「お前とサッカーやるの、正直きついんだよ」
夕暮れが近づくと、部室棟はその暗がりをより深めていく。部室棟の一室で、チームメイト複数人に囲まれながら掛けられた言葉は、まるで直接心を氷水を浸したかのような、痛々しいまでの冷たさを孕んでいた。
いや、あるいは温かさかもしれない。伊佐敷遥は、ふと全身の力が抜けたかのような錯覚を覚えると同時に、そんな感情を持った。その瞬間、感覚がクリアになる。先ほど言葉を発したチームメイトの奥に、窓からのぞくグラウンドを見た。土のグラウンドはその夕日を吸っているようである。チームメイトは入口を閉ざすように横並びとなり、表情は西日によって影を作っており読み取りにくいが、それでも険しいことは理解できた。
ふっと、深いため息をつく。部室内の、どこか懐かしさを感じる汗臭を感じた時、遥はある種の諦観をもって、伏目がちに語を継いだ。
「ごめんなさい」
中学に入って2年間で、初めていった言葉だと、遥は不意に思った。"わるい"、でもなく"すまん"でもない丁寧な謝罪の言葉は、あるいは今年の代の全サッカー部員の全発言を洗い出したとしても、一件もヒットしないかもしれない。
いや、もしかしたらサッカー部だけではないかもしれない。その検索範囲を"運動部員"に変更しても結果は変わらないかもしれない。そんな無意味な連想を繋げている途中、チームメイトがどこか声量を落としながら、
「いや、わかってくれればいいんだけどさ。ちょっとは俺らに合わせてほしいというか……」
そう言った。クリーム色の床から鷹揚にチームメイトのほうへ目線を挙げると、バツが悪そうな顔をしている一人の顔が見えた。
「うん、大丈夫だよ」
遥は無意識に上がる口角とともに、するりと言葉が喉を通ったことを知覚する。そして、先ほどまで、あるいはずっと双肩にもたれていた憑き物が、にわかに取れたような感覚を覚えた。
ふいに踵に硬い感覚を覚えた。遥はそれが歩き始めたことを意味していると、眼前に迫ったチームメイトを見下ろしたときにようやく知覚した。
夕日は沈みかけており、ナイター照明がぽつりぽつりとつき始めている。野球部の威圧感のこもった雄たけびがよく聞こえる。チームメイトの顔はみな強張っているように思えた。練習後だというのに体が軽い。今日のご飯はなんだろうか。買い食いでもしてしまおうか。
示し合わせたように部室のドアの前を開けてくれたチームメイトに感謝を伝え、数分歩いた末に下駄箱へとたどり着いた。上靴からローファーに履き替えようと自分の下駄箱に手を掛ける寸前、思い出した。
「あ、スパイク部室棟に置きっぱなしだ」
手を宙ぶらりんにして逡巡したのち、まぁいいかとつぶやいた。手をまっすぐと伸ばし下駄箱に手をかける。ローファーを右人差し指と親指で引っ掛け、そして離す。重力とともに落ちていくそれを見て、遥は自分の中のなにかが一緒に萎んでいくのを感じた。
もうすっかり夜である。
☆☆☆☆☆☆
甘織れな子はその少年に見覚えがあった。図書館の棚よりも大きな身長と、焦げた肌からは運動部特有の雰囲気を多量に感じさせる。また、シャープながらも整った顔立ちや高い鼻筋、存在感のある切れ目はなるほど、彼とは別のクラスの女子までもが話題に挙げるのもうなずける。れな子は脳内の自分が左の手のひらに右手のこぶしを打ち付けて納得する絵を見たような気がした。
しかし、顔をほの字にして噂話に花を咲かせるクラスメイトとは対照的な印象を、れな子としては感じざるを得ない。一言で言えば、彼のあの雰囲気が苦手なのである。クラスきっての陽キャであり、お調子者であり、そのうえサッカー部の人気者ときた。2年生にしてエースを任されていると風のうわさで聞いたこともあったような気がする。そんな人間を見ると、れな子は自分の存在がちっぽけなものに見えてしまうと同時に、友達付き合いの失敗なんてないのだろうと多量の羨望と超少量の嫉妬のような感情が渦巻くのである。
しかし、とれな子は思う。どこか違和感を覚えるのだ。思考の渦から抜け出して、再度図書館の椅子に座って本を読む彼を見る。図書委員としてカウンターから遠巻きに見る彼の姿は、どこか運動部らしからぬ柔らかな印象を覚えるというか、穏やかに見えるというか。そう言えば、髪の毛も短髪で揃えていた印象だったが、今では少し長めな前髪を掻き揚げる仕草ををよく見る。しかし、違和感の正体はそれだけだろうか……?もっと他にあるような気が……。
れな子は、にわかにページをめくる音が聞こえなくなるのを感じた。いや、実際はもっと前からだろう。はっとしたときには、彼のその端正な切れ目は活字ではなく、れな子の双眸に向けられていた。
(ひっ!!)
れな子はすんでのところで声を押し殺す。見られただけで声をあげたりでもしたら失礼極まりない。バッドコミュニケーションはその一瞬で学校生活を崩壊しかけない劇物であることを、れな子は重々承知しているのである。
何秒経ったであろうか。空いた窓から吹く風が彼の本のページを押し戻していくのを尻目に、しかし二人は微動だにしない。え、これどうするのとれな子は解決策考案を脳内に命令し働きまわらせる。しかし解答件数は0。白紙の解答用紙をれな子は幻視する。
「あの……」
彼が口を開いた。
「はい……。何のごようでしょう……」
こちらも緊張しながら答える。
彼は困ったような笑顔を顔につけながら、頬を人差し指で掻き、続ける。
「そんなに見られると本に集中できないっす」
「わあっ!!ごめんなさいごめんなさい!!おじゃまでしたよね今すぐ出ていきますので……!」
れな子は両手を眼前でばたばたしながら、半ばオーバーリアクション気味に答える。すると彼は、面食らったように目を丸くしたかと思えば、急に片手で口元を覆い、我慢できないといった様子で笑い出した。
「あははははっ!!あんたが出てったら図書館誰もいなくなるやん!施錠とかどうすんねん!!」
抱腹絶倒とは正にこのことだろうか。先ほどまで感じていた雰囲気が嘘のように、彼からはスクールカースト最上位の太陽のような雰囲気を覚える。
れな子が自身の発言の反省会を始めようとするのと、彼が笑い終わろうとするのはほぼ同時であった。彼はれな子に対して、突然人差し指を向けてきた。
「お前面白いわ!悪いんやけど図書委員の曜日教えてくれん?」
「……え?いや……え?なんで!?なんでわたしなんかの!?!?」
れな子は目を真ん丸にして問いかける。わたしなんか目じゃないほど可愛い図書委員なんてそれこそ枚挙にいとまがないだろう。しかしそんなれな子の考えをよそに、気づけば彼は席を立ち、図書館入り口の近くにあるカウンターに向けて歩き出していた。
「いやなんていうかさ~?」
声が近づいてくる
「久しぶりにこんな笑ったっていうか……」
彼の音しか聞こえない。足音が近づいてくる。
「あんたの前なら安心できるっていう……おいちょっとまて!!」
彼の叫び声が、まるでプールの奥底から聞こえるように感じられる。それと同時に、ぐらっと体が後ろへと倒れる。体が一切の操作を受け付けないような、そんなけだるさレベル100のような感覚が、重力とともに地面へと落ちていく。それとともに、れな子の意識は閉じていった。
☆☆☆☆☆☆
気が付いたら知らない天井……、もとい保健室である。れな子は仰向けの状態のまま、シミュラクラ現象の起きそうな斑点だらけの天井をぼーっと見つつも、もやのかかった思考を振り払うように、現状把握に努める。
(えっと……、確か図書室で男の人に話しかけられて、それで……?)
そこでハッとする。脳内に電流が流れたような感覚を覚えながら、れな子は図書館での一部始終を思い出した。
「っっ~~~!!!」
やってしまった!やってしまった!やってしまった!!
れな子は頭を抱え、そしてぶんぶんと左右に振る。まるでヘッドバンキングみたいに。
……ん?一瞬誰かの顔が見えたような……?いやまさかね。
ばっと腰をひねって右を見やる。するとそこには、先ほど図書館でみた伊佐敷遥が、パイプ椅子に座りながらこちらを見ていた。……神妙そうな面持ちで。
口を半開きにしながら思考停止する。体も硬直したままだ。
「……あの、もう、一思いに介錯、してくれませんか……?」
れな子は数秒経ってようやく硬直から解き放たれ、おどおどと言葉を発する。だってそうじゃん!話しかけたら急に倒れた陰キャ女が、目を覚ましたと思ったら突然シェイクユアヘッドだよ!?こんなとこ見られたらわたしもう生きていけない……。
すると、遥は片手で持っている文庫本をパタンと折り、一度腰を掛けなおした後一言返す。
「いやぁ、介錯とか日常会話で使う人いるんだ……」
苦笑いを浮かべながら、最大限配慮しているような声音でそう言った。
れな子はもう、自分の一挙手一投足が最悪を呼んでいるような、そんな気がして口から魂が抜けるような感覚に陥っていた。保健室の掛け布団をつかむ手が、無意識的に強くなっている。その感覚でかろうじて自身が生きながらえていることを自覚しているのだ。
「あの」
「はっ、はい!」
布団がばっと音を立てるほど鋭く、体を右にひねり遥と目線を合わせる。
「怪我とかないですか?一応地面に落ちる前に抱えたので大丈夫だとは思いますが……」
やばっ!そういえば助けてもらったお礼言っていない!
「あっ!すみませんここまで運んでいただいてありがとうございます……。それに介抱までしていただいて、なんとお礼をしたらよいやら……」
れな子が精いっぱいの笑顔を取り繕っていうと、対照的に遥はうつむきがちに思案顔を浮かべていた。
(まぁそうでしょうねこんな失態だらけの女の介抱とか時間の無駄でしかないし!そんな時間あるくらいなら友達との時間に当てたいとか部活の練習に当てたいとか普通考えるだろうし!)
れな子は今すぐにでも掛け布団にくるまりたい欲を我慢しながら、この沈黙を耐え忍ぶ。
「あのさ……」
彼は伏目がちな態度を崩すことなく、言葉を吐露し始めた。
「ごめん、迷惑かけた。急にあんなテンションで来られたらそりゃビビるよな。申し訳なかった」
「い、いやいや!むしろ謝るべきはこっちと言いますか、全てはわたしの不徳の致すところと言いますか……」
れな子は身振り手振りを加えながら必死に否定する。そもそも勝手に倒れたのは自分のほうで、むしろ謝るべきはこちらなのではっ!?
「いや、あんたが謝ることはなんもない。俺の性格のせいでまた誰かに迷惑が掛かってしまった」
本当に申し訳ない、と遥はパイプ椅子から立ち上がり、深々とお辞儀をした。れな子は反射的にベッドから降り、あわあわしながらも必死に励ます。しかし、れな子の顔の位置よりも折れ曲がった腰と頭は、一向にして直る気配を見せない。れな子は何とか立ち直ってもらうよう言葉を尽くす。
「いやいや!遥さんの性格は天性のものだよ!みんなのことを照らす太陽そのもの!クラスの雰囲気を明るくするその性格に一体何の問題があるというのか!!」
そういうと、遥は徐々に姿勢を治していき、再度ゆっくりとパイプ椅子に腰を下ろした。れな子もそれに習ってベッドの辺に腰を下ろし、彼の言葉を待った。
「こんなこと話されても迷惑だと思うけどさ、ちょっと聞いてくれん?」
やはりうつむきがちに、彼はれな子にそう了承をとる。
「もちろんだよ!助けてもらった恩もあるから話して話して!」
あれ?なんかキャラ崩壊してないか甘織れな子!?さては陽キャのオーラに当てられて……。そんな脳内対話を聞いているうちに、彼はぽつぽつと話し始める。
「俺サッカー部に入ってるんだけどさ」
「ええ!存じてますとも!」
「……チームメイトに、お前のその性格についていくの大変だって言われて」
れな子は、その話を聞いてにわかに合点がいったような気がした。図書館であったときの違和感は、これが原因だったのかと気づく。柔らかさの感じるあの雰囲気は、こういう経緯があってのことだったのか。
「うん、それで……?」
努めて優しく、聴きに徹する。クラスの人気者で、わたしとは対極に位置しているとさえ思っていた彼にも、こんな悩みがあるんだと、少し親近感を覚えると同時に、なんとかしてあげたいと感じる。
「俺、ただサッカーがうまくなりたくて、勝ちたくて、それで熱くなってさ、でもみんなついてきてると思ってて……」
彼の声はだんだんとか細くなり、心なしか震えているようにも感じられた。れな子は相槌を打ちながら優しく続きを促す。
「けど、実際は迷惑になってて、俺だけ盛り上がって突っ走ってて、この性格直そうって思ってたのに今日もまたあんたに迷惑かけてさ……」
途切れ途切れになりながらも、彼は胸の内を吐き出すように呟く。
「ちがうよ」
気が付けば、声をかけていた。
「それはちがうよ、遥さん。少なくとも、わたしは話しかけられてうれしかった」
そう言うと、彼は徐々に視線を上に向けてくる。その表情からは驚きの色をありありと感じられる。いや、構うものか。そう思いながら、正しく目線を合わせてれな子は言葉を続ける。
「わたし、クラスでは友達がいなくて、誰とも話せないから……。遥さんが話しかけてきてくれて、それどころか安心できるって言ってくれて、すごく嬉しかった……よ?」
それに、と柄にもなくすらすらと口を回していく。
「チームメイトの人だって、遥さんの性格のすべてを否定しているわけじゃないんじゃない?だって、もし本当にその性格が嫌で嫌でたまらなかったら2年間も我慢できないだろうし……」
「いや、でも積年の我慢が今回爆発したとも考えられるし……」
「けど、頑張ってたんだよね?」
彼は面食らったように顔を引かせる。
「その行動が、性格が、全部頑張っていることからくるものだってチームメイトの皆も理解してくれるはず……だよ!」
視線をゆらゆらと動かし続ける彼に向けて、だから、と締めにかかる。
「もう一回、改めて話し合ったらどうかな……?私は遥さんの性格、めっちゃ羨ましいと思うから!」
言い終わるや否や、れな子は自分がぜぇぜぇと息を切らしていることに気が付いた。これだから万年運動不足は……!
「ぷ……あははっ!!」
笑い声のほうを向くと、彼は片手の甲を口元に押し当てながら、おかしそうに笑っていた。れな子はそんな朗らかな彼の表情を見ると、厚い曇り空から晴れ間がのぞくような、そんな状況好転の大きな転機になるような気がした。
ふいに風が吹いた。空いた窓から保健室へと入ろうとする風にカーテンがその身を震わせると、保健室を包んでいた少しの暗闇が、一瞬にして日光に照らされる。それと同時に、カーテンが所定の位置に戻るまでの一瞬、きれいな夕暮れを見た。空を燃やしているような、見事な夕暮れであった。
「なぁ、あんた。名前教えてくれん?」
ひとしきり笑った彼は、窮屈そうにパイプ椅子に両足を乗せ、体育すわりの体制をとると、にこやかな笑顔を向けながら聞いてきた。
「えっと、あ、甘織れな子……です」
不思議と、あれだけ長々と話していた後だというのに、名前を伝えるだけで恥ずかしく感じられる。てかそもそも相手は陽キャも陽キャの遥さんだよ!無礼なこと言ってないよね……!?
「うん、甘織れな子ね。覚えとくわ」
そういうと、彼はパイプ椅子の後ろ側においていた荷物を腰をかがめて手に取り、保健室のドアへと歩いていく。
そして、ドアを開けるために取っ手に手を掛けようとすると、一瞬だけ停止し、後ろを向いてきた。
そして、今日一番の笑顔をたたえながら、気持ちの良いほど明るい声で言うのである。
「あんた、今日から友達やから。困ったら今度は俺が相談のったる!」
ビシッと人差し指をこちらに向けながら、そう言うだけ言って、踵を返して鼻息交じりにドアを開け、そのまま閉めないままに帰路についていった。
れな子は、彼の背中が見えなくなったと同時に、疲れがどっと押し寄せてきたかのように感じられた。静かに掛け布団にくるまり、打って変わって静まり返った保健室のなか、呟く。
「わたしの発言、どこか問題あったりしてないよね!?」
自分の行動大反省会保健室の部、開幕である。