【第一部完】ロクデナシ黙示録 ~夕立市最悪の三日間~ 作:松山リョウ
【学舎の亡霊】
予感がありました。ぼんやりとした予感が。
私がううんと目を開けると、青空が見えました。透き通るような青い空。飛ぶ鳥も、雲一つさえもない空。
しばらくそのままぼうっと空を眺めていました。やがて寝転がっていることに気付いて、何故寝転がっているのだろうと考えます。
思い出しました。あまり思い出したくない出来事でしたが。
私は不意打ちをもらって、そのままゆっくりと意識を手放したのでした。
私は身を起して、体の様子を確かめます。手甲に通した両手をぐーぱーぐーぱーしてみます。はい、特に問題はないようです。
ふと周囲を見渡すと、無名が私の後方に倒れていました。ミイラ化した右手の状態を見るに、本来の力を使って、その反動で自分も吹き飛ばされた、といったところでしょうか。あの技は己にかかる力も尋常ではないため気をつけるべきだとわかっているでしょうに。
私が無名に声をかけるよりも先に、彼は自分で起き上がりました。頭を押さえながら、視線を四方に走らせています。
「無名、大丈夫――」
「こなくそがっ、逃げられたわっ」
私の声を遮りながら、法衣を私たちの周囲に展開させます。この法衣に覆われている状態はとても暖かで、いつも眠くなってしまいます。何度無名に怒られては、この法衣に包まれてまどろんだことか。
しかし今は眠るわけにはいきません。
「まさか『秘められた力』を放ったのですか? あれは危険すぎると何度も言った――」
「あの犬っころさえ飛んでこんかったらっ!」
「犬?」
無名が辺りを警戒したまま後方をちらりと見やります。そこにはクローイさんがいました。よく見るとその腕の中に白い小さな犬もいます。
猫さんの次は犬さんですか。私は仲よさげに話している二人――一人と一匹でしょうか、それとも二匹でしょうか。迷います――を見つめます。
私が無名に質問しようとしたときです。
パンパンパンパン。
よく響く拍手の音が聞こえてきました。無名がしているものでも、あっちにいる二人がしているものでもありません。三人とも音に反応し、いつでも対応できるように身構えました。
「とんだお笑いだ。犬っころを投げた先に、次元の魔女の飼い猫がいるとはな」
高所から男性の声が聞こえました。私たちはすぐに声の方を振り向きます。
洋風の一軒家の屋根の縁に大柄で上裸の男性が座っていらっしゃいました。大柄というより、巨体と言った方が適切かもしれません。
その御方が丸太にも匹敵する右腕を軽く上げました。
「いや、失礼。続けてくれ。悪いが乱戦に付き合うほどの気力はないんでね。ここで観戦させてもらおう――」
「動くやないぞ! 化け物が!」
大男さんに向かって、無名が叫びます。法衣を伸ばしますが、突如現われた銀色の液体が大男さんの前に壁をつくり、法衣を弾きました。液体はゴールキーパーのようにゆらゆらと飛び込んでくるものを待ち構えています。
「両手を上げてその場に跪かんかい!」
「いいだろう、その命令、五千で引き受けよう」
「ッそっちのお前さんらもや! 手ぇ煩わせんな!」
無名がクローイさんたちにも命令します。はて、クローイさんいわく、味方であるはずなのに、おかしなことですね?
クローイさんは肩をすくめた後、両手を上げます。腕の中に抱えられていた子犬さんは放り出されましたが、地面に落ちる寸前で受け身をとります。子犬さんが「なにしやがんだ」と毒づき、クローイさんはくすりと笑いながら舌を出します。
「さっさと膝をつけぇって――」
「膝をつくのはあなたのほうよ」
声が聞こえた瞬間、無名の目の前にメイファさんが現れて、無名の鳩尾に膝を蹴り入れました。無名は一瞬息に詰まりながらも、すぐに体勢を立て直し、法衣を鞭のようにしならせます。しかし、メイファさんは青い炎に包まれた後、姿を消します。
「あなたには感謝をしなくてはいけないわね。ミスター・ヴィクトール。いろいろ噂は聞いているわ」
メイファさんはいつのまにかヴィクトールさんのいる家の玄関口で壁に背中を預けていました。上を向いてヴィクトールさんに話しかけています。彼はふんと鼻を鳴らして、懐から葉巻を取り出しています。
私はというと急変する事態にオロオロしながら、とりあえず無名の上で浮いていることにしました。無名は怒るとなにをしでかすかわかりません。
膝をついて呼吸を荒くしている無名に話しかけます。
「ここは応援を呼んで私たちは下がりましょう。多勢に無勢ですよ」
「……」
「右手だけとはいえ、『秘められた力』を使ったのでしょう? 休まないと体がもちません」
無名が前を向いたまま黙り込みます。感情と理性の間で揺れ動いているのでしょう。頑張れ理性。あなたの方に傾いてくれれば――。
「そこをどけ、包帯男」
子犬さんの荒っぽい声がしました。
振り向いて見ると、子犬さんの姿が見えません。代わりに銀髪の青年が立っていました。青い瞳に尖った犬歯。ライダージャケットにジーンズのその姿は、似ても似つきませんが間違いありません。先ほどの子犬さんの本当の姿か、あるいはニンゲン形態なのでしょう。右肩を回して、やる気を全身から漲らせています。
さっきの方が可愛かったのに。クローイさんも同意見なのでしょうか。彼の後ろで額を押さえています。
「そのデカブツは俺がやる」
「へえ、お前さんが僕に命令するんか?」
「なんならテメエごとブッ飛ばしてもいいんだぜ、包帯ジジイ」
「ジジ――犬っころ、お前、今僕のことをなん言うた?」
「おい待ちやがれ、テメエ今俺のことをなんつった?」
「僕が聞いとるんや」
「テメエが答えろ」
「おい、落ちつけよルガール」
「あなたはどうして日本にいるの?」
「今日は儲かるな。二千でどうだ?」
いけません。完全に取り残されてしまいました。皆の顔を見比べた後、とりあえず目の前の二人の喧嘩を止めようとしたときです。
プップー。
車のクラクションが聞こえました。
予感がありました。
これから、私たちはとんでもない事態を引き起こすという、ぼんやりとした予感が。
【生ける死神】
胸ポケット、ズボンのポケット、どちらを探しても煙草の箱が見つからない。
さっきの衝撃波で落としてしまったのだろう。残りは今手に持った一本のみ。少し悩んだ後、胸ポケットに仕舞った。もう一度生き延びたときに吸うことにしよう。私は落胆して、煙の出ない息を吐き出す。
今日はツイていない。ジャックは理科室で暴れ出し、包帯男に殺されかけ、挙句の果てに煙草の箱を落とした。どれか一つでもため息が止まらないレベルなのに、これほど重なると肺の空気がなくなりそうだ。
私はチラリと上を見る。
無表情に煙を吐いているあの大男は、今は管理局の工作員のはずだ。金払いのいい管理局に仕えているが、かの戦争では鏡会の味方だったと聞く。長兄様がお目にかけた人物であり、ということは常識的な人物ではないだろう。
ルガールと無名は口喧嘩をしている。ルガールは空から飛んできたときの姿と違い、いつのまにか銀髪の青年の格好をしている。
ルガール・ヴォルグマンというふざけた名前は聞いたことがある。たしかドイツや北欧の国で昔暴れていた名だ。カミラお嬢様がノルウェーの別荘に行かれるときに要注意人物として古いリストにその名が残っていた。
だが、もっと注目すべきは、そばにいる女の方だ。クローイ・サリヴァン。次元の魔女の飼い猫として寵愛され、基本法理を指南された者。彼女の『サトリ』は万物の記憶、法理、感情を読み取る異能で、その厄介さから特に欧州で忌み嫌われている。
彼女の噂は聞いたことがあった。以前我が主、ヴラドール家のパーティにリリス様と一緒に来ていたのだ。リリス様はカミラお嬢様と古くからの友人で、屋敷を訪問することが度々あった。しかし黒猫を連れてきたのはその時が初めてだった。当時から働いていたメイドや執事に話を聞いてみるとても人懐っこい黒猫だったらしい。
まだそのときはクローイの名が知られておらず、触れた一瞬で心のなかを読み取れるなんて皆思いもしなかった。クローイが忌み嫌われることになったのは、彼女に触られた人物が知られたくない秘密を探られたと疑っているからだ。クローイの名と能力が知れ渡ったとき、カミラお嬢様もあらぬ非難を受けた記憶がある。
何故彼女がここにいる? 予言にはリリス様も関係しているのか?
「お前、ヴラドール家のメイドだな」
ヴィクトールの声が落ちてくる。
「あら、なぜ知っているの?」
「あの高慢ちきから聞いたことがある。最近拾った中国育ちの赤毛の鬼火使いは、暴れ馬だがいい働きをすると」
高慢ちきとは長兄様のことだろう。「高慢ちき」ですぐ理解できるのも、仕えるものとしてどうかと思うが。
「うまいコーヒーを作るそうじゃないか」
「それほどでも。……殺し屋としても傑作だと自負しておりますが、試してみますか?」
「悪くないな。手始めにその辺にいる奴らを全員始末してくれ」
「……あなたはどうして日本にいるの?」
答えが返ってくるとは思えないし、なんとなく想像はつくが、念のために聞いておく。管理局の立場からして、この男と私の利害は一致しているのではないか。
「今日は儲かるな。教えてやろう。二千でどうだ?」
ヴィクトールが屋根から飛び降りて、ズシンと音をたてながら着地する。褐色の巨体はそばにいるだけで威圧感があった。
その時だった。車のクラクションが鳴ったのは。
【黒猫】
「なにしやがんだ」
ルガールが悪態をつく。僕は子犬姿の彼に舌を突き出す。
そもそもルガールの普段の行いが悪いからこうなるのだ。以前一緒に仕事をしたときも突然依頼主を殴り飛ばして帰ってしまった。そのせいで僕が始末書を書かされるハメになったのだ。そのときだけじゃない。『セイレーンの雫』のときもルガールのせいで事態がややこしくなったのだ。これくらいの報いは受けるべきだろう。
「相変わらず口が悪いね。変わりないようでなによりだ」
「ふざけるなよ。なにが変わりないだ。見ろよ、この無残な姿」
「そんなに変わったかい? 忘れちゃったな。なんせ、なぜだが随分長い間会ってなかったからなぁ。ええと、最後に会ったのはいつだっけ――あ、思い出した。誰かさんがへまをして依頼主から怒鳴られた案件からだよね。あのとき魔法陣のエルフ文字で、『麻酔』を『大爆発』と書き間違えたのは誰だったっけなぁ? ――ルガールは誰だったか、覚えてる?」
ルガールはなにか言い返そうとして、がっくりと頭を落とした。
「……クローイ、お前の軽口に付き合ってやりたい気持ちはやまやまなんだがな。今の俺にはその元気すらねえ。疲れちまったよ、俺は」
相当に落ち込んでいる。肩を落として俯いているその姿は、子犬として見るなら憐憫も誘うものだが、中身がただのルガールだと知っていると目の前でウキウキでタップダンスからのブレイキングダンスを踊りたくなる。
しかしさすがにこれ以上煽るのは可哀想かな。僕は
ルガールはそれをちらりと見た後、いよいよ泣き出しそうになる。
「おい、あんまりじゃねえかクローイ。息も絶え絶えの友に、苦難の道を乗り越えてきた仲間に、この期に及んでドッグフード一粒か!? お前だけは俺を助けてくれると思っていたのに――」
「落ちつけよルガール。よく見ろ」
「確かに今まで迷惑ばっかりかけてきたかもしれねえが、今までうまくやってきたじゃねえか――」
「落ち着けって! よく見ろよ。錠剤だよ」
ルガールが目をパチクリとさせる。それから僕の手のひらの上に転がっている錠剤の臭いを嗅ぐ。
「なんだよこれは」
「元の姿に戻れる薬だよ。ご主人に渡されたんだ。ただしこれを渡すには条件がある。まず、むやみに暴れない――」
パクリ。僕が思考を読み取るより先にルガールが錠剤を飲み込んだ。
ポンと音を立てて、いつものルガールが現れる。相変わらずのバイクライダーのファッション。勝手に飲み込んだ驚きや怒りよりも、よく見知ったルガールに久しぶりに会えたことに妙な安心感を覚えた。
「そこをどけ、包帯男。そのデカブツは俺がやる」
安心している場合ではなかった。僕は頭を押さえる。肩を鳴らす彼はもうさっき泣きかけていたことすら忘れているだろう。
「そのデカブツは俺がやる」
「へえ、お前さんが僕に命令するんか?」
「なんならテメエごとブッ飛ばしてもいいんだぜ、包帯ジジイ」
「ジジ――犬っころ、おどれ、今僕のことをなん言うた?」
「おい待ちやがれ、テメエ今俺のことをなんつった?」
すごいな、ここまで秒単位で喧嘩を売り買いできるなんて。無名の後ろで綴喜がおろおろと二人の顔を交互に見比べている。
「僕が聞いとるんや」
「テメエが答えろ」
「おい、落ちつけよルガール」
僕は止めに入る。こんなときに影縫まで敵に回したくない。綴喜もワンテンポ遅れて止めに入ろうとしたその時。
プップー。
クラクションが鳴った。
振り返ると紺色の車がそばまで来ていた。運転している女性がすごい形相でにらんでくる。僕は反射的に脇に避ける。そして気付く。
何故僕たちを認識できる?
【ミツル】
プップー。車のクラクションの音が響く。
ミツルは目を開ける。保健室で寝ていると母親が迎えに来て、おんぶされて車に乗せられたことを思い出した。
後部座席で横になっていたが、体を起こして前を見る。
「もう! はようどいてよ!」
陽子が再びプップーとクラクションを鳴らす。車の前に青年が立っていた。銀色の髪。驚いた様子でこちらを見つめている。同じくらいの年の女性に腕を引かれて脇にどく。よく見ると他にも人が集まっている。
陽子がわざとらしくエンジンをふかす。スピードに乗りながら彼らを追いこす。その瞬間にミツルは窓ガラス越しに彼らを見た。
右に四人。左に二人。
右の一番手前にいるのが先ほどの青年だ。バイクで駆けまわっているような青年。会ったこともないはずなのに、どこか親近感の沸く人だった。そのすぐ横にいるのが黒髪の単発の女性だった。金色の瞳。光を当てた琥珀のような瞳が印象的だった。
左には黒人の大男がいた。でかい。屋根に頭が届きそうだ。その横には赤い髪の女性。驚いた様子でミツルを見て何事か呟いた。
再び右に目をやると二人いた。藤色の髪の男は右腕を隠すそぶりを見せた。ミツルにはチラリと包帯が巻かれているのが見えた。怪我をしているのだろうか。
その横に寄り添う焦茶色の髪の女性は網代笠を頭につけ、緑基調の小袖に白衣を纏っていた。なぜだろう、どこかで会ったことがあるような気がする。
格好も年齢も性別も、およそバラバラな人たちだった。
車がカーブに差し掛かったところでミツルは後ろを振り向く。
彼らは一様にこちらを見つめていた。
車はカーブを曲がり、直線でスピードを上げる。
ミツルは、息苦しくなってまた目を閉じた。
ひどく喉が渇いていた。