ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
JBCから数日後、空気に少しばかり祭りの残り香が漂ううちに、もう次の戦い――ローレル賞が迫っていた。
私たちは恒例のたまり場、川崎トレセンのB303プレハブにいた。古びたストーブの赤い目玉が、頼りなく部屋を暖めている。窓の外はすでに闇。11月は日が落ちるのが早く、時計はまだ17時を指しているのに、世界全体が夜の顔をしていた。
私はストーブに手をかざしながら切り出した。
「次は勝てる?」
「まあ、ライトニングベルが出なければな」
サンリンドーはあっけらかんと言う。なぜか勝利条件が“消去法”みたいに聞こえて、胸にモヤが広がった。
「ゲートを出て回ってくるだけで勝てるさ」
彼の気楽な調子は、慰めなのか現実なのか判断がつかない。
だが、問題は別のところにあった。
私がローレル賞に出走するという報せを聞き、他の陣営が次々と回避を表明したのだ。人気者の罰ゲームというか、強者の孤独というか――このままでは頭数不足でレースそのものが成立しない。
「じゃあ、不戦敗ってこと?」
「いや、レースに不戦敗はない。レースそのものが無くなる」
「えぇ……じゃあどうすんのよ」
サンリンドーは後頭部を掻いた。あの仕草は大抵、解決策を持ち合わせていない証拠だ。
「じゃ、あーしらの出番って訳?」
オジョウがにやりと笑う。
「いいね」
リリィは抑揚なく同意するが、目は面白そうに輝いている。
話を聞いた二人が出走登録を済ませると、不思議なことに周囲も雪崩を打ったように動き出した。勇気は伝染するらしい。サンリンドーも方々に頭を下げて回り、最終的に6頭が揃った。
レースは、ようやく形を保った。
ローレル賞当日。
ゲートに入る前の静寂は、砂の匂いと照明の光に包まれていた。
「勝つさ」
リリィは短く断言する。まるで天気予報でも言うような調子で。
「感謝しろよな!」
オジョウは笑いながら拳を突き出す。
「ああ、ありがとう」
私は二人を振り返り、言葉よりも心で頷いた。
ゲートが開いた瞬間から、迷いはなかった。
砂を蹴るたび、世界が軽くなる。気がつけば、誰も背中についてきていない。
そして、私は――ぶっちぎりでローレル賞を制した。
夜の照明に照らされた川崎レース場のスタンドを背に、三人、それからサンリンドーで並んで口取りの写真を撮る。
JBCで見た栄光の光景が、今は自分の足元にある。
オジョウの笑顔も、リリィの小さなピースも、そして私の晴れ晴れとした顔も、砂の上に刻まれてフラッシュに切り取られる。
ウマ娘として、何度でも経験したい瞬間だと、心の底から思った。
私は走るのが好きだ。
走る事で自らは静止に近づき、そして世界の方が動き始める。そんな奇妙な錯覚に取り憑かれている。人によっては瞑想で世界と同調するのだろうが、私にとってはランニングがその役割を担っていた。
多摩川の土手を一人で駆ける。
イヤホンの中はいつものお気に入りアプリ。無料版ゆえに曲順はランダム、運命のルーレットみたいに予測不可能だ。
「♪〜そこのカップルペアルックはやめい…やめい…」
走りながら思わず苦笑する。ふざけた歌詞だが、だからこそ妙に胸に残る。
サンリンドーは次の出走を東京ジュニアオークスに決めた。
ローレル賞の勝ち馬として、優先出走権を手にしている。もし勝てば「SI重賞制覇」という、地方にあっては勲章のような肩書を得られる。
ただし問題が一つ。開催日が大晦日の夕方なのだ。普通ならこたつに入り、みかんを剥きつつ紅白のオープニングを待つような時間帯に、私は発走ゲートの中にいるらしい。人生、どうしてこうも妙な方向に転がるのか。
武蔵小杉を抜け、等々力のサッカー場を横目に、私は駈歩を続ける。
基礎スピードを底上げしなければ、大井や中央の相手に勝てるわけがない。ライトニングベルのように、駈歩ですら速さを纏う存在になるための練習だ。
イヤホンの中で曲が切り替わる。
「♪〜できない気がしていた、できると思っていた」
歌詞に合わせて、呼吸が一瞬軽くなる。
北上を続けると、コンクリート工場の無骨な建物と、その向こうの神奈川の丘陵が視界に広がる。
右手には東京。遠くにキャロットタワーが蜃気楼のように浮かんでいる。視界からそれが消えると、二子玉川のタワーマンション群とモールが代わりに現れる。さらに走ると、成城の丘の上にそびえる国立成育医療センター。まるで中世の城塞のようだ。
そして見慣れた小田急線の高架をくぐれば、多摩水道橋にたどり着く。ここを折り返すのが最近の練習メニューになっていた。
橋の先には府中レース場。近くて遠い、手を伸ばしても届かない中央の象徴。
たまに中央トレセンの生徒と鉢合わせることもあるが、今日は姿がなくて助かった。彼らと遭遇すると、走ることが急に「実力テスト」に変わってしまうからだ。
多摩水道橋の坂を下って通りを行けば、私の実家がある地区も近い。だが足は決してそちらへは向かわない。そこに立ち入ることは、まだできない。
――サンリンドーが大晦日の出走を選んだのは、私が帰省しない人間だと知っているからかもしれない。そんな考えが頭をよぎり、慌てて振り払う。
音楽は再び別の曲へと切り替わっていた。
「♪〜時 忘れたいよね 時 忘れたいよね ねぇ」
歌詞に引っ張られるように、私は川面を見やる。街灯に揺れる水面は、走る私を映しているようで、同時にまるで別の誰かの姿のようでもあった。
走れば走るほど、静止に近づく感覚。――だから私は、走ることをやめられないのだ。