ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
スパーキングサマーカップ。ナイターの照明が点り、カクテルライトが砂の上に嘘みたいな色を撒く。対岸の工場は夕焼けの在庫を仕舞い、多摩川からの風が、八月の湿気ごとスタンドを撫でていった。
単勝一番人気、十二番ライトニングベル。
半年実戦から遠ざかった脚に、川崎の人々は平然と一番人気の札を貼った。信心なのか義理なのか、それとも祝儀なのか。
――川崎競バ第11競走、メインレースを迎えました。スパーキングサマーカップSII。
各ウマ娘、ゲートインが進んでいます。
大外十二番、ライトニングベル。二月の府中以来、半年ぶりの実戦です。
係員が離れて、態勢完了。
――スタートしました! 各ウマ娘、揃って——おーっと! ライトニングベル、出負けました! 最後方からの競馬になります!
ゲートの中は、いつも少しだけ匂いが違う。鉄と、砂と、他人の呼吸。
がしゃん、と背後で扉が閉まって、世界に蓋がされた。静かだ。十二人ぶんの心臓の音まで聞こえそうな、薄い、張り詰めた静けさ。
――この静けさを、僕は知っている。
半年前、芝と砂の切れ目で、脚の下から世界が抜けたあの瞬間も、直前は静かだった。音が消えて、それから、落ちた。似ている。とてもよく似ている。
でも、と僕は蓋の内側で思う。似ているだけだ。あれは終わりの静けさで、これは、始まりの静けさだ。線香花火の玉が落ちる一拍前と、火が点く一拍前が、同じ暗さをしているようなものだ。
扉が開いた。世界が割れる音がした。
十一人ぶんの世界が先に割れて、僕の身体は、いつものように地面へ確認を一つ挟む。石橋を叩く音。検場内のどよめきが、遠くで潮みたいに引いていく。
いいんだ、と僕は誰にともなく言う。これは出遅れじゃない。
僕の合図だ。
一拍あとに、僕の世界が割れた。脚は、前に出た。
向正面のベルは、置かれているのではなかった。あれは、置いているのだ。ホワイトボードの矢印の通り、誰のペースも借りず、いちばん後ろで自分の呼吸だけを刻んでいる。手拭いで目隠しをされて、全員の声を聞き流していた河川敷の背中と、同じ背中だった。
隣でオジョウが「あーし心臓もたない」に呻き、リリィが「最後方が作戦。チャット欄は今ごろ大荒れ」と実況より正確な実況をした。
――さあ三コーナー! ドミツァーナまだ先頭、しかしリードが縮まる! アキナケス外から並びかけにいく、クラヴァットも内で待機。
大外からライトニングベルが上がってきた!
来た。
三角の入口で、ベルの姿勢が変わった。溜めていたものの栓を、順番に抜いていく変わり方だった。四角、大外をぶん回す。距離の損なんて知ったことか、という回り方である。不利と引き換えに退路を断つ賭け。賭け金の清算は、直線の長さで行われる。
――四コーナーから直線! クラヴァットが抜け出しにかかる! アキナケス食い下がる、ドミツァーナ粘る! そして外からライトニングベル! まとめて捉えて交わすか!
残り二百。
百五十。
一人。二人。ベルの前から、背中が順番に消えていく。落とさない。あの線香花火は、まだ落ちていない。
百。三人目を呑んだ。前はまだ四人いる。
五十。四人目の背中に、届く——か。
――クラヴァット先頭でゴールイン! 二着アキナケス! 三着争いは内ドミツァーナと外ニシノカクテルか!
音が、戻ってきた。
着順掲示板に、数字が並んだ。
一着七番。二着五番。三着一番。四着三番。
五着、十二番。
五、というのは、掲示板のいちばん下の、いちばん地味な席である。優勝でもなければ、馬券的な逆転劇でもない。それなのに、点灯した瞬間、スタンドが沸いた。どっ、と沸いて、それから方々で、拍手が鳴りやまなくなった。
半年ぶりに、二馬身出遅れて、大外を回って、五着。
数字だけ書けば、その辺に転がっている凡走である。だが今夜のこの場内で、五という数字は明らかに違う光り方をしていた。
オジョウが鼻声で言った。「五着で泣くとか、あーしの涙腺、燃費悪すぎ」
「観客含め全員優勝ムード。これ完全に」リリィはそこで珍しく言葉を切って、スマホも構えず、ただ拍手をした。
後検量を終えたベルが通路に出てきたのは、場内の熱がまだ冷めきらない頃だった。
汗で前髪が額に貼りつき、頬に砂がついている。大外を回った分の砂だ。私を見つけると、ベルはいつもの折り目正しさで立ち止まり、それから、困ったように笑った。
「勝てなかったですね」
「勝ちだろこれは」
即答した。考えるより先に出た。考えてから言ったら、嘘の匂いが混ざりそうだった。
ベルは何か言い返そうと口を開き、開いたまま、スタンドの方から流れてくる拍手の残響に耳を澄ませ、結局、何も言い返さなかった。代わりに頬の砂を手の甲で拭って、その手をしばらく眺めた。加瀬山の頂上で、自分の掌を見ていたときと同じ目だった。
「……落としませんでした」
「見てた。直線まで、って言った通りだったな」
「はい」ベルは頷いて、それから律儀に付け加えた。「四着の背中には、届きませんでしたけど」
「じゃあ次は、届く脚を作るんだろ」
誰かの受け売りである。受け売りだと二人とも分かっていたので、どちらも出典には触れなかった。通路の先でサンリンドーが待っていて、こちらに気づくと、ストップウォッチを持っていない方の手を、ひらりと挙げた。論評は、ないらしい。上等、の一言すらない。ないのが、たぶん今夜いちばんの論評だった。
外へ出ると、ナイターの照明に羽虫が群がり、多摩川を渡る風に昼間にはなかった涼しさが混ざっている。八月は今夜で在庫を切らすつもりらしい。
夏は終わり、秋は間近だった。