6巻及び7巻のネタバレが含まれています。
閲覧の際にはご注意のほど、よろしくお願いいたします。
遥さんに別れの挨拶を済ませ、冷えたドアノブへ手をかざしてそれを一息に引っ張りあげる。すると、外の暗闇を溶かすように廊下から明るい光が差してきた。ついで、リビングから漏れ出てくる暖房の温かい風がわたしの身体を包み込んでくる。わたしはその光と温かさに吸い込まれるように玄関へと歩を進めて、遅れてパタン、と扉の閉まる音が聴こえれば、なにかそれが、栞の挟んだ小説を閉じた音のように感じられて、別世界からふと現実に戻ってきたような感覚を覚えた。
わたしは学校指定のローファーを脱いで玄関へと登り、羽織っていた制服を脱いで手に持つ。そして、玄関の照明の下でふぅ、と息をついて、もしかしたら今日初めて、その場にぼおっと立ち止まった。
(ほんとにわたし、学校行ったんだなぁ)
手の中で握られた制服は、自身の頭分ほどの影を被っていた。よく見れば、ところどころ皴になっていて、それが、今日学校に行ったという達成感と頑張りをわたしの心へと届けてくれる。腕に重みを感じさせる制服を見つめながら、頬をつねるみたいにもみもみとすると、やっぱり手のひらには厚い生地の手触りが残っていた。
テスト返却で、先生から100点の答案を受け取ったときのような、満ち足りた充実感が心に広がる。なにか、遥さんと会話をしてから心と足がふわふわと浮ついているようだ。アニメで見たキャラクターの、お酒に酔った時の感情に似た、そんなゆらゆらとした気楽さが玄関の天井へと浮かんでいく。
わたしはそんな心情を体へとひろげて、暖かいリビングに向けて軽い足取りを進ませる。制服の持った手とは反対の手で、リビングへと続くドアを開けた。
「ただいま……」
ドアを開け、跳ねるようにリビングへと進みながら、そう言葉を零していたところであった。
☆☆☆☆☆☆
ため息のようになんともなしに呟いた言葉のすぐ先には、本来であればソファとテレビ、それとダイニングテーブルと4つほどの椅子がひらけるように見えるのだが、首元にポニーテールを従えたピンク髪の少女、わたしの妹である甘織遥奈がそれらを隠すように眼前へと立っていた。
「うぉ遥奈!?……遥奈さん?」
驚きの声とともにたじろいだわたしは、しかし一向に声と顔をあげない彼女に違和感を覚えて、思わず名前を呼ぶ。すると、にわかに彼女は顔をあげ、わたしの方を見て、そしてため息を吐いた。え、ため息?
「お姉ちゃん、今何時だと思ってるの」
無表情でぼそっとつぶやかれた言葉は、まるで氷でできているような冷ややかな温度感をもってわたしの心へと届いた。
「えっ。えぇっと、多分7時くらい……とかかなぁ?」
わたしは、今だけは姉の威厳を取り持つように、妹の顔の奥にある掛け時計をわざとらしく見ながら、なんにも効いていませんよみたいな表情をして返答をする。しかし、わたしができる全力のおふざけ芝居は彼女の表情を変化させるほどの効果はなかったらしく。絶えず無表情を貫く彼女は、何事もなかったように再び同じ冷ややかな声で質問をしてくる。
「……一応訊くけど、今日何時間授業だったの」
なんか遥奈怖いんだけど!わたしは閻魔様に上からにらまれる亡者のように内心震えながら、彼女の射貫くような目をそらしつつ告げる。
「ろ、六時間授業だったよ……」
ここで"4時間だったよ4時間授業!友達とボウリングしにいって!それからカラオケまで行ったからこんな時間になっちゃったー!"なんて空気を明るくするために言ったらどうなるだろうか。……いや、ほんとうに想像したくないなぁ。そもそも現実感まったくないしね。遥奈の視線が強まったのを避けた視界の端の端で感じながら、わたしはそんな、未だどこか楽観した現実逃避をする。
「それで」
しかし遥奈は底冷えした声を響かせて、再度質問を飛ばしてきた。語気は二倍増しで。わたしはびくっとして、思わず彼女の顔をばっと見てしまう。すると、彼女の無表情な顔は、その中からうっすらと煮られた苛立ちのようなものが見え隠れしているようで。なんとなく、食べられるのか、と思った。きっとわたしは銃口を向けられたシカのような顔をしているだろう。彼女の指がかかった引き金を見るように、わたしの行く末を見るように、彼女の目をすっと見つめながら、わたしは彼女の次の言葉を待つ。
「……もう一度訊くけど。お姉ちゃん、今何時だと思ってるの?」
下から射貫くような視線を送りながら放たれたその言葉は、前回のそれとは比べ物にならないほどに、冷たいものだった。わたしは冷や水を思いっきりかけられたような驚きを覚えて、反射的に視線をどこか適当なところに投げげてしまいたくなったが、依然彼女の視線は鋭いし、表情は強張ったものだから、視線はいまだ彼女の目もとに捕らわれたままだった。
しかし質問に答えないと呼吸が続かない。物理的に。わたしは恐る恐る、今度は姉の威厳とか、妹への対抗心とかを捨てて、伏目がちに正直に告げる。
「……7時、です」
そういうと、遥奈はまたため息を吐いた。……こんなに呼吸が苦しく感じるのは、きっと遥奈がため息ばっかして、リビングの酸素が枯れさせているからだと脳内で妄想をする。同時に、まるで水槽の金魚が空気を欲して口をパクパクさせるように、わたしはばたばたと言い訳を語ろうとした。そんなときだ。
「れな子ー?ちょっとこっちにきて頂戴」
ダイニングテーブルの一角に腰を落ち着かせたお母さんが、今まで貫いていた沈黙を破り、こちらへと顔を向けて、隣の椅子をポンポンと叩きながらわたしを呼んだ。……能面のような笑みを浮かべながら。
笑み、古来では威嚇として用いられていたとも聞くそれを張り付けた母の顔からは、獰猛さとは違う……そう、夜に日本人形を見た時に感じるような何とも言えない恐ろしさが放たれていて。わたしは思わず後ろに、廊下の方へと後ずさろうとして、しかしその気配を察知した母がもう一度わたしの名前を呼んだ。
「れな子、こっちにいらっしゃい」
にわかに血液が冷え固まったような感覚を覚えた。母のその声は、言葉遣いも、問いかけ方も確かに優しい。それなのに、突然担任の先生が教室中に響き渡る声量で怒鳴り始めた時のような、恐怖感と焦燥感を混ぜ合わせたような感情を思い出した。
あ、やばい。わたしは本当にとんでもないことをしてしまったのかもしれない。
その時にはもう、玄関までにあった酔いのような気楽さは露ほどもなくて。ただ、引きこもっていた時にすら聞かなかった母の怒りを纏った優しい声を前に、わたしは自室のドアを閉め切ってからずっと恐れていた、親子の関係性の途切れがチラついていて、死刑台に上がる囚人のように、ゆらゆらとした歩調で自身の首を母の隣の椅子に持っていくのであった。
☆☆☆☆☆☆
なんだれな子。ちょっと遥さんに持ち上げられて、調子に乗って妹と仲良くしたいなんて啖呵を切っておいて、このザマか。
母の説教を聞いていると、昨日までの自分が脳内でそう言葉を零してきた。
母の言葉は、初めから終わりまでその一言一句に正論の針が埋め込まれているようだった。耳と心がとても痛い。それに、言い訳をしようと母の言葉に触ろうとすれば、今度は途端に針の返しが自身の喉に刺さるようで、わたしはずっと母のお腹を見ながらはい、はいと相槌を打つしかなかった。
実際言い訳のしようもない。夜遅くに帰ってきたこととか、連絡一つも送らなかったこととか、冷静に考えれば怒られて至極当然のことだ。わたしは結局、なにをしても家族に迷惑をかけてしまうゴミ人間なのだ。
暗澹たる雲が、遥さんとの会話で快方に向かっていた心境の惨めさを再び広げて、わたしの心を塗りつぶしていく。すると、その機に乗じるように、自分の心を飲み込もうと過去の自分が脳内に語り掛けてくる。
勝手に学校に行って、結局、クラスメイトにはハブにされ続けてたじゃん。学校なんて行かないで、引きこもってるべきだったんだよ。家族にまた、いらない迷惑をかけてさぁ。妹も思ってるよ、"まともに学校も行けないお姉ちゃんなんて消えてほしい"って。ほら、誰からも必要とされてないよお前。学校も、親も、妹も必要だなんて思ってない。妹と仲直りする約束だって守れないんだから、あの遥さんでさえも愛想をつかすよ。ほら!ねぇ!お前はなんで人様に迷惑をかけてまでさ……。
(……わたしはなんで、人様に迷惑かけてまで生きて━━)
一分の隙もなく真っ黒に塗りつぶされたゴールテープが、その瞬間見えたような気がして、あと1歩思考を先に進めれば、ゴールテープが切れるところまで進んでしまうところだった。思考も走りも、進みだしたら自分ではなかなか止まれない。あと一歩、本能ではわかっていても止まることのできない核心に手が届きそうになった瞬間。
にわかにふぅ、と母が息を吐いた。
すると、どんよりとした雲空から晴れ間がのぞくような、そんな空気の変化を感じて。わたしは思考の結論を出すあと一歩をすんでのところで押しとどめて、立ち止まり、母のお腹に終始していた視線を上へとのぼらせる。
するとそこには、先ほどまでの無機質な笑みとも違う、怒っているときの般若のような顔とも違う、昔からよく見た、花を愛でるような微笑を浮かべた母がいた。わたしの好きなお母さんの顔。この表情を見ると、柔らかな視線に気が付くと、春先の暖かな空気に包まれるみたいに、心が途端に温まる。自己批判と後悔で暗く染まった心に、お母さんの優しくて温かい光が差し込まれていく。
「とにかく。無事でよかったわ、れな子。なかなか家に帰ってこないから、本当に心配したのよ?」
そういうと、母はおもむろに席から立ち上がって、私の目の前で膝をつき、そして。
わたしの背中に、暖かいマフラーを巻くみたいに、お母さんの腕がゆっくりと伸びてきて、ぎゅっと、抱きしめられた。
お母さんの匂いと、優しい体温が体を包んでくる。わたしは、自分でも気づいていなかった暗くドロドロとした心の不安が外に溶け出ていくようで、椅子から体が滑り落ちて、引き込まれるように正座した母の膝の上へと落ちる。しかしそんなこと気にも留めずに、わたしは無我夢中で、学校に行けなくなったあの日からずっと届かなかった母の背中に腕を伸ばした。
「お説教はこれでおしまい。今日は……いや、今日も、よく頑張りました」
「うん……!」
お母さんの服に顔をうずめているから、表情はわからないけれど。母もわたしの頷きに沿うように、わたしに回した手の力を少し強める。お母さんの手のひらの感触が背中越しに伝わる。お母さんの体温が溶けだしていく。そして、お母さんの声が、引きこもっていた昨日までの凍り付いたような心に注がれていく。
お母さんの温かさが、わたしを心配してくれているという事実が、そうやってわたしの心に注がれて、注がれて、注がれ続けて。満杯になった心の器から、溢れたなにかが感情とともに身を震わせて外に出ていく。
「ごめ……ごめんなさい、ごめんなさい。ずっとお母さんわたしのこと心配してくれてたのに、わたし、帰り遅くなってごめんなさい!なんにもいわないで引きこもっててごめんなさい!怖かった……!寂しかった……ずっとさみしかったよぉ……!!」
とめどなく溢れた言葉は空気に溶けて涙に代わり、わたしの顔はぐしゃぐしゃになった。だめだ。このままじゃお母さんのお気に入りの服がびしょびしょになっちゃう。
そう思って、泣き顔を見せる恥ずかしさもそっちのけでお母さんの胸から顔をはがそうとする。
「だめよ、れな子」
しかし、そう言ってお母さんは、抱え込むようにわたしの後ろ髪へと手を添えて、むしろ顔をもっと服に埋めるように、そしてゆらゆらと乳母車を揺らすように、長くなった髪の毛の先に向けて、首筋から何回も手櫛を通してくれる。
「泣いてもいいのよ、れな子。れな子はまだ13歳なんだから、お母さんに甘えなさい」
やがて抑える力が緩くなった母は、それでも母にうずくまる私の頭をふわりと優しく撫でながら、そういった。それは、数か月前からわたしが一方的に捨てて、受け取りもしなかった、気づきもしなかった親の優しさそのものに思えて。その瞬間、引きこもっていた時にさりげなくくれていた、母のさりげない気遣いが、読み込んだDVDを再生するように思い出してきて。
「おかぁさん~~~っ!」
わたしはまた、母の胸の中でぐずぐずと泣き始めるのだった。
〈あとがき〉
長くなってしまったので二話に分けさせていただきます。後編は遥奈回です。お楽しみいただけたら幸いです。