【第一部完】ロクデナシ黙示録 ~夕立市最悪の三日間~ 作:松山リョウ
【古来狸】
「『待て』と命令したのが聞こえなかったのか?……躾のなっていない犬だ」
「名前は?」
「……なんだと?」
「お前の名前だよ。本当はなんて名だ?」
ルガールは気だるげに言葉を投げかける。常に饒舌で世の中に不貞腐れたような物言いだった男が、今や不気味なほど落ち着いている。
古来狸の薙刀を持つ手が汗で湿る。
ルガールから迸る幻力が、予想の範疇をはるかに超えていた。
古来狸は満月の影響力を見誤っていた。月なしで行なう半獣化と、満月を浴びることによる力の解放は、狼男にとって天と地の差があることを認識できていなかったのだ。
「名乗ることになんの意味がある? お前はどうせここで死ぬというのに」
「そうか。じゃあもういい」
言うや否や、ルガールの姿が消えた。
「あばよ、ジェーン・ドゥ!」
ルガールの膝蹴りが古来狸の脇腹をとらえた。古来狸はよろめきながらすぐに自分を纏う霊圧の出力を上げ、次のワンツーパンチの衝撃を和らげるも、勢いをすべて殺すことはかなわず、続くフリッカージャブをまともに顔面に受けてしまう。
(退避をッ――!)
後方に飛んで距離を置こうとする古来狸に、ルガールは一歩で追従し、爪を立てながら連撃を叩きこむ。薙刀で捌ききれずに体の節々が出血し、たまらず古来狸は霊圧を最大にして周囲一帯を吹き飛ばした。瓦が折り紙のように空を舞い、ルガールは落とされないように屋根に爪を立ててこらえた。
古来狸は薙刀で斬撃をルガールに向けて放った後、南隅櫓へと急降下する。南隅櫓にはまだ狸兵がいる。銃撃による援護を見込んでの退避行動だった。
南隅櫓の屋根に降り立って天守を仰ぎ見るとそこにすでにルガールの姿はなく――。
カラリ。
乾いた瓦の音が背後から聞こえた。
古来狸はかがみながら後方に向けて薙刀を払った。相手の首を想定で空を切る刃は、しかし半周とせずに金属音を上げて動きを止めた。古来狸の目が見開かれる。
ルガールは薙刀に喰らいつき、その牙で刃を受け止めていた。
渾身の一撃を止められた衝撃が柄から握り手に痺れとして伝わると同時に、ルガールが顎を振るった。古来狸の両の手は遠心力に耐え切れず薙刀を放棄し、その身は十間先の北隅櫓の
櫓同士をつなぐ十間廊下の屋根を、ルガールは三歩で渡り切る。古来狸は咄嗟に両手を突き出して霊圧の壁を作り出すも、秒速八十メートルの狼を押し返すには至らず、その右腕が城壁ごと古来狸の脇腹を貫いた。
「~ッ歩兵ッ!」
痛みを堪えながら狸兵を呼ぶ。煙とともに刀を携えた狸兵四匹がルガールの背後に出現した。相手の気が逸れた一瞬に、古来狸は血を纏った霊圧の弾をその眉間に撃った。ルガールは弾を喰らう寸前にスウェーバックで回避し、切りかかってきた二匹の狸兵の攻撃を避けて、十間廊下の中間点まで引き下がった。拳闘士が足慣らしするようにその場で高速のステップを刻む。
「ギアを上げるぜ」
狸兵が瓦屋根を走り、刀を振るう。
古来狸は切り結ぶ狸兵を援護するために、血気霊圧弾を構える。無名の『祝福あれ』を見様見真似で人差し指と中指をクロスさせて撃ち放つが、螺旋を描く三発の銃撃はすべて躱された。腹をアッパーで天に突きあげられた後、踵落としで中庭に蹴り落とされた。古来狸の身は地面に激突し、三転したのち本壇へ入る扉にぶつかって静止した。
赤く染まった唾を吐き捨てて呼吸を落ち着けていると、中庭の地面に薙刀が突き刺さった。続いて狸兵たちが投げ捨てられ、ぽんと音を立てて葉に戻った。
古来狸は仰ぎ見た。十間廊下の屋根に立ち、こちらを見下す狼男の姿を。
「来いよ、それともこれで終いか?」
古来狸は気を失ったように、その身を地面に投げ打った。
「待たしても我らの邪魔をするか……狼風情が……!」
続けて、古来狸の霊体が、ミツルの体から抜け出してくる。遍路姿の女性は、左手を横にかざす。
「いいだろう、ルガール!
薙刀が円を描きながら宙を舞い、古来狸の左手に収まる。
「お前は壁だ……立ちはだかる茨の壁というわけだッ!
古来狸はふわりと宙に舞い、天守最上階まで昇り詰める。同時に、薙刀を天に穿つ。刑部狸の写し以外の狸兵たちは葉に戻り、その幻力が古来狸の身に集まっていく。
「我の名は古来狸ッ! 八百八狸の一卒にして、
名を冠しての宣誓。それは自己に集いし畏れの再認識であり、負ければ名誉を傷つけられる不退転の決意の証。古来狸へと幻力が渦巻いて流れ出る。
古来狸は幻力を込めて薙刀を振るう。粗削りの霊圧を帯びた斬撃は、狼男の爪撃でもかき消し切れず、ルガールは右腕の表面を削ぎ落された。
血の滴る右腕を見て、ルガールは牙を剝き出しにして笑った。その獰猛な笑みに刃を突き付けて宣言する。
「月よ見ていろッ! かの敵を打ち倒し時ッ! 我々は真に、夕立城の統治者となるッ!」
古来狸は相手の胸元に刃先の狙いをつけたまま、頭上に薙刀をかかがる。
相対するルガールは両足を開いて、その場に伏せるように攻撃姿勢をとる。
双方ともに視界の端に相対する者を捉えつつも、瞳を浅く伏せていた。
一時の静寂。
幕引きの時は近い。
耐え切れぬように息を漏らした夜が、狸葉をかさりと揺らした。
双眸が開かれ、猛る幻波よりも速くその身を奔らせた。
「――
「
二つの影が、満月の下で交差した。