ひと際大きくなった雨音が、住宅街の屋根を無差別にたたいていた。また、屋根を避けた雨粒も家の駐車場を映すリビングの窓に激突して垂れていくか、地面のアスファルトに追突していく。
今日という日は、雨音のノイズが絶えず聴こえてくる日であった。しかし、遥はつい30分前から、そんな空から脱落する水の大喧騒に負けないほど、胸の鼓動がうるさく聞こえていた。それは決して、小学生の有り余る体力を家の中で走り回り解決していたからではない。酸素不足による心拍の上昇ではなく、緊張による心拍の上昇であった。
そう、今日は海外から兄が帰ってくる日である。大学生となった兄は、自身の夢であった海外留学のために半年前からイギリスへと旅立っていたのだ。
旅立ちの日は呆れるほどきれいな青空であったのを、遥は今でも思い出す。両親と兄の心情を映し出したかのような、圧倒的な熱波とともに上空に映える夏空は、しかし遥にとってはまったく逆のモノであった。
イギリスに、行ってほしくなかったのである。理由はいろいろとあった。高学年とはいえ小学生の遥である。実の兄が海外に行ってしまうだなんて情報は、当時の彼にとって小さい体躯に入っていた胸を容易に引き裂くほどの寂しさをもたらしていた。
いや、それすらも些細なことである。一番悲しかったことは、サッカー選手としての師であり、あこがれでもある兄が、イギリス留学を機にサッカーを引退すると言っていたからだ。それは彼にとってなによりも悲劇的で、許しがたいことであった。ずっと背中の背番号10を見てきて、遥にとってサッカーを始めるきっかけを与えてくれた選手であったのが兄であった。いや、兄という世俗的な肩書を取っ払ったとしても、どんなサッカー選手よりも敬愛していた選手が、目の前でなんともなしにスパイクを脱ぐとのたまったのを聞いて、遥は裏切られたような気分に打ちひしがれた。
そこから一か月間、兄とは口を利かなかったのを覚えている。その間兄は寂しそうに笑っていたが、知ったことではない。間違いなくその一か月間の遥は、兄のことが嫌いで、イギリスも嫌いで、ついでにプレミアリーグも嫌いになった、ふてくされたガキの姿であった。
遂に留学当日になった日も、遥は態度を軟化させることはなかった。車の中でも終始無言であり、空港のターミナルから見送りをするときも、両親は兄にはなむけの言葉を差し出していたが、遥はツンとした態度を崩さなかった。遥の態度に流石の父も叱ったが、反抗期の遥は目を半泣きに変化させたのみにとどまり、ついぞ口は開くことはなく、やはり兄は温和そうな相貌を困ったように曲げて微笑を浮かべるのである。
兄が日本から去って一週間が経ったとき、早くも遥の胸中には後悔の波が押し寄せていた。小6男子の心と秋の空は移りやすいのである。キッチンで夜ご飯の支度をしている母に、兄への態度について後悔していると鼻声交じりに伝えれば、母は呆れ混じりにリビングへと歩いていき、帰ってきたと思えば手には便箋と鉛筆が握られていた。
「はい。これでお兄ちゃんにごめんなさいって伝えなさい」
ダイニングキッチンに置かれたお気持ち表明セット一式分を見た遥は、素直に椅子へと座り、謝罪文をしたためる。書き終わった手紙と、いつの間にか母に撮られていた手紙を書く自分の姿でもって兄に完全降伏を表した遥は、手紙を送った数週間後、母の携帯にかかってきたテレビ電話によって、兄とのかりそめの和解が不格好にも成立したのである。
ついでに郵送で、世界的に有名なウェールズ人選手の代表ユニフォームと、ウェールズの国旗をあしらったキーホルダーを送られた遥は、その選手の大ファンであることも幸いして、昔以上に兄のことが好きになったのであった。もちろんウェールズ国旗のキーホルダーは大切にランドセルへとつけ、翌日から自慢するように登校したのは言うまでもない。
そんな兄が、もうすぐ帰ってくるのだ。心臓を鳴らす早鐘は、改めて謝罪をするために暗記した、ごめんなさいの言葉をつぶやくたびに早くなっていくようである。リビングのソファーに座ってサッカーゲームに興じていながら、頭の中ではそればかりが浮かんでは不安になっていく。しかし今日、兄と顔を合わせて本当の意味で仲直りするのだとそう自分に言い聞かせて決心を促すと、次第と心臓の音も緩やかになっていった。
ガチャリ、とにわかに二階からドアの開閉音が聞こえた。ゆっくりと父と母が下りてくる。
「おし遥、準備はいいか」
父はドアを開けて開口一番にそう言葉を飛ばしてきた。遥はソファーからロケットの様に飛び出して、
「いつでもいける!」
と元気に伝える。母はそれを見てにこりと微笑を浮かべる。
今から車に乗って、空港まで兄を迎えに行くのだ。そうしたらあとは、ちゃんと目を見て謝って、兄のために用意されたおいしいご飯を食べるのである。
そう意気込んで、いの一番に車に乗り込もうと靴を履いて、玄関の扉に手をかけるところであった。
均等かつ均一で、逆に間の抜けたような電子音が廊下に鳴り響いた。それが家の固定電話から鳴っている着信音であると気づき、後ろを振り返ると、母が受話器に耳を当てていたところであった。
(なんでこんなタイミングで電話が来るのさ……)
友達と外で遊んでいるときに、夕方6時のチャイムが鳴ったときのような、にわかに体が冷える感覚を覚える。胸中に急速に広がるつまらなさを振り払うように、あるいは早く行こうよと言外に伝えるように、わざとらしく靴のかかとを玄関に突いた。
コツ、コツ、とメトロノームの様に音を鳴らす。しかし、依然として両親は遥の音に興味を示さない。いつもであれば、静かにしなさい、の一言くらい飛んでくるというのに。
遥は少し不思議に思った。
胸中はいつの間にか電話主の不満から両親への不思議さへと色を変え、視線を自身の靴から、両親のほうへと移す。
「ねぇねぇまだ終わらな……」
そこで、スッと息をのんだ。母が膝から崩れ落ちたのである。
「お母さん!」
そう叫んだのは遥だったか、父だったか。遥は靴のまま母親のもとにかけよると、父も腰を下げて母親の背中を支える。
「冬人が……」
滑り落ちるように耳から受話器が落ちると同時に、母はうめくように呟いた。
遥は嫌な予感がした。膝をついた先の廊下から、底冷えした冷たさが全身へと流れてくるように思えた。
数秒、あるいは数分経って、あくまで優しい口調で、しかし動揺が隠せていない声音を通して父が聞く。
「冬人が、どうしたんだ……」
すると、母は突然、膝をついている遥を抱きしめて呟くように話した。
「冬人が、交通事故で亡くなったって……」
母の体の中に包まれて真っ暗になったはずの視界が、小刻みに震えていた。
母が泣いているという事実に気が付いたとき、兄の死という荒唐無稽な話に妙なリアリティが生まれた。やがて、その話が紛れもない事実なのだろうと感じた瞬間、遥はイギリス行きの空港のターミナルで、依然ツンとした態度を崩さない自分を見て困ったように髪を撫でてくれた兄の優しい笑みを思い出していた。
☆☆☆☆☆☆
そこからの記憶は、あまり覚えていない。数か月後に控えた小学校の卒業式も、それからの春休み期間も、二階にある自室のベッドで魂が抜けたようにぼーっとしていた気がする。あぁ、そうだ。二階に上がって自室へと続く廊下の途中に兄の部屋があって、ドアに所有者を示すように『フユト』と書かれた看板が掛けられていて。それを見るとどうしようもないくらい暗い感情の高波が胸に押し寄せてくるから、できるだけ自室から出ないようにしたんだった。
あのドアに掛けられた小さな看板と、兄の名前を見るたびに、自分が殺したと、そんなことを思うから。
しかし、トイレやご飯に向かう道中で、仕方なくその看板を見るたびに、違う、そんな訳はないとそう心の中でつぶやくと、耐性ができていくように徐々に徐々に、兄の看板に心を乱されることがなくなっていった。
ゾンビのような足取りで歩いていた日々の、ようやく踏み出せた小さな一歩目は、あるいはそんなものだったのかもしれない。
それから少し日が経つと、多くの大人が、多くの友人が、多くのチームメイトが家のドアを叩いてくれて、励まされたり心配されたりして、"大丈夫か"とか"大丈夫だ"なんて言われる日々を過ごした。
半ば強引に他人と関わりをもち、兄との思い出話や俺との思い出話を献花代わりにされていくと、温かいミルクにゆっくりと砂糖が溶けていくように、段々と兄が死んだという事実を飲みこめるようになっていった。
様々な人との多量な会話を経て、にわかに静かになった自室で、一人うるさくなった心臓をたしなめるようにため息を吐いた時、気が付けば雪の寒さは消えていた。そして、いつの間にか溶けていた雪を置換するように、窓の外からは春の陽気が新芽とともにその日差しに乗ってきて、大本の空は頭が割れるような澄んだ快晴をもって目を焦がすように佇んでいた。
その日から、まるで冬眠から覚めた熊のように。あるいは冬越えした太陽の麗らかな視線に、ゆっくりとつぼみを起こす桜の花の様に、視界が段々と開けてきた。するといつの間にか、父と母の、自分に向ける笑顔に痛々しさが見られなくなっていて。あぁ親は友達は親戚は、俺がベッドで布団と一体化している間に兄の死に立ち直りつつあるのかと、視界を隠しつつある前髪の隙間から外の様子をようやく捉えることができた。
そう感じた瞬間、自分がいまだに自室にこもって無気力にいるのは異常なことなのか、と一人自室で胸に抱いた枕に顔をうずめてそう思う。
川をぐるりと囲む堤防は、桜の絨毯で敷き詰められていた。
兄を亡くした弟がようやく一人で学校に行くというのに、その日の朝は特にこれといった感情の乱れを覚えなかった。ドアの取っ手を押した瞬間も、昔と変わらず腕に重さは乗ってこない。家の扉は何十人という人々によって既に開け放たれているようであり、俺はただそれを通るだけであった。
こうして、ぼんやりと、周りの大人たちの潮流に従うように、俺はゆっくりと腰を上げた。中学生になった同級生たちの、着せられたようなブレザーとローファーの足跡を追うように、あるいは周りの大人たちのスーツ姿に着いていくように、俺もまた一人の中学生として、春先の撫でるようなくすぐったい風を受けて外に出た。
登校路である堤防に散った桜を踏み、目を焦がすような春の晴天を枝越しに仰ぎ見て、俺は一つ息を吸う。すると、広がった肺に呼応するように肩にかけていたスクールバックがよろめき、ランドセルから密かに付け替えていたウェールズのアクセサリーと数回当たる。からからとプラスチックの音を鳴らす、白と緑と赤い竜が描かれたそれを見て、俺はくすりと笑みを作った。するとアクセサリーもまた、太陽の光を反射しながらからからと再度満足げに音を鳴らすのである。
☆☆☆☆☆☆
俺が部屋の中で抜け殻になっている間に、中学校の入学式は終わっていた。当然、クラスではある程度の自己紹介がそこかしこで済んでいる状態であったが、学校側の配慮なのか、小学校からの友達がクラスに多くいたため、友達作りに苦労することはなかった。むしろ境遇を慮ってか、神輿を担ぐようにクラスの中心へと背負いこまれたほどである。
こうして毎日学校に通い、サッカー部としての活動も抜かりなく行い、友人関係も良好で、大きな声で家に帰ったと告げて元気にご飯を食べていれば。気が付けば太陽もお月様もくるくると回っていき、日に日に親も俺を見て安心そうに目を細めて笑みを増やしていく。
"時間こそが問題解決の付け薬"と言ってくれたのは、だれの親御さんだったか。色んな大人と、同級生と、中学校という環境に流されて、流されて。
そう、気が付けば兄のことを思い返す暇もないくらいのスピードで中学生活は過ぎていった。過去を過去だと割り切って、心に受けた傷にはかさぶたができていて、やがて皮膚から傷跡がなくなるように、家庭の色合いも元通りになった。
兄の死で荒んだ心と体は、その何十倍という人間の支えと関わりによって包帯が巻かれていた。そしてなにより、兄がイギリスから送ってくれたプレゼントと、そしてなにより実家で教えてくれたサッカーが、透明な糸となって彼との思い出を繋ぎとめてくれるようだった。
自分の周りにはいろんな人がいてくれていて、その中には確かに兄もいてくれている。教室の椅子に座り、机の周りを取り囲むクラスメイトと雑談をしているときにふと実感したそんな感慨が、自分につける最後の薬とばかりに温かさを保って胸へと届いた瞬間、俺は鷹揚に机へと額をあわせに行った。しかしそんな心づもりとは裏腹に、机は鈍い音を立てて自身の額を受け止める。
無理やり顔を机と腕で覆って、真っ暗になった世界に、細い悲鳴と心配する声が飛んでくる。ゆっくりと息を吸って、そして今度はバッと顔をあげると、クラス中の生徒が俺を見ていた。
「おい!遥お前おでこ真っ赤……ていうか泣いてる!?そんな痛かったかよ!?」
友人の一人でサッカー部でもよく関わっている高橋が、混乱に混乱を重ねたような慌て顔でそう言葉を飛ばしてきた。
「いやぁ、体勢崩したらガクってなっちった。試合負けた時のお前みたいな崩れ具合やったな」
そんな無理のあるごまかし方をすれば、ほんの少しの沈黙の後、周囲に聞かせるように悪態をつきながら前橋は俺の首に腕を巻き付けてきた。そして、巻きつけた腕とは反対の指の硬い関節を頭にぐりぐりと押し付けてくるのである。
「なぁ、まえちゃん」
すっかり元通りになった教室の中、密着している彼だけに聞こえるように声をかける。
「……どうしたよハルハル?」
少し怪訝そうに浮かべた彼の焦げた笑みを見て、しかし俺はため息をつく。
「なんだよ~。呼び方ツッコめよな」
意地悪が不発に終わった子供の様に口をへの字にした彼は、首から腕をほどいて自分の席へと戻ろうとした。しかし、ちょこんと彼のカーディガンの裾を掴んで、顔を隠して言う。
「ありがとな、いろいろ」
言葉を掛けた彼が一体どんな表情をしていたのか、顔を背けていたからわからない。しかし、
「またおでこ痛めたのかよハルハル。声が震えてるぜ」
冗談めかしい口調で、しかし彼から顔を背けた俺の狙いを看破するように呟いていった言葉から察するに。
俺はマジで人に恵まれまくっているらしい、と手のひらを両目を隠すように乗せて思った。
その日から、心なしか俺を取り巻く時間の流れがゆっくりになった気がする。現代文の教科書に載っている物語文を読んで心を動かされたり、美術の教科書に載っている有名な絵画を見て何とも言えない感情を覚えたり。友達との会話に手を叩いて笑えるようになったのもそれからで、多分、"周りに友達がいる"ってことが、心の余裕につながるんだと深く気づかされた出来事だった。
だから、冷えこんだ夜の堤防で、クラスメイトにハブにされていると苦しそうに吐き出す甘織れな子の声を聞いて、今度は俺がそうなろうと思った。あの時俺を助けてくれた何十人の中の一人に、今度は俺がなろうと、そう思ったのだ。
そうすれば眼前にいるピンク髪の少女は、時間を掛けようとも昔の俺のように、いろんな人に助けられながらゆっくりと立ち上がることができると思ったから。今の彼女の目からは誰もかれもが敵に見えているのだろう。あんなに優しい彼女が、実の妹に対して無視を決め込んでいるという事実がそれを証明している。手を差し伸べ続けなければならない。支えになってあげなければならない。なぜなら彼女は昔の俺のように脆くて、弱くて、不安定な時期にいるのだから。
彼女の口から欠席が続いていた理由を聞いた時、俺はそんなことを思っていた。
……そう、つまり俺は甘織れな子のことをなにも分かっていなかったということである。
☆☆☆☆☆☆
たまに、どんな逆境に立たされても、笑みをたたえて白い歯を絶えず見せながらずんずんと歩を進める怪物がいる。自身にかかる不利益という名の泥水を、まるで身にまとう装飾に奇抜な美しさを足すペインティングアートの様にしか思っていないようなような、そんなメンタルモンスター。
兄が死んで、暗い自室。うずくまって見るテレビやパソコンの先の、メンタルに怪物を飼っているような有名人やスポーツ選手が、インタビュアーに急かされて語る過去の苦労話と、奇想天外な解決方法を聞いて。"あぁ、俺もそうであればよかったのに"とピクリとも動かない表情筋で独り言ちる昔の俺は、かさぶたの内側、治ったと思われていた心の傷の奥の奥で、忘れ物のように、いまだうずくまって泣いている。
人と環境と多くの親切に背中を押され、足を支えられ、促されるように、辛うじて立ち上がったのが俺だ。兄の死というどうしようもなく不快で、理不尽な大雨に苛まれた時、テレビの先の有名人だったらスキップと鼻歌を交えて愉快に街を歩くところを、家の自室でいろんな人たちに抱きしめられながら、雨と雲が過ぎ去るのを震えて待っていたのが俺なのである。
ねぇ遥さん、とにわかに頭上から言葉が降ってきた。堤防から坂を下り、道路へと足を向けたところであった。
少しの驚きとともに堤防側へと身体を回し、彼女の顔を見ようと反射的に視線を上へと向ける。すると、堤防の上にいる彼女は、夜空に映える月を背景に強い意志をたたえた目線を向けながら言葉を紡ぎはじめていた。
「わたし、実はクラスでハブにされてて。今日、もしかしたらって思って学校に来ても、やっぱり誰とも話せなくて……。つらくて、苦しいけど……」
彼女の言葉尻は、優雅な月の光に照らされたピンク色の長髪とともにわずかに震えていた。まるでそれが彼女の心の揺らぎと精神的な脆さを可視化させているようで、そしてなにより彼女を取り囲む問題の全容を聞いて、やはり助けてあげなければ、と静かに思う。
だって、彼女もそうなのだと思ったから。
彼女もまた、かかる理不尽な雨を前にして、痛々しく心へと染みてくる冷たさに耐えようとしゃがみこむ不幸な人なのだと思った。
だから、そんな友達である彼女の様子を見て、あの時いろんな人に受けた優しさを、今度は俺が与える番だと考えていた。
いつか彼女がふと起き上がって、外を見た時に、晴れた空が覗いているように。自分自身でまた、外に出ようと考えついた時に、"誰かに支えられていた"という事実が彼女のお守りになるように。
なぜなら、彼女は俺と同じで、テレビの向こうに見る怪物などではなく、ただの一般人なのだから。
しかしどうだ。
彼女の背後で世界を照らしていた月が、確かにその瞬間、微笑んだように柔らかい光を彼女だけに向けた気がした。
住宅街も、川もその光を失って、スポットライトが劇中の主人公に向かうように、ただ彼女だけが暗い世界の中で月の光をその身へと溶かしているようだった。
前髪に隠れた彼女の目が、にわかにこちらへと見開かれると同時に言葉が続く。
「けどそんなことより!わ、わたしは……、妹と……、遥奈と、また仲良くなりたい」
彼女は胸の前で両手を握りながら、まるで磁石に歯向かうように、必死に視線をこちらに向けて叫んでいた。叫ぶというには声量が足りず、声は途切れ途切れで、勢いに欠け、なんとも不格好かもしれないが、確かに彼女は叫んでいた。
その瞬間、俺は幼少期の忘れ難い記憶を思い出した。羽を痛めた小鳥が自身の両手からにわかに飛び立つ記憶である。木の葉を散らしてアスファルトへと落ちた小鳥を家で手当てするために両手で優しく捕まえようとしたところで、しかし小鳥は驚いたようにばっと羽をはためかせた。痛々しいながらも擦り傷だらけの自身の羽で広大な空を目指す小さき鳥に、俺はある種の荘厳さと雄大さを覚えて心を揺らしたのである。
彼女は自分の行く末を自分で決めた。傷だらけになりながら、誰に助けを乞おうとも文句なんて言われないはずの今の状況で、しかし彼女も今まさに自分で描いた地図をもって一人でドアを開け放とうとしている。
ああ、すごい。そう思った。それは万感の思いのこもった、言葉にすればたった数文字の感情であった。
俺の喉から取り留めのない感嘆の感情が、言葉の輪郭を崩して息のように漏れた。その感情を声に乗せたら、途端にちっぽけで貧しい言葉に成り下がるような気がしたからである。
……甘織れな子は、怪物でも、天才でもなく、ただの凡人なのだと思う。それは変わらない。しかし、俺なんかよりも、勇気があって、頑張り屋なかっこいい人だった。
クラスメイトにハブにされる。そんな悪趣味で悪辣で、クソみたいな理不尽を振り落とす大雨を前にして、しかし彼女は歯を食いしばって自身の心のドアを開けた。部屋の中でうずくまるだけの俺とも違い、軽い足取りで、大雨を求めるように外へと飛び出すメンタルモンスターとも違い、彼女は血反吐を吐くほどの勇気を振り絞って外に出た。
自分の脚で登校をした。自分の言葉で家族とクラスメイトとの難しい関係を言葉にした。そして、自分の腕で今、まずは妹との仲を戻そうともがこうとしている。
彼女を再度見る。すると彼女は不安そうにこちらを見ていて、「えとその、どう、ですかね……」と強張った笑みを浮かべながらこちらへ訊いてきた。なぜだろうか。そんな震えた彼女の姿が、ぎこちないその表情が、イギリスへと旅立ったあの日の凛とした兄の佇まいと重なって見えるようで。
俺は、今だけは月の光すらも映さないように。目を閉じるように、手のひらを両目へと被せた。
そして、ごまかすように両目に被せた手のひらで自身の髪を掻きあげて、おどおどしている彼女を見ながら、
「いいじゃん、それ」
と微笑みかけながら呟いた。
堤防に確かに足をつけた彼女の意志表明へ賛辞を述べるように、あるいはその背後に覗く兄に、イギリス行きを告げられたあの日、本来言わなければいけなかったことを数年越しに吐き出すように、そう呟いた。
すると彼女もそれを聞いて、強張った表情筋で再度ぎこちなく照れ笑いを浮かべる。目元を掠める彼女の前髪が、川の上を流れる風に揺れている。月明かりは無軌道に動く彼女の髪を捉えて離さず、彼女のピンク髪はいつもよりも仄かに明度を増している。
そんな様子に目を細めて、俺は視線を外して一つ息を吐いた。白い息は空へと昇り、月光に溶けて見えなくなる。しかしそれを数回繰り返したところで、心臓の鼓動の大きさはまったく鳴りを潜めない。俺は兄のサッカー姿を初めてみた時のような、そんな心臓の高鳴りに似た感覚を覚えて、思わず胸に軽く手を当てて彼女の方をもう一度見る。
すると彼女はいつの間にか大きく顔を赤らめていて、身を震わせつつ恥ずかしそうにしていた。自身の行動を振り返って大見得を切ってしまったとでも思っているのだろうか。過去にもたびたび見られていた彼女の突飛な反応に、俺は自身の胸に笑いの芽が咲いたことを知覚して、にわかに口角の上がった口元を手の甲で隠す。そして、ふと現実に戻ってきたような感覚を覚えるとともに「おい、恥ずかしがっとらんではよ降りて来いよ」といまだに堤防の上に立つ彼女に向けて声を放てば、慌てたように彼女は早歩きで堤防を踏みしめ、道路に続く坂道へと歩を進めていくのである。
綺麗な月明かりの下を歩いていく彼女の様子を見ながら、俺はにわかに、ただ彼女が幸せであってほしいと思った。そして同時に、彼女が自身の周りにいる人間の幸せを望むなら、その人たちも一人残らず幸せになってほしいと感じる。そこからは、まるで子供が誕生日に貰うプレゼントの候補を考えるように、次から次へと欲望が浮かんでくるようだった。
いつか彼女が、手を震わせずに、人にわがままを言えるようになってくれたらと思う。いつか彼女が、気心の知れない多くの友人に囲まれながら、甘く蕩けた安心感の中で生きてくれたらと思う。
彼女の勇気をもった挑戦が、決して無駄にならないようにと月へ願う。彼女の頑張りのすべてに、その対価に足る実が結ばれるように神様へと祈る。
俺の歩めなかった未来には、輝きが溢れていたと思えるように。
誰でもない、こんなにもかっこよくて頑張り屋な甘織れな子が、そんな温かい未来を通れるように。
にわかに彼女の足音が大きくなった。見ると、彼女は堤防から道路へと続く坂道を早足で下っているところであった。それに呼応するように、川の冷気を纏った風がこちらへ小さく呻く。肌を刺すような厳しい冷たさを振りまく風は、五感を通して俺を現実へと押し戻してくるようだった。
カラン、とスクールバックから軽い音が鳴った。風に揺られて二度三度スクールバックと衝突したそれは、まさしく兄からもらったキーホルダーである。上半分は白色、下半分は緑色で、真ん中には大きく赤いドラゴンが描かれたそれは、街にひろがる暗闇に溺れて輪郭をぼやけさせているが、しかし確かに兄と俺とを言外に繋ぐウェールズ国旗である。
彼女が坂道を下り、こちらへと続く道路を軽い駆け足で向かってくる間に、気温によって少し冷えついたプラスチックの宝物を撫でて、やがて握る。
寒さで感覚の鈍麻した手のひらは、しかし確かに兄の温かさを知覚していた。
〈あとがき〉
・サブタイトルを付けました。読み返したい話を見つけやすくするためです。よろしくお願いします。
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