【第一部完】ロクデナシ黙示録 ~夕立市最悪の三日間~ 作:松山リョウ
第43話 血塗られた手
【ミツル】
冷たい風が頬を撫でた。息を吸い込むと、雨の残り香が鼻をついた。ジーと虫が鳴く声が耳に届いた。
ミツルは目を覚ますと、木が整然と組み合った天井が目に入った。梁から吊るされた燭台の火が、部屋の中をゆらゆらと照らす。
ゆっくりと身を起こす。七畳ほどの伽藍堂の中に座っていた。焦茶色で少し表面がざらついた木の床板。ミツルの体の下には御座が敷かれ、上体には薄い掛け布団がかけられていた。三方は扉が開け放たれ欄干の向こうに夜闇が広がっていた。ミツルの正面には人間大の厨子が閉じられた状態で置かれている。
どこかの寺社だろうか。なぜこんなところに?
何度か妖怪を追い払ったところでその場に倒れたところまでは覚えている。そのまま妖怪達に連れ去られてしまったのだろうか。
ぎしっ。
考えがまとまる前に、足音が聞こえてきた。ミツルは頭を抑えながら、音の方向を見る。ぎしっ、ぎしっと音が近づいてくる。
来るなら来い。
身構えるミツルの赤く染まりつつある瞳が映し出したのは、意外な人物だった。
「大丈夫か、赤戸?」
理科教師の加賀が引き戸からひょっこりと顔を出した。
「……加賀先生?」
「おお、目を覚ましたか、よかった」
加賀は部屋に入ろうとするが、膝を立てて警戒姿勢をとるミツルの姿を見て、その場にとどまる。
「お前が学校前で倒れていたのを見つけてな。普通なら病院に連れていくところなんだが……赤戸、正直に答えてくれ」
加賀はその場に屈んで、ミツルと視線を合わせる。
「お前、妙な霊現象に巻き込まれているだろう?」
吹き込んできた風が火を動かし、二人の影が大きく揺らいだ。
ミツルは黙り込む。それをイエスととったようで、加賀は話を続ける。
「前にウチの学校であっただろう? こっくりさん騒動。あのときも、表向きは子どもたちの集団意識の暴走で片付いたんだがな、実はそういうことでは説明がつかない霊現象があったんだよ」
「そのとき世話になったのが、このお寺に紹介してもらっ巫女さん……尼さんだったかな? 常に気だるげな雰囲気の女性だったんだが、腕は確かでな。霊現象を撃退してくれたんだ」
加賀が床をコンコンと叩く。
「ここは白鷺寺の古いお堂だよ。お寺の住職さんに事情を説明したら、ここに案内してくれた。よくわからないが、結界を施しているらしいから、ここにいれば安心らしい。少しは体が楽なんじゃないか?」
ミツルは少し俯く。喉が引っ付きそうな渇きがなくなっているのは確かだった。
「巫女さんが戻ってくるまで、まだ寝ていて大丈夫だぞ。疲れただろう」
ミツルはそこまで聞いて、ようやく口を開いた。
「……先生は
警戒心を解こうとしないミツルに、加賀は苦笑する。
「何者でもないよ。俺が霊媒師なら話は早いんだが、そういうわけじゃない。霊現象のスペシャリストとの橋渡し役でしかない、ただの人間だ。でも、ただの人間でもできることはある」
加賀は膝を手でパンと叩いて立ち上がる。
「ご両親には一度ご連絡しておくよ。勉強のことで一夜預かるとでも言っておこう。誤魔化すために、ちょっと課題をやってもらうぞ」
ふひゃひゃ、と高笑う。
それでも俯いたままのミツルに、優しい口調で語りかける。
「赤戸。自分でどうにもできないときにはな、必ずどうにかしてくれる大人がいるもんだ。少しは身を委ねたっていいんだぞ」
加賀の足音が遠のいていく。ミツルは横になり、まとまらない思考を落ち着けようと目をつぶった。
*
夢を、見ていた。
オレンジ色の世界。炎が波打ち、煙が天を覆う世界。
まただ、またあの日の夢だ。暑くて、苦しくて、だんだんと感覚が遠のいていく。喉の渇きだけが張り付いていた。
いつもは瞼を閉じてしまうところで、ミツルは気を失わないように抗ってみた。これは夢だ、死にはしない。
やがて一人の人影が視界に映った。金髪の少女だ。背後の火の光が強すぎて、表情はうまく見えない。あたりを見渡して、なにかを探しているように見える。
視界がぼやけるなかで、だんだんと少女がこちらに近づいてきた。赤い瞳が見える。
やめろ。
体が動かないなかで、ミツルは必死に抵抗する。喉が焼けそうだ。
アンジェラ、やめてくれ。
ミツルは抗おうとして、もうひとりの自分が声をかけてくる。
抗ってどうなる?
その通りだ。血がなければ、ミツルはここで焼かれて終わりだったはずだ。
受け入れろ、
アンジェラらしき少女が、自分の拳を突き出してくる。その手首に傷があり、血が流れ出しているのが見えた。
彼女の口元が動く。八重歯が見え、なにか言葉を発している。
やめろっ!
ミツルは右腕を振るった。炎が揺らぐ。瓦礫から体が抜け出した。誰かの声が聞こえるが、ミツルは左手を振った。炎はひらひらとその身を交わし、だんだんと景色がぼやけていく。その朧の影に向かって、ミツルは爪を突き立てた。
*
空中から落ちたかのような錯覚に、ミツルは飛び起きた。呼吸は乱れ、額から落ちた汗が床の木目に吸い込まれていく。
いつの間にか、御座から横にはみ出ていた。掛け布団が荒々しく跳ね除けられている。燭台の火が消されていた。月は雲に隠されているのか、光というにはあまりにも淡い線がミツルの膝下まで差し込むばかりで、伽藍堂は夜闇に包まれていた。
ミツルは右手で額を抑える。ピタリと液体が肌に吸い付くのを感じた。随分と寝汗をかいたようだ。わずかに入るそよ風さえ体を冷やした。
どのぐらい寝ていたのだろう。外では相変わらずジージーと虫が鳴いている。肌を刺す風の雰囲気と香りは雨上がり特有の湿り気を纏っていた。体の固まり具合からして、数時間は眠ってしまっていたようだ。
喉の渇きはすっかり消えていた。気だるさもなくすこぶる調子がいい。夜だからなのもあるだろうが、これが結界の力なのかもしれない。
どうあれ、喉の渇きがなくなったのはありがたかった。少し落ち着いて考えることができる。
加賀の言うことが真実だとするならば、人間側にいながらあちらの世界の知識があり、対抗手段をもっている人間が一定数いるようだ。よくよく考えれば当たり前だ。現在社会で、多少の説明のつかない事象はあれど、ほぼほぼすべて科学で証明されている。人間側がまったく無知なら化け物どもにいいようにやられて終わりだろう。
喉の渇きを結界で和らげてくれるほどの実力がある巫女ならば、この力の抑え方を教えてくれるかもしれない。そうすれば、また家族と住める。
家族の顔が思い浮かび、また涙が溢れる。今度は安堵の、温かい涙だった。子どもながらに、もう二度と会えないことも覚悟していたのだ。頬を伝う涙を右手で拭う。
匂いがした。
雨の匂いではない、つんと鼻につく匂い。
自分の右手から匂っている。なんだろう。暗がりのもとで右手を見る。絵の具で汚されたように一色に、暗色に染められている。
雲が切れ、満月が現れる。
月明かりが伽藍堂に差し込み、ミツルを照らす。
ミツルの手は、真っ赤な液体に染まっていた。
ミツルは震える左手で額に触れて確かめる。汗まみれだと思っていた額には、右手から付着した血がべったりとついていた。
夢の中を思い出す。誰かが呼ぶ声。その声に向かって、ミツルは右手を突き出した。
ミツルはゆっくりと後ろを振り返った。
月明かりが差し込む部屋の隅で、加賀が赤色の水たまりのなか、微動だにせず横たわっていた。