段に組み、場内ですれ違う視線の温度が「どうかな」に下がる。それだけである。疑われている、というのは、思っていたより静かな待遇だった。
世間というのは怒鳴らない。そろばんを弾くだけだ。そして弾かれたそろばんの音は、怒鳴り声より、よほど腹に響く。
七月の水曜日。川崎競馬場に、カクテルライトが灯った。
スパーキングレディーカップ。地元川崎の、夏のナイター重賞である。京急大師線の港町駅から吐き出された人の群れが、蒸し暑さと引き換えの祭りを求めてスタンドに吸い込まれていく。多摩川を渡ってきた風が、工場の匂いと屋台のソースの匂いを律儀に半分ずつ運んでくる。何もかもがいつも通りだった。いつも通りでないのは、私の評価だけである。
「見て。今日の紙面、ローズの扱いが五段目」とリリィがスマホを差し出してきた。「掲示板も——」
「読み上げなくていい」
「情報は正確に。ちな一番人気はメイショウミラーズ」
ご意見は今夜も承った。承って砂に置いてくることにした。
装鞍所の前で、私は体操服の裾を引っ張って皺を伸ばした。遠征用の勝負服——白地に桜色のリボンの、あのスケバン仕様のロングセーラーは、B303の衣装箱で留守番である。あれは中央の空気を吸うための一張羅で、地元の砂の前に立つ私は昔ながらの体操服だ。
一張羅というのは、着ない期間があるから一張羅でいられる。
「宿題は」と、そのサンリンドーが言った。
「まだ白紙」
「そうか」トレーナーは麦茶のペットボトルの蓋を捻った。「なら、答案用紙だけは一級品を用意しといた。千六百メートルある」
パドックの周回は、静かだった。
視線の数はいつも通りで、視線の重さだけが軽い。女帝の凱旋ではなく、女帝の身体検査。皆、私が壊れていないかどうかを確かめに来ている。壊れ物を見る目というのは、宝物を見る目と角度がよく似ていて、温度だけが違う。
一枠向こうを、見覚えのある鹿毛が歩いていた。メイショウミラーズ。関東オークスで砂を分けた同じ中央勢の一角。相変わらず口の中で何かをぶつぶつ唱えている。
近づくと「……千六は、川崎の千六は、コーナーが、四つ」と聞こえた。お経の中身は枠順表らしい。彼女は昔から、レース前に世界のすべてを一度自分の口で言い直さないと気が済まないのだ。
その独り言が、ふ、と途切れて、目が合った。
「……単走なんだって」
「おう」
「そう」ミラーズは目を伏せて、また歩き出した。「……単走、単走で、五連勝の、女帝が」
同情とも値踏みともつかない呟きが、お経の続きに混ざって消えた。
――さあ、お待たせしました、水曜ナイターの川崎競バ第11レース、スパーキングレディーカップです! カクテルライトに照らされて、十二人の乙女たちがゲートへと向かいます。
――態勢完了!スタートしました! ほぼ横一線!
まずはドミツァーナ、押してハナを主張します!
2番手にマリタイムシッパー、メイショウミラーズは好位の4番手、外目につけた!
ブラッシングローズは五分のスタートから無理をしません、中団の6、7番手、馬群の中に収まる形で1コーナー回っていきます。
ゲートが開く音は、いつも世界が割れる音に似ている。
割れた世界の中で、私は静かに位置を取った。脚は動く。砂は蹴れる。心肺はプール通いの成果で、いつになく澄んでいる。何も問題はない——問題がないことだけが、ここ三ヶ月の問題だった。
一コーナーを回る。隊列が落ち着く。
そして、案の定、右隣を見た。
見た、というのは正確ではない。首は動いていない。視線も前を向いたままだ。ただ、意識のいちばん外側の膜が、右隣の空間へするりと伸びていった。そこに黒鹿毛の背中があるはずだった。半馬身前を、丁寧な足音で刻む背中が。それを物差しにして、私は自分の速度を測ってきたのだ。
膜は、何にも触れずに戻ってきた。
右隣には、七月の夜気があるだけだった。
暗闇で階段を降りるとき、もう一段あると思って踏み出した足が、何もない床を踏む。あの感覚に似ている。落ちはしない。ただ、身体じゅうの帳尻が、一瞬だけ狂う。私はその狂いを、力で塗り潰した。ピッチを上げ、砂を強く掴み、狂いごと前へ運ぶ。三ヶ月間、ずっとそうしてきたやり方で。
――先頭はドミツァーナ、リードは1馬身半。
メイショウミラーズは4番手、ブラッシングローズは中団のまま動きません!
向正面の半ばで、掌に痛みを感じた。
見なくても分かる。また拳を握っている。爪の痕が四つ、今夜も彫られている頃だろう。水の中でまで握っていた、あの律儀な拳だ。私は前を走る尻尾の群れを見ながら、他人事のように思った。
私はいま、沈む泳ぎ方をしている。
強く蹴るほど水面が暴れ、暴れるほど沈み、沈むまいとして力が入る。ゴミの熱で温めた水が教えてくれた悪循環と、寸分違わぬ設計図の上を、私は砂の上でなぞっていた。
空いた右隣を、力で埋めようとして。いるはずのないベルの背中を速度で塗り潰そうとして。
——力んでるとこ、遅い。
過去の置き土産がわざわざ出張してきた。あの得意気な顔が。
3コーナー。
私は、息を吐いた。
吐いて、拳を開いた。指の間から、握っていたものが逃げていく。逃がしていいのだ。もともと、握って走るものなど何もなかった。右隣の空白は、埋めるものではなく、ただそこにある夜気だった。夜気を押しのけて走る阿呆はいない。
肩が落ちる。腰が据わる。蹴る音が、変わった。
世界の方が、動き始めた。
――さあ4コーナーから直線!
ドミツァーナまだ先頭、粘る粘る!
外からメイショウミラーズが並びかける、これを交わして先頭に立った!
外から一頭、伸びてきた! 7番ブラッシングローズ! 中団から一気に押し上げて直線先頭に並ぶ!
直線。
前にミラーズの背中。距離は二馬身。
二馬身が、一馬身半になる。
私は追っていなかった。正確に言えば、追うという力仕事を、身体のどこもしていなかった。ただ砂が後ろへ流れ、カクテルライトの白い光が横へ流れ、歓声が上から流れ、流れるものすべての真ん中で、私だけが静かだった。速くなるほど、静かになる。知っていたはずのその場所に、私は三ヶ月ぶりに帰ってきた。
一馬身。
ミラーズの首が沈む。声はもう聞こえない。
半馬身。
並んだ。
——いや。
抜けた。
ゴール板が過ぎたのは、音で分かった。歓声がワッと膨らんで、一拍遅れて私の背中に追いついてきたのだ。速報掲示板を見るまでもなかった。着差は測るものではなく感じるものだ。今夜のそれは確かに私の胸ひとつ分、前にあった。
速度を落としながら、私は右隣の夜気に、胸の内でだけ声を掛けた。
独りで走るというのは、独りぼっちで走ることとは少し違うらしい。
右隣に誰もいなくても、私の走りの半分はあいつでできている。物差しは背中じゃなかった。もっと奥の拳を開いても逃げていかない場所にとっくに埋まっていたのだ。
検量を終えて通路へ出ると、二人が待っていた。
「ウェーイ! 女帝復活ァ!」とオジョウが抱きついてくる。汗と、屋台のソースの匂いがした。観戦しながらしっかり食べていたらしい。
その後ろで、ベルが立っていた。
「見てました」
「おう」
「その……速かったです。後半、別のウマ娘みたいでした」
私は何か軽口を返そうとして、やめた。こういうとき、うまい返しというのはだいたい余計なのだ。
「九月」とベルが言った。「頑張ってみます」
「おう」
「それだけです」
それだけで、十分だった。
出口へ向かうと、外の熱気が正直に押し寄せてきた。ナイターの照明に群がる羽虫、帰路を急がない客たちのざわめき、遠くから響く電車の音。七月の川崎は夜になっても律儀に暑い。