ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
八月最初の月曜、ベルは宣言どおりゲートの前に立った。小向の砂は朝の七時から白く乾いて、多摩川の土手ではミンミンゼミが景気よく開店している。真夏というのは商売熱心な季節である。
一ヶ月、ベルは歩いた。ゲートのない外周を、係員への礼を数えながら、雨の日も歩いた。吐く息を長く、吸う息は勝手に任せる呼吸を、たぶん夢の中でも続けた。その帳尻を合わせに、今朝、緑色の鉄枠の前へ戻ってきたのである。
一枠にベルが入り、係員が扉を閉めた。
がしゃん、と鉄が鳴った。
私は埒の外で拳を握りかけて、やめた。握らない練習の成果を、こんなところで無駄にする手はない。
ベルの肩は、跳ねなかった。呼吸は深いところで往復している。梅雨のあの朝、砂の上で溺れていた背中は、今朝はちゃんと水面より上にいた。
開いた。世界が割れる音がした。
ベルが、出た。
出たのだ。私は胸の中で祝杯を挙げかけたが、身体のほうが一足先に帳簿をつけていた。——遅い。コンマ二か、三。十二人で飛び出すレースなら、まとめて一馬身置かれる遅れである。
もう一本。がしゃん。割れる。出る。遅れる。
もう一本。同じ。
もう一本。寸分違わず、同じ。
震えでも、竦みでもなかった。扉が開いた瞬間、ベルの身体が一拍だけ、地面を確かめるのだ。石橋を叩いて渡る、というやつの最速版である。頭はとっくに跳んでいる。身体が、検印を待っている。
「……すみません」
四本目のあと、ゲートから戻ってきたベルが言った。汗の粒より、声のほうが重かった。
「頭では、出てるんです。身体が、確認を一つ挟むんです」
うまい軽口が見つからなかった。頑張ったな、も、気にすんな、も、どれも嘘の匂いがした。ひと夏かけてゲートまで帰ってきて、帰ってきた場所にコンマ三秒の関所が待っていたのだ。関所の理不尽は、通る本人がいちばんよく知っている。
そのとき隣で、カチ、と音がした。
サンリンドーのストップウォッチが押された音だった。ひと月のあいだ手に握られたまま、押されたところを誰も見なかったあの銀色が、今朝はついに仕事をしている。トレーナーは文字盤を覗き、それから感心したように言った。
「毎回、同じだな」
「……はい」
「上等だわ」
ベルと私は顔を見合わせた。上等。どこの辞書を引けば、今のが上等になるのか。
「二人とも部室に来い。講義だ」
B303のプレハブは、八月の朝から蒸し風呂の才能を遺憾なく発揮していた。扇風機が首を振り、トロフィー棚の金銀を順番に撫でていく。サンリンドーはホワイトボードの前に立ち、横一線に十二個の丸を描いた。
「ゲートが開く。十一人が出る。ベルは一拍遅れて出る。——ここまでが前提だ」
赤いマーカーが、端の丸に印をつけた。
「治る治らないの話は、しない。ありゃあ怪我の残りカスじゃねえ。身体が自前で拵えた、安全装置だ。一度落ちた身体は、二度目を疑う。部品としちゃ正しい仕事だわ。正しく働いてる部品を、根性で引っこ抜くバカがどこにいる」
「でも」とベルが小さく言った。「出遅れたらレースになりません」
「なる」サンリンドーは即答した。「出遅れを、前提にすりゃあな」
マーカーが走った。十二個の丸のいちばん後ろから、ぐるりと大外を回って、直線でまとめて前へ届く、長い長い矢印。
「五分に出て、流れに乗って、好位で運ぶ。今までのお前の組み立てだ。それは捨てる。中途半端に出て中団で揉まれるくらいなら、最初から最後方の一択。道中は誰のペースも借りない。溜めて、溜めて、直線で全部払う。——後方一気。お前専用の再設計だ」
それから、聞き慣れた語録の続きに、初めて聞く後半がつながった。
「ウマ娘の能力は一定じゃない。だったら、弱点も込みで組み立てりゃあいい」
私は扇風機の風の中で、ボードの矢印を眺めていた。最後方に沈んで、直線で雷みたいに落ちてくる脚。誰が描いても、その絵はベルという名前に最初から似合いすぎている。稲妻というのは、そういえば、光ってから届くまでに一拍ある。あの一拍を、世界は誰も出遅れとは呼ばない。
「届かなかったら、どうするんですか」とベルが訊いた。
「届く脚を作る」サンリンドーはキャップを閉めた。「だから、明日から坂だ」
加瀬山という山が幸区にある。
山と呼ぶには慎ましい、標高三十メートル余りの丘だ。頂には夢見ヶ崎動物公園が載っていて、風向き次第で獣の匂いが降ってくる。
真夏の坂路である。練習は蝉より早起きして、朝の六時に始めた。
ドリルは単純だった。麓から頂上まで、私が先に出る。ベルは声に出して一拍数えてから出て、頂上までに私を捕まえる。捕まったら私の負け。逃げ切ったら私の勝ち。賞品は特にない。ないのに、三本目あたりから、双方どうしようもなく本気になった。
初日は、私の全勝だった。坂の上で、ベルは膝に手をついて息を整え、整いきる前に「……もう、一本」と言った。
二日目も私が勝ち越した。ただし、全勝ではなくなった。
三日目の五本目。背中の気配が、いつもより早く膨らんだ。残り三十メートル。二十。並ばれ——頂上の手前で、抜かれた。
言っておくが、手は抜いていない。抜いていないから、悔しさより先に鳥肌が立った。一拍遅れて出た脚が、坂の途中で束になり、最後は雪崩みたいに私を呑んだのだ。
ベルは頂上の柵に掴まり、肩で息をしながら、笑っていなかった。真顔で、自分の掌を見ていた。
「……この一拍、消えないみたいです」
「らしいな」
「なら」掌が、ゆっくり握られた。「僕の合図ということにします。皆の世界が先に割れて、一拍あとに、僕のが割れる。それだけの話です」
丁寧語のまま、ずいぶん物騒な宣言だった。私は文句のつけどころを探して、ひとつも見つからなかったので、「もう一本」とだけ言った。
お盆に入ると、サンリンドーが二日の休みを寄越した。「休むのも調教だわ」という、彼の中でいちばん胡散臭く聞こえる語録つきである。
休みの初日の夕方、私とベルは多摩川の河川敷に呼び出された。呼び出したのはオジョウで、召集令状は例のごとくLANEに絵文字だけで届いた。西瓜と、花火と、なぜか拳を突き上げるウマ娘のスタンプ。解読の余地はなかった。
土手を降りると、シートの上に大玉の西瓜が鎮座し、その横でオジョウが仁王立ちしていた。
「ウェーイ! 集合ゥ! いいか二人ともよく聞け! あーしらの夏、現状、思い出ゼロ!」
「ゼロは草」とリリィがスマホを構えたまま補足した。「ローズの夏=坂とプール。ベルの夏=入院とリハビリ。アルバム作ったら遺影しかない」
「言い方ってもんがあるだろ」
「だから今日は帳尻合わせの日! 青春の決算日なの!」オジョウはバットを私に押しつけ、手拭いをベルの目に巻きにかかった。「まずは西瓜! 主役はベル! 病院のごはんに西瓜は出なかったっしょ!」
「出ませんでした」と目隠しのベルが律儀に答えた。「ゼリーは出ました」
かくして、目隠しのベルが河川敷に立った。私たちの誘導は、見事なまでに一致しなかった。オジョウは「右! もっと右! あーしを信じて!」と叫び、リリィは「左。逆張りが正解」と真顔で言い、私は面白くなってきて黙った。ベルはバットを構えたまま、三歩右へ、二歩左へ、几帳面に迷子になっていく。遠くの町内会から、盆踊りの太鼓がのんびり流れてきた。夏というのは、どこの誰に対しても公平に間が抜けている。
「……あの、多数決を採ってもいいですか」
「密です。目隠しウマ娘に発言権なし!」
結局ベルは、皆の声を全部聞き流し、一拍黙って耳を澄ませてから、すたすたと歩いて一振りで西瓜を割った。目隠しの下で得意げな顔をしている。出遅れの分だけ、耳がよくなったのかもしれなかった。誘導係一同の信用は、西瓜より粉々になった。
西瓜は甘かった。土手の上を京急がごとごと渡っていき、対岸の工場が夕焼けの在庫を並べ始める。ベルは二切れ目を持ったまま、しばらく川の方を見ていた。何を見ているのかは訊かなかった。訊かなくても、消えた夏の前半を、いま後半で買い戻している顔だった。
暗くなってから、手持ち花火に火が点いた。
オジョウの花火は振り回した勢いで三秒で燃え尽き、リリィの花火は撮影に忙しくてほぼ観賞用で、私のは——せっかちな持ち主に似て、威勢よく噴いてあっさり終わった。
バケツの水に燃えかすを沈めた頃、土手の上から見慣れた影が降りてきた。麦茶のペットボトルを四本、指の間に挟んでいる。
「湿気る前に言っとくわ」サンリンドーは麦茶を配りながら、黒板もマーカーも使わずに言った。「スパーキングサマーカップ。八月末、川崎のナイターだ。出るぞ、ベル」
府中でベルが落ちてから、初めての実戦である。
「……はい」
返事は、一拍も遅れなかった。
締めは線香花火だった。四人でしゃがみこみ、最後まで玉を落とさなかった者が優勝という、賞品のない勝負である。オジョウの玉は開始五秒で威勢よく散り、リリィの玉は撮影角度を探した瞬間に落ち、私の玉もじきに力尽きた。
ベルの玉だけが、残った。
橙色の小さな火の玉が、ぱち、ぱち、と松葉を散らしながら、いつまでも粘っている。散り際の火花が一番大きい、と誰かが言った。玉が落ちる、その一拍前の静けさまで、ベルは指先ひとつ動かさなかった。
「溜める才能だけは、折り紙つきだな」
「はい」と暗がりでベルが言った。「直線まで落としませんから」
八月はまだ半分残っていた。