6巻及び7巻のネタバレが含まれています。
閲覧の際にはご注意のほど、よろしくお願いいたします。
甘織れな子が泣き止み、そして平静を取り戻したのは遥が箱ティッシュをもって介抱してから数十分経った後のことだった。それまでずっと椅子に座った彼女の横に立ち膝で直っていた遥は、わんこそばの要領でティッシュを渡しつつ、励ましの言葉をかけ続けていたのである。
すると気が付けば、図書室の時計は6時の針を越えていた。窓の外を見ると夕日は地平線の下にその身を隠しており、空に広がった暗幕には体育館から漏れ出る光を吸い込んだように小さな星が散らばっている。
「ご、ごめんね……。わたし、もう大丈夫だから」
目元を腫らしながら、膝をつく遥を見下ろして言う彼女は、バックで輝く蛍光灯の光を浴びているからか幾分か吹っ切れたような雰囲気を見せている。遥はその様子に笑みとともに言葉をこぼした。
「そーかいそーかい、そらよかった」
そういうと遥は突然バッと立ち上がり、机に置いてあったスクールバックをひったくるように手に取って、肩にかける。そして、これ見よがしに左手首を右の人差し指で何度か叩いて、言葉を突いた。
「もう6時過ぎやしさっさと帰ろうや。俺腹減っててヤバイ」
そういうとれな子は焦ったような顔をして立ち上がり、彼に負けず劣らずのスピードで自身のスクールバックをつかみ取った。
「ホントだもうそんな時間……!今日はいろいろとありがとね遥さん」
じゃあまたねと言って廊下に飛び出していこうとする彼女は、しかし急激にそのスピードを落とした。遥がすんでのところで空間に残った手首を掴んだからである。
煙が出そうな勢いで足を止めたれな子は、まるで罠に引っかかった獣のように暴れながら、結局は観念したようにゆっくりと後ろを向いた。
「おいなんでそんな逃げるように出てくんだよ」
「はい、すみません……」
すこし険しい顔をした遥に対して、れな子はそう謝罪の言葉を零す。しかしそのあと、言い訳がましく「いや遥さんの貴重なお時間をこれ以上……」と言いかけたところで、彼はため息をついて仰々しく額に手を当てた。
まったく、と言いたげなあきれ顔を浮かべて、まるで説教をする先生の様に腰に手を当てる。
「あんたがどんな理由で休んでたか知らんけどな?こんな寒い夜に一か月も休んでたやつ一人で帰らせるわけにはいかないやろ。体調不良で休んでたなら倒れられてもヤバいし……」
そういって少し言葉を切ってから、名探偵の様に人差し指を身長差によって斜め下にいるれな子に向けて指し、一刀両断するようにぴしゃりと言い放つ。
「『学校に来れたら、放課後に図書室で待ってて』言うたのは俺のほうやし、今日は責任もって家まで送り届けるわ!まだ訊きたいことたくさんあるしな」
そういうと、れな子は真犯人に指名された容疑者の様に露骨にうろたえる。
「いやいや、ほんとこれ以上お手を煩わせるわけには……」
そこまで言って、ピクンと肩を跳ねさせる。まるで名探偵が事件解決の手がかりを思いついたかのようである。
かかるひらめきに、しかし晴れない顔をのぞかせながら彼女は問う。
「その、訊きたい事って、なんでしょうか……?」
心配そうにこちらをのぞきこんでくる彼女を尻目に、遥はまるで何事もなかったように図書室の出口へと歩き出した。
それにおいていかれないように、スクールバックを大きく揺らしながら彼女も背中についてくる。
遥は、彼女が自分の背中に追いつくまでの数秒で、今後の行動指針を迷う。聞きたいことは山ほどあるのだ。彼女にしてもオーバーリアクションに思えたあの涙の理由とか、彼女の妹のこととか。そしてもし訊けるなら……。
(一か月も学校を休むに至った理由は、いったいなんなのか……)
にわかに、どたばたと上履きのかかとを躍らせる音が近くなってくる。それと同時に、少し後ろから荒げた息に翻弄されたまとまりのない声がかかった。
「ちょっと、待ってくださいよお。わたし運動部じゃないからぁっ……」
たかだか数メートルの距離だぞ、とサッカー部の遥からすれば思わなくもないが、今はとにかく言葉を返そうと思考を切り替え、首だけを後ろに向けて言葉を放つ。
「あんたが急に廊下に飛び出そうとしてたから、そのお返しやお返し。びっくりしたやろ」
ぐぬぬ、といった様子の彼女を一瞥し、自分の表情を隠すように前方を見る。そして、もう残り少ない制限時間に間に合うように頭を回転させて、脳内に結論を上げた。
決めた行動指針に身を任せるように遥が声を上げようとしたとき、彼女が背中越しから、再度不安そうに声をかけてきた。もはや歩いている音にすら負けそうな声量、震えた声で、
「それで、話したいこととは、結局なんでしょうか……?」
そう聞いてくる。
遥は、今度は首だけでなく体ごと後ろに向け、彼女と正対するように相対する。そして、とにかく空気が重くならないように、冗談めかしく話を始める。
「あー、先に言っておくと、甘織サンには黙秘権がありまーす」
大根芝居もいいところだと遥は思う。しかし彼女は冗談めかしい発言にも、本人ですら苦笑いを浮かべたくなるほどの大根芝居にも一切笑わず、反応を軽く首肯したのみにとどめて依然緊張した面持ちで次の言葉を待つ。
遥はそれを一瞥した後あえて空気に沈黙を持たせて、茶番をしていたら着いていた眼前の引き戸をこれ見よがしに横に開けて廊下に出る。
そして、彼女が死刑執行を待つ受刑者のような思い足取りで図書室から出てくるのを確認した後、廊下から身を乗り出して図書室の電気を消した後一階へと続く階段を下る。
蛍光灯がついているとはいえ、すこし心もとない暗さの階段を数段降りたところである。遥は自身の判断に少しの不安を覚えながらも、手元にある質問カードから一枚を取り出して、内容を声に乗せた。
「甘織さ、妹と最近どうよ」
カツっ、とひと際響く上履きの音を響かせて、彼女は階段の上で静止した。暗い階段をぼんやりとみる彼女の姿に、遥は焦りを覚える。
「いや、マジで無理に答えなくていいんだ。今日は疲れてるやろうし、ほら帰りはゲームの話ししよな……?」
まるで彼女の姿が乗り移ったように、れな子から一つ下の階段からあわあわとフォローを入れる。
しかし、彼女は意を決したように、一段下がっていてもなお自身よりも高い位置にある彼の顔を見上げて、伝える。
「だいじょうぶ。それなら、そう、遥さんになら大丈夫。」
胸のあたりで作った両手のこぶしは、わずかに震えている。顔も、まるで彼女のほうから何かを頼み込んでいるような、そんな必死そうな表情を作っていた。
しかしそれでも、彼女は遥の目を確かに見ている。今日、床や机を見ている時間のほうが圧倒的に長かった彼女が、きっと勇気のいる決断をしたであろうこの瞬間に、階段ではなく遥の目を見ていたのだ。
なんだこれ、嬉しさか?、と胸に広がる温かさを瞬時に言語化した遥は、いや今は違うと脳内で頭を振る。
おほん、と咳払いをして、仕切り直すように遥は再度階段を下り始めた。彼女も再度上から足音を降らせ始める。
遥は一瞥するように彼女へ首を向けた後、彼女に合わせるように笑顔をつくりながら、まるで孫をほめるおじいちゃんのような具合で自身の肩越しに小さな声を漏らす。
「あんたの妹さん、封筒届けるときに会ったけどちゃんとしてる子やなあ。うちの後輩にも見習わせたいわ」
カラカラと笑いながらそう言うと、彼女はわかりやすく表情を晴れさせて、しかし少しだけ憂いの混ぜた目をして言葉を返す。
「うん、そうだね。わたしの妹はすごいんだよ」
遥は彼女のそんな様子と含みのある話し方に目を細めるが、しかしばれないようにいつもの調子に戻す。そして、そこで丁度ふたりは階段を下り終えた。
「……ま、あとはこの廊下突っ切ったら下駄箱やし、話の続きは正門出てからにするか」
遥は組んだ手を後頭部へと乗せ、口笛でも吹くような口調でそう言った。すると、彼女は幾分か調子を取り戻したように
「そうだね、下駄箱だと靴替えるときに音が反響しちゃうもんね」
と返す。
かくして、ふたりは下駄箱へと歩を進めた。その間、廊下に沿って建てられていた保健室の扉をどこからか吹いた風が叩いた音でれな子が盛大に驚き、遥がその光景を心底笑って真似しながらいじり倒していたのは、ふたりだけの秘密となった。
☆☆☆☆☆☆
完全に日が沈み、光源と言えば空に浮かぶ月の光と間隔をあけて並ぶ蛍光灯ほどになった。その光源は遥と、れな子と、そして堤防の下を流れる川を照らしている。月をその身に反射させた川が、下からこちらを覗いているような感覚を覚えながら、遥は機が熟したと言わんばかりに頷きながられな子に声をかけた。
「なーるほどね。話してくれてサンキューな。いろいろ合点がいったわ」
そういうと、先ほどまで前方しか見ずに、途切れ途切れながらも言葉を紡ぎ続けていたれな子は、校門から出て久しいその相貌をこちらに向けてきた。
月明かりに照らされたその表情は、なにか憑き物が取れたような、少しすっきりとしたものに見える。
多分、妹との仲違いについて誰にも言えなかったのだろうと、遥は彼女の表情を見てそう思った。
それはそうだ、実の姉が妹を無視しているなんて、当の本人から軽々しく言えるわけがない。
しかし偶然にも、彼女の感じているであろうその感情は、遥にとって少し懐かしいものであった。
「遥さんは、遥奈……妹と会ったんですよね。家でちょっと聞きました」
少し歩幅を緩めて、彼女はつぶやくように声を乗せた。冬になって少なくなった虫の、息絶えるような小さな声すら聞こえるこの道で、それでも彼女の声は危うく拾い損ねそうなほど小さい。
「疲れたか?コンビニであったかいミルクティーでも奢ろうか」
思わず声が出てしまう。彼女にとって、今日という日はとてつもなく疲れる一日であったことは想像に難くない。久しぶりに学校に来るだけでも疲れるだろうに、そこから図書館で泣いて、今こうやって寒い夜のなか歩いて帰っているのだ。声も小さくなるだろう、と遥は思ってしまう。
しかし、彼女は一瞬目を大きく開き、まるで部活動の先輩にそのセリフを吐かれたかのように大仰に手を振って彼の申し出を断る。
「いやいや、だいじょうぶです!ホントにだいじょうぶですから!?」
にわかに大きくなった声に反応したのか、川にぽちゃんと水しぶきが上がった。魚でも反応したのか、月明かりに照らされた水面には、波紋が広がっている。
ふたりは示し合わせたように水面に波紋が広がる様を見とどけて、静寂をつくった。
堤防道のアスファルトに、学校指定のローファーだけが踏む音を何度か聞いたころ。月明かりに照らされて、白い息に金色の光が混ざり合ったように見えたころ。遥はゆっくりと口を開いた。
「あんたの妹さんに前会ったけど、いいやつだな」
アスファルトから綺麗な月夜へ視線を移して、遥はそう言った。
「お姉ちゃんなんて知らない!……なんて雰囲気出してたけど、俺があんたに会おうとしてもちゃんと拒否しとったわ」
その時の様子を思い出して遥は少し苦笑いを浮かべながら、そこんとこ姉としてどう思うよ、と言いたげに彼女の方へと視線を向ける。すると、れな子は何かを思い出したように一直線に伸びた視線をこちらへと向けた。しかしそれも一瞬のことで、親に怒られる3秒前のような、締め付けられるような表情へと変わっていく。
「たぶんそれは、さっきも言ったけどわたしが妹のこと無視しちゃってるからで……。きっとわたしのこと嫌ってるから、友達の遥さんも家に上げたくなかったんだと……」
苦しそうに言葉を吐く彼女に、思わず足を止めてしまう。突然消えた一人分の足音の様子を追うように、彼女も少し経って止まった。
「いや、ちゃうやろ」
顔の前で手を横に振りながら、素直にそういってしまう。しかし彼女はなにがなんだか分からないと言った具合に、その場に立ち尽くしていた。
遥はその様子に愕然としながらも、思いの丈をぶつける。
「俺てっきり『そうそう!妹はホントに優しいんだよね!』みたいな反応すると思ったんやけど。たぶんあんたが思ってるほど妹さんは嫌ってないであれ」
確かにこれはあくまで俺の想像だけど、と前置きを置いてから、彼女の元へと歩きつつ伝える。
「本当にあんたの言う通りな?妹さんが甘織の事どうでもいいとか思っとったら、逆に無理やりにでも俺のこと家に上げてたやろ。俺が本当にお姉ちゃんの友達なのか半信半疑でも、ワンチャン今の状況が良くなるんじゃないかって感じに思ってさ」
あと一歩でも進めばぶつかるほどに接近したころ、ちょうど言葉が止まる。彼女は少し考えてから、いつもよりも少し首を上げて遥のほうを見る。
「……でもそれって、悪いことじゃない気が……。実際あの日遥さんがわたしの部屋に来てたとしても学校行こうって思ってただろうし」
白い息を必死に吐きながら彼女は言う。
しかし彼は彼女の言葉を聞くと数秒黙りこくって、そして間違い探しの答えが見つかったようになるほどと何度か頷く。
すると、今度はれな子から離れるように数歩歩き、そしてまたれな子のほうを向いて、人差し指を星空に向けてくるくるとまわしながら、わからない数学の問題を友達に教えるように話し始めた。
「たしかに、あの日家に来たのは俺だったよ?俺だったけど……」
そういうと少し沈黙を交えて、冷えた空気を混ぜている人差し指の回転を鷹揚に止めていく。電源を切ったミキサーの刃の様に夜空を指しながら止まった人差し指は、名探偵の様に鋭い切れをもって、しかし無表情に自身の胸に指をさした。
「もし俺じゃないやつが来ていたら?」
遥は淡々と、もしかしたら起こりえた透明な道筋を示す。そう、遥が言及したそれはあくまでIFストーリーであり、起こりえた世界線でしかない。
しかし、彼女は、彼の言葉を理解した瞬間、真犯人に指名された容疑者のような強張りきった表情を浮かべた。
梨地さんとの一件を持っている彼女にとってみれば、それは確かに現実味のある話であった。
もし梨地さんが一芝居打っていて、クラスの男子を送っていたら。そもそも、封筒は同じクラスの生徒が持ってくるものなのだ。遥さんが持ってくるよりそちらのほうが可能性があった。
嫌な予感が鎌となって首をもたげるようだった。まるで、ぼろぼろの一本橋を渡り切った後に後ろを振り返ったら、跡形もなく崩壊していたかのような、そんな気分である。
「妹からすりゃ、俺もそこら辺のテキトーな生徒も変わらん。誰が来てもみんな『姉の友達を名乗るよくわからん生徒A』やで」
彼の言いたいことが、液体から固体へと冷却されていくように、急速に輪郭を宿して脳内を占領する。
つまり、彼が言いたいのは、"もしあの日別の男子生徒が友達と名乗っていて、素直に遥奈が家に上げていたら"というリスク。そして、それを遥奈が防いだという事実である。
「妹さんにどこまで想像できてたかわからないけど、少なくてもイヤな予感くらいはしてたと思うわ。話してるとしっかりしてそうな印象やったしそこまで考えてても不思議じゃないやろ」
そこまで言って、彼はいたずらを企てる子供のような笑顔を見せていまだ口を開かないれな子のほうを見やる。そして、そのまま諭すような口調で、彼女に問うた。
「なあ甘織れな子。実の姉から見て、俺の妹さん評価、どう思うよ」
……そう訊かれた彼女は、ずっと隣で見てきた妹の要領の良さと賢さを頭に浮かべて、すぐに結論を出した。
彼女は黙って首肯する。二度三度と、続ける。それは、甘織遥奈を一番近くで見てきた者としての、ある種矜持のある力強い賛同に他ならなかった。
そう、そこまで言われれば、おのずと彼女の心の中で、ある仮説が立てられるのだ。
それは自分から願うには身勝手で、なによりも信じられないそんな仮説。
「じゃあ遥奈は、わたしをまもるために遥さんを家に上げなかったってこと……?」
そう彼の顔を見て問う。すると彼は少し困ったような表情を浮かべて、しかし毅然な表情へと戻して答える。
「少なくとも俺はそう思っとる。そんで、妹のことよう知ってるあんたもそう思ったわけやろ?なら合っとる合っとる」
おおよそロジカルではない結論をたたき出して、しかし元気をくれる言葉を彼は火を噴くように吐き出した。
そして、その衝動のままに突然彼は前方の曲がり角を指さした。堤防から小さな坂道を下って、先に続く道路を少し歩いた先にあるその曲がり角を曲がると、甘織家へと続く一本道へと続いている。
もうこんなところまで、とれな子が考えていると、再度彼から声が飛ぶ。
「今日、甘織れな子は学校に行ったな」
にわかに話題が飛んだような気がして、れな子は思わず家の曲がり角に置いていた視線を彼の顔へと移す。
すると、彼もそれに気が付いたようにこちらへと向き、言葉を続ける。
「じゃあ今日のお前は、"頑張って中学校に通った"甘織れな子や。そんで、妹さん……甘織遥奈さんも、"頑張って小学校に通った"甘織遥奈さんやな」
会話の核を掴みかねて、すこし困惑する。そういえばお腹すいてるって図書館出るときに言ってたな、とれな子は思う。空腹が会話のバグを引き起こしたのかと思ったのだ。
「えぇと、そう、だね」
そう歯切れの悪い相槌を返すと、彼は突然彼女の肩をたたく。少し響くくらいの衝撃で済んだのは、彼が手加減をしてくれたからか。上半身から下半身へと伝わる衝撃に身を震えさせながら彼の言葉を聞く。
「ほんならお前、今日は妹と同じかそれ以上に頑張ったわけやろ?じゃあ夕飯に大皿で回鍋肉出てきても妹に遠慮せんで好きなだけよそえるわけやな!」
彼は暗い掛け布団に身をうずめた太陽をたたき起こすような明るさでもって、そんな言葉を放った。
その言葉は、今さっき彼に肩をたたかれた時以上の衝撃をれな子の心に響かせた。いや、彼の言葉を聞いて本当に妹と対等になっただなんて思っていない。コミュニケーション能力も、要領の良さも、顔も、性格も、何一つ勝っていないのは変わらない事実である。
しかし今日、初めて、学校に行けたことを誰かに認めてもらえたような気がした。
そしてなにより。
甘織遥奈、一方的に仲違いをさせてしまっている妹が、こんなわたしをまもろうとしてくれたかもしれない、という仮説と、今日この日だけは、確かに学生として家族と一緒の社会生活を営んでいたという事実を彼に気づかせてもらって。
久しぶりに、家族みんなで食べる夜ご飯の時間が楽しみだと思えた。前方の席には父と母が横並びに座り、そして隣の席には遥奈がいる。そんないつもの夕食の光景を想像して、しかし昨日までは感じなかった視界の広がりを感じる。その確かな事実が、なによりもれな子の心を温める。
そうだ、といつ忘れたのかわからない感情を彼女は自覚する。わたしは、お父さんと、お母さんと、そして、遥奈のことが好きなのだ。家族と一緒にいる時間が好きなのだ。
なにか、がんじがらめになった糸がにわかにほどけたような気持ちよさを覚える。部屋に引きこもっていた時に思っていた、『どうすればいいのかわからない』という自身の問いに、彼女は今、驚くほどシンプルな解を導いた。
はぁ、と読み応えのある小説を読了した直後のような無意識に漏れ出るため息を、れな子は自身の白い息を見ることで知覚した。そして、次に吸い込む酸素とともに、自身に今必要な行動計画書が脳内へと届けられてくるようだった。
その計画書にはなにか、胸に落ちていた、真っ暗闇の中大切なものを手探りで探しているような無力感を晴らしてくれるような。暗闇に隠れていた自身の忘れ物に一筋の光を手向けてくれるような、そんな温かさを孕んでいた。
ねえ遥さん、と久しぶりに彼女から声をかけた。堤防から道路へと降りるために、先に彼は小さな坂道を下り終えていたため、珍しく彼は顔をあげるようにして私のほうを見た。
綺麗なお月様をバックに、今度はまるでわたしのほうがステージの上に立っているようで、彼のほうが客席に座る観客に見えるようで。にわかに湧き上がる感情のままに、わたしは勝手にも自身の悩みの答えを彼に主張する。
「わたし、実はクラスでハブにされてて。今日、もしかしたらって思って学校に来ても、やっぱり誰とも話せなくて……。つらくて、苦しいけど……」
後に続く言葉が段々と小さい声になる。びびってんじゃない甘織れな子っ、と心の中で自身を激励する。これはけじめなのだ。助けてくれた彼に結ぶささやかな所信表明、もとい約束である。
「けどそんなことより!わ、わたしは……、妹と……、遥奈と、また仲良くなりたい」
そう言い切って、突然彼女の心に猛烈な恥ずかしさが吹き荒れた。吹雪のようなそれにうめき声を上げたくなるが、最後の力を振り絞って、眼前の彼に
「えとその、どう、ですかね……」
と強張った笑みを浮かべながら訊く。いったいなにを"どう"なのか、れな子からしても意味不明であった。
しかし遥はそれを聞いて、少し目を揺らした後、両手で顔を隠してしまう。なにかあったのか、とれな子は不安に思うが、それも一瞬のことで、彼はそのまま両手で髪を掻きあげて、フゥとため息をついた。
遥は目を伏せてもう一度ため息をつく。そして、月に照らされた頭上の彼女に柔らかく笑いかけながら、
「いいじゃん、それ」
そう、優しく伝えた。すると彼女もそれを聞いて、強張った表情筋で照れ笑いを浮かべる。心なしか元気そうに見えるのは気のせいだろうか。
きっと、こんな場所を用意して話を聞かなくとも、きっと自分で答えを出したのだろう。そう、彼女のすっきりとした笑顔を見て遥は思う。甘織れな子は強い人で、その妹は小さいながらも聡明かつ姉思いな人だ。時間はかかっても、いつかは二人で解決していたであろう問題だ、いらない心配だったかもしれない。これなら下校路もゲームの話をすればよかったと、遥は思わなくもない。
けど、遥は。悩みを伝えれば、誰かが心の霧を晴らせる手伝いをしてくれることを知っている。眼前の少女、目元にかかるほど伸びた前髪を垂らして、たどたどしい足取りで坂道を下る甘織れな子その人に、確かに教えられたことだった。
坂道を下り終え、遥のいる歩道へとジョグで寄ってきた彼女は、少し息を整えた後にわかに顔をあげた。遥は彼女の纏う雰囲気に少し驚いた。
「わ、わたしやってみる。多分すぐにはうまくできないだろうけど、やってみる!」
おどおどとした表情に、少し震えた声をして、所信表明をする彼女はしかし。
確かに鋭くて、しかし温かさをたたえた、雲を晴らせたような目をこちらに向けていた。
☆☆☆☆☆☆
曲がり角を曲がって、甘織家まで残り50メートルを切るくらいになったとき、それまで他家の駐車場に置かれているワンボックスカーに隠れるようにしていた人影がにわかに見えた。
甘織家のリビングから漏れ出る光に照らされていたその人は、遥にとっても見たことのある人物である。
甘織遥奈、先ほどまで二人で語らっていた話中の少女は、冬の入りでしかも冷え込む夜だというのに、薄い生地のジップパーカーを羽織っただけの格好で、甘織家の駐車場に立ちながらきょろきょろと顔を動かしていた。
彼女のその様子を見ると、きっと暖房の付いたリビングなり自室なりでくつろいでいたのだろうと容易に想像がついた。そうでなければ防寒のボの字もない彼女の今の格好に説明がつかない。
そして、そんな恰好のまま外に出る理由というのもおのずと絞られる。コンビニなどに買い物に行くのであればもう少し厚着をするだろうし、届いた配達物を受け取るだけなら駐車場まで出て所在なげにあたりを見渡さない。
隣のお姉ちゃんを、遥は意味ありげな表情を浮かべながら見る。すると彼女は、温かいココアを受け取ったかのような、安心しきった微笑みを妹のほうへと向けていた。
遥は、噛みしめるように目を瞑り、はあ、と白い息を吐きだす。
「羨ましいねえ。やっぱり妹さんはお姉ちゃんのこと心配らしいわ」
目を開けて、れな子を見ながらそういうと、彼女は一秒でも早く妹を安心させたいと考えているのか、大きく手を振りながら妹の名前を数度呼ぶ。
すると、すぐに妹さんは我々を見つけ出した。見つけ出した瞬間、数歩だけれな子に歩み寄ろうとして、思い出したようにふんっと踵を返して家の中に入っていってしまった。
遥は妹さんのその様子を見て、大人びた態度をとる彼女にも年相応にかわいらしい天邪鬼さをもっているのだとほほえましく思う。しかし、横にいる姉の目にはそのように見えないらしい。
「わ、わたし、遥奈と今日話せる、かな」
「……まあ、ゆっくり頑張れや」
そう言って少し歩けば、甘織家の玄関の前である。カーテンのいたるところから窓を通過して漏れ出る光が、暖房の温かさまでも運んでくるようである。
れな子は玄関へと進もうとして、すこし止まる。
「はよ行きな。おいしいご飯が目の前やで」
軽口をたたくように、彼女の背中へと言葉を向ける。
しかし、彼女はその言葉に相対するようにこちらへと向いて、意を決したような顔をして呟く。
「あの、わたしが休んでた理由、その……訊かないでくれてありがとね」
自身の気遣いに気づかれるとは思わなかったと、遥は驚いて一瞬言葉が止まる。しかしすぐに持ち直して、玄関越しから溢れ出す照明に身を照らした彼女へ笑みを浮かべながら言葉を返す。
「……俺も、あんたのほうから言ってくれて嬉しかった」
一か月前の彼女と比べて、今回は彼女から自身の言いにくかったであろう悩みを開示してくれた。嬉しいと言えば不謹慎かもしれないが、それでも遥の心には確かに満たされる何かがあった。
遥の返答に、れな子はもう一度感謝を伝えて、今度こそ家へと帰っていった。
遥はついにひとりになった。今日という一日が終わったような気がした。にわかにどっと疲れが押し寄せてきて、腹の虫が限界だと言わんばかりに大きなうめき声を上げる。
もうここに長居する必要もないだろう。明日からの部活動の予定を、脳内のカレンダーから確認をすれば、今週はハードな練習が多い。家に帰って、夜ご飯を食べて、布団に入って早めに寝なければ、と彼は思う。
独りになって、俄然服を貫通して肌を突き刺すようになった冷気を吸う。そして肺に溜まったそれをゆっくりと吐いていく。なにか、胸中から顔をのぞかせようとするものの黒い影を見たような気がして、それを封じ込めようと、もう一度深呼吸をした。
それでも、やはり声が出てしまう。
「俺も仲直りしてえなあ……」
ぽつりと、花にでも呟くように、遥は星空へと声を注いだ。いつぶりだろうか、そんな感慨を覚えたのは。きっと甘織姉妹が互いに渡しあう不器用な優しさをここ数日で多く見てしまったからだろうと、そう自身の心に唱えて遥は甘織家から背中を向けた。
時刻は7時を過ぎていた。綺麗な月が照らす住宅街に、彼のローファーの足音が聴こえ始めていた。