【第一部完】ロクデナシ黙示録 ~夕立市最悪の三日間~ 作:松山リョウ
【ミツル】
突然目の前から消えたにもかかわらず、近藤と斎藤はミツルの「トイレに行っていました」という発言を深く追求しなかった。正確には、できなかった。
体中ずぶ濡れになり、見たこともないような暗く冷たい視線を向けてくる少年に、いつも相手にしている不良生徒とは別種の危うさを感じ、思わずたじろいだ。数日前まで友人も多く、要領よく生きていた少年が、まるですべてを拒絶するかのような冷淡な気配を纏っていた。まるで中身が血の一滴にいたるまで、すっかり入れ替わったかのようだった。
ひとまず今日の話はおしまいということで、ミツルは斎藤に連れられて保健室に向かった。タオルを手渡しながら、斎藤が神妙な面持ちで言う。
「ミツルくん、なんかあったら先生に言ってね」
おそらくいじめが起きているのではないかと誤解しているのだろう。保健室を出るときも逡巡しつつドアを閉める様子に、ミツルは少し罪悪感を覚えた。
倦怠感は残っていたが、保健室のベッドで寝るほどではない。ミツルは保健室の先生とほどほどに会話をした後、帰宅することにした。
保健室の扉に手をかけようとしたタイミングで、ガラリと扉が開いた。
「センセー、うおっ」
目の前に鉢合わせたミツルに怯んだのは、同じクラスの後藤だった。
「なんだよ、ミツルじゃん」
「おう」
半笑いの表情のまま、じろじろとミツルの全身を上から下まで視線を移す。隠しもしない好機の視線に、ミツルは眉根をひそめる。
「後藤くん、どうしたの」
「あ、三島ここに来てねぇッスか? またここでさぼってんのかなって」
「来てないし、そもそもここをそういう場所として使わせるつもりはありません」
二人の会話の間をすり抜けて、ミツルはその場を立ち去ろうとする。喉が渇いた。早く家に帰って眠りたい。
「おい待てよ、ミツル」
廊下の角を曲がったところで、後ろから後藤が追い付いてきた。肩にどんと圧し掛かってきた。
「お前、俊と喧嘩したべ? なんか噂になってっぞ?」
親し気に肩を組みながら後藤は脇腹を小突いてくる。ミツルは嫌悪感を隠さずに、肩にかかる腕を払い退けようとする。
「別にお前が喜ぶようなことはなにもねえよ。離せって」
「まあまあ、俊から呼ばれてきてんだよ、俺」
「俊が?」
「んだんだ」
にっと笑った前歯には、矯正装置がつけられている。
「なんで俊がお前に頼むんだよ。そもそも俺を探してる感じじゃなかっただろ」
「細かいことはええやないですか。俺が俊との仲を取り持ってやろうってわけ」
「余計なお世話だよ」
「ええじゃないか、ええじゃないか。はい、一名様、ごあんなーい」
後藤が肩に回した腕はがっちりと首周りをホールドしている。先生に注意されれば、「じゃれてるだけでーす」と言い訳できる程度の拘束具合。ミツルは舌打ちをして、なされるがままに連行される。ないとは思うが、本当に万が一俊介が後藤を使って呼び出したのだとすれば殴ってやるつもりだった。
*
ミツルが連れてこられたのは、部室棟のいちばん奥、囲碁・将棋部の看板が掲げられた部屋だった。鉄製の扉は塗料が剥がれて錆がむき出しになっている。囲碁・将棋部の活動は別の教室を借りておこなっているので、道具の返却時以外は同部に形式的に在籍している三島とつるんでいる素行の悪い生徒のたまり場として使われていた。
外ではざあざあと雨が降り頻るなか、部室の扉を開けると、薄暗い部室の中に四人の姿が見えた。
「んだよ、三島の代わりになんで赤戸連れてきてんだよ」
ミツルはまた舌打ちをしたくなるのを押し殺す。最悪だ。有田やその周辺の奴らがいることは予想していたが、三年の野川がいるとは思わなかった。
「三島見つかんないんスもん。それよりさっき話題に出てたじゃないっすか。怪談話。コイツが当事者――」
「おい赤戸、テメェなんでバスケ出てねぇわけ?」
野川は整髪料で逆立った髪を揺らしてミツルの顔をのぞき込んでくる。野川は元バスケ部の先輩だが、去年の秋に素行不良を原因に退部していた。それ以来、後藤などのハシっている後輩を引き連れて、不良ごっこをやっていた。
「……膝、ケガしてんすよ。今」
「ドリブルとかできるだろうがよ。出ないなら俺んとこにまず報告だろうが。バスケ真面目にやってるやつには俺も手ぇ出さねえけどよ。さぼりには俺は厳しいぜ?」
漫画雑誌を手にしていた有田が茶々を入れる。
「野川さん、ランニングしてた相川にも蹴り入れてたじゃないですか」
「馬鹿野郎、あいつがバカほどトロトロ走ってっから喝入れただけだわ。抑止力だよ抑止力。俺みたいな成敗する奴がいないとみんなさぼっちまうからよ」
黙れ。お前みたいなのがいないほうがみんな部活も勉強も集中できるんだ。腐りきったやつらが足を引っ張ってんじゃねぇよ。
後藤が横から顔をのぞき込んでくる。
「んだよ、赤戸。黙りこくって。ビビっちゃった?」
「ほら、野川さんが圧かけるから、ミツルが本気にしちゃってますよ」
「やべぇ、パワハラか、今の。最近の若ぇのは堪え性がなくって困りますなぁ、なあ?」
野川が有田を小突くと、部室内にいた子分たち四人ともそろって笑う。ミツルは先ほどのメイファとの会話を想い出す。誇り高きヴァンパイア様が、かび臭い部室にタムロしている不良どもにちょっかい出されているわけだ。こんな奴を、よくルーマニアに招待しようとしたな。
「お前なにニヤついてんの?」
野川の言葉に部室内が静まり返る。野川は口元こそ笑っているが、目は完全に据わっていた。
「……別に。用済んだんなら帰っていいっスか」
「っんだテメェ」
野川がミツルの胸倉を掴んで扉に押し付ける。鉄製の扉がバァンと大きく鳴り響いた。有田が慌てて間に入る。
「野川さん、ここではまずいですって」
「関係ねぇよ、後藤、カギ閉めろ」
耳障りだ。目障りだ。コイツらのすべてが不快だ。一発でも殴られれば、取っ組みあってやる。五対一だろうが、知ったことか。
ミツルは胸倉を掴まれたまま、野川を睨みつける。
「……んだよ、お前、その目」
「おい、ミツルも睨むなって」
「ちげぇよ、赤い、目が、
野川の胸倉を掴む手が緩む。こめかみを抑えてその場にしゃがみ込んだ。「野川さん!?」と取り巻きが囲むのを、ミツルは見下ろしていた。
「ミツル、お前なにして……」
野川の肩に手をかけながら見上げた有田は、ミツルの顔を見て言葉を失った。
その瞳は赤く、冷たく有田を見下ろしていた。劣化した電灯が弱々しい光を放つ部室内において、ミツキの赤い瞳が最も輝きを放っており、有田は火に飛び込む蛾のように、その瞳から目を離せず、体の奥底から気力がその炎に吸い込まれていくのを感じた。体の力が抜けていく――。
*
「力が、増していますね」
傘を差して校門をくぐったところで、ミツルの目の前に女性が現れた。頭に笠を被った、お遍路さんに似た格好の女性だった。焦茶色の髪の長い髪を後ろで結んでいる。
この世で生を謳歌している存在でないことはすぐにわかった。彼女の草履は地面から数センチ宙に浮いており、雨粒はその体を通り抜けていた。
「私は綴喜と申します。この学校に住まう守護霊です」
丁寧にお辞儀する綴喜に、ミツルは微動だにしない。現実・幻想問わず、放っておいてほしかった。疲れたんだ。喉が渇いた。
「今は、なにを言っても聞き入れてもらえないかと思いますが……貴方がどういう経緯でその力を手に入れたか、聞かせていただきました。そして、その力をコントロールするすべを、私は知っています。その力は危険で、貴方が扱うには若すぎる。このまま力を奮い続ければ、貴方の力を狙ったものたちに食われるか、いいように使われるだけです」
数人の生徒がミツルを追い越していく。みな、雨の中立ち尽くすミツルを不思議そうに振り返っている。
「決して幻魔の、
ふわりと綴喜の体が浮かび上がる。
「今夜、夕立城にいらっしゃい。あそこは、無戦の鉄壁要塞。この夕立市で最も安全な場所にございます」
そう言って、綴喜は空に飛んでいった。ミツルはそれを虚ろな目で見送って、また歩き出した。
ミツルは、無意識的に、呆然自失になった「振り」をしていた。矢継ぎ早に起きる展開に整理がおいつかないながらも、それでもだんだんと理解したつもりになっていた。吸血鬼になったことを、自分の置かれている状況を、ぼんやりと理解した気になっていた。
愛されて育ち、その期待に応えてきたミツルには、自分が事件に巻き込まれることはあっても、自分自身が大きな過ちを犯すことはないと、心の奥底で決めつけていた。だから、この時点では大きなパニックを起こさなかった。吸血鬼になったことはもう自分の力ではどうしようもないし、クラスメイトに気味悪がれようが仕方がないし、不良が気を失おうが因果応報だし。どうにもならないのだから、いつか、誰かがなんとかしてくれるだろうという、他力本願な甘えが根幹にあった。それどころか、今ほど気に入らない生徒を一蹴できたことで、一種の全能感さえ芽生え始めていた。
白い首筋。喉の渇き。そして
ミツルは、自分自身の手によって、
【ミツル】
ミツルは帰宅して、真っ先に冷蔵庫に向かった。とにかく喉が渇いて仕方なかった。麦茶の入ったポットからコップに移すのも面倒で、ポットに口をつけないように気をつけながら、喉奥に滝のごとく茶を流し込んだ。半分ほど入っていたポットがすっからかんになったところで、ミツルは一息ついた。喉の奥の痒みは取れないが、少しマシになった。
ミツルはリビングにあるソファに座り込む。ようやく心も体も一休みできた。目を閉じる。本当は考えなければならないことがたくさんある気がするのだが、今日はもう疲れた。狼男だの、吸血鬼だの、守護霊だの、知ったことか。世界のことなんか知るもんか。一度休ませてくれ。そうすれば、冷静に考えられそうだから――。
「みっちゃん?」
誰もいないはずの空間に声が響いた。いい加減にしろ、化け物どもが! ミツルは声のしたほうを睨みつける。リビング横の和室の引き戸が開いており、パジャマ姿の有希が半身を覗かせていた。
「……姉ちゃん?」
「姉ちゃんです」
「なんで? 部活は?」
「この掠れた声で、歌えと?」
言われてみれば、いつもの澄んだ声が影をひそめ、言葉を出すのも辛そうだ。有希は高校の合唱部に所属していたが、風邪で早退していた。
「ちょい、麦茶ついで」
そう言って引き戸が閉められる。普段なら人使いが荒いと不貞腐れるところだが、熱で頬を赤らめた姉を見ていると流石に心配が勝った。ミツルは急いで冷蔵庫の扉を開けて、額を扉に当てる。そうだった、麦茶は今ほど自分がすべて飲み干してしまっていた。
「姉ちゃん、麦茶ないからコンビニで買ってくる!」
引き戸越しに声をかけると、くぐもっていて聞き取れないが返答があった。傘を手にして外に飛び出す。先ほどまでの体の気だるさが少しなくなっていた。姉の使い走りになれている状況が、今は心の救いになっていた。
*
買ってきた麦茶と清涼飲料水を両方コップについで、引き戸を開けると、有希はこちらに背を向けて布団にくるまっていた。正面に置かれた姿見鏡に写っている姿を見るに、眠っているようだ。部屋の角に置いてあるテレビには、ネコとネズミが主役のカートゥーンアニメが流れている。退屈凌ぎにアニメを見ていたようだ。
起こさないように、忍足で畳を踏む。有希の枕元にコップの乗ったお盆をおいた。ついでにテレビの音量を下げておこうと、有希の顔元にあるテレビのリモコンを取ろうと、手を伸ばす。目を覚させないように、なるべく体を離しながら、覆い被さるように手を伸ばしたところで、「ううん」と有希が呻き声を上げた。ミツルは動きを止める。有希はもぞもぞと体を動かした後、仰向けになったところで落ち着いて、また呼吸を深くした。
ミツルはほっと一息ついて、テレビの音量を下げた。有希の姿を眺める。
有希はすうすうと寝息を立てている。こうして間近で寝顔を見るのはいつ以来だろう。
ミツルにとって有希は常に目標だった。美人で、聡明で、曲がったことを嫌った。親からはもちろん、教師陣からの信頼も厚く、生徒会長の打診もあったが断った。中学時代は合唱部の部長を務め、地元有数の進学校に推薦で合格した。家ではよくいる姉のひとりに過ぎなかったが、その自然体を知っているからこそ、姉が褒められていることが誇らしかった。
小言の言い合いこそあったが、喧嘩という喧嘩をしたことすらなかった。有希を尊敬していたがゆえに幼い頃は親の言うことよりも有希の言動を信頼していたし、年齢を重ねるごとに嫉妬心が芽生え、ミツルは少し距離を置くようになるが、有希は素知らぬ顔で接してきた。
有希はすうすうと寝息を立てている。水色のパジャマの下に、白い首元が見えた。白い、透き通るような肌。熱が出ているのか、頬がほんのりと赤らんでいる。
覆い被さったまま、ぼんやりと考える。有希の部活の合唱コンクールを見に行ったことがある。ソプラノ担当で、普段の気だるげな話し方からは考えられない高音で歌う。黒い学ランやブレザー服が並ぶなかで、姉の歌唱する姿は美しく、肌の白さが際立っていた。
有希はすうすうと寝息を立てている。
ミツルはふと、子どものころに膝を擦り向いたことを思い出していた。昼休みに鬼ごっこをしていたときに転んだのだ。そのとき膝小僧から流れ出た血を舐めた覚えがあった。鉄棒で遊んだ後の手のひらと同じ匂いがした。少し酸味がかった味。
列車の事故以来、ずっとあの酸味を求めていたのを思い出した。
有希の首筋に爪を立てたい衝動に駆られる。ほんの少し力を入れて爪を立てれば、血が流れ出てきそうだ。いや、爪ではなく、
ミツルは口を大きく開けて首元に歯を立てようとしたそのとき、目の前の姿見鏡が目に入った。
赤目をギラつかせて、八重歯と呼ぶには鋭すぎる牙を剥き出しにして、有希の首元に噛みつこうとする化け物の姿が、そこには映っていた。
首元のネックレスの指輪が落ち、友希の布団を叩く。音量を下げたはずなのに、テレビのなかのネズミが、指をさしてゲラゲラと笑う声が、静かな部屋でひどく響いて聞こえた。
*
「……みっちゃん?」
友希が薄目を開けたときには、ミツルは身を起こしていた。薄暗い室内では、その表情はうまく見えなかった。
友希は横に視線を移した。
「用意してくれたんだ」
枕元に置いてあるコップを見て微笑んだ。
「できた弟よ……ありがとね」
そうつぶやいてまた目を閉じた。
*
ミツルは後ろ手で引き戸を閉めた。ハアハアと息を吐いて、立ち尽くす。
やがてリビングに置いてある収納棚に駆け寄った。引き出しを引っ掻き回して、カッターを引っ張り出す。ギチチと歯を剥き出しにしてから、左目の前に歯先を構えた。カタカタと歯が音を立てる。視界がぼやける。両目から溢れた雫が頬に痛みの筋を作り、ミツルはカッターを投げ捨てて、その場に蹲る。
かちゃりとネックレスの指輪が床に落ちた。金色の輪が煌めく。
(なればこそ、貴方は捨てることになる)
メイファの言葉が頭の中で反響する。
(そう遠くない日に、家族を捨てなければならないことに気づくときがきます)
ミツルは牙を剥き出しにして、ネックレスを引きちぎり、床に叩きつけようと振りかぶる。振りかぶって、その拳を震わせるも、やがて力なく手を下ろした。ポケットにネックレスを仕舞う。
(お前が災厄をもたらすって話だぜ)
ルガールの言葉が想い出される。
そうだとして、どうすればいい? そもそもルガールの助言通りにやったらこうなったんだ。あいつだって信用できない。
もうここにはいられない。喉が渇いた。喉が渇いて仕方がないんだ。だから、もうここにはいられないんだ。
ミツルは最低限の着替えとなけなしの金をショルダーバックに詰め込んだ。家出の計画さえしたことがなかったので、なにを持っていくべきかもわからなかった。しかし、考える時間すらなかった。喉の渇きはもはや掻き毟りたいほどになっていた。
自分の部屋から出て、リビングに自転車のカギを取りに戻ってきたとき、ラックの上に飾ってある写真立てが目に入った。家族四人で京都に旅行に行ったときの写真だ。ほかの三人はピースをしているのに、ミツルは少し気恥ずかし気に曖昧な笑みを浮かべるだけで、手は後ろに組んでいた。その写真のほかにも、有希とミツルの幼少期からの写真がずらりと並んでいた。撮られた記憶がないころの写真のエピソードも、両親から聞かされていた。それだけじゃない。写真に撮られていない、数えきれないほどの思い出がミツルの決意を一瞬揺るがした。
本当はせめて、最後にお別れが言いたい。父と母の帰りを待ちたかった。父に休日に車で遠くに連れていってくれてありがとうと言いたかった。母の作ったコロッケがたらふく食べたかった。今すぐその引き戸を開いて、姉の手を握り締めたかった。
しかし、それは叶わないことをミツルが誰よりも理解していた。
大粒の涙がこぼれ出す。嗚咽が漏れ出すのをこらえきれずにいた。
渇いて、渇いて、仕方ないんだよ。
ミツルは駆け出した。すべてを振り切るように、せめて少しでも後悔が遠のいてくれることを祈りながら。
さよなら、さよなら、さよならだ。
*
「失礼、ミツルさん。張られていた結界が厄介で、手間取りました」
ミツルが自転車を押して自宅の門扉をくぐった瞬間、一人の男が空から降りてきた。
「私と一緒に来てください」
(決して幻魔の、彼らの言うことを聞いてはなりません)
笠を被った霊の言葉が頭に浮かぶ。
「影縫があなたを守ります」
(では、また)
不気味に笑う、大男の姿が思い浮かんだ。
「……んじゃねぇ」
「は?」
「
ミツルの叫び声よりも早く、広く、魔力は夕立市を駆け巡り、街中の法理を破壊した。高速修正される月の影の法理でさえ、そのたびにかなぐり捨てるがごとく、繰り返し、繰り返し砕き続けた。