その日、母さんはいつものようにスケッチブックを持って商店街を歩いていた。
空は冬晴れ、風は冷たいけれど陽ざしがやわらかい。
僕はその後ろを歩く。
すると、前の方で小さな声がした。
「……あらら、落としちゃった」
振り向くと、道の端でひとりのおばあちゃんがしゃがんでいた。
足元には古びた小さな髪飾りが落ちている。
金色の花の形をしていて、ところどころが少し欠けていた。
母さんはすぐに駆け寄って拾い上げ、
「これ、落とされましたよ」と優しく差し出した。
おばあちゃんは驚いたように目を瞬かせて、
「まぁ……ありがとう。これ、ずいぶん前のものなのよ」
と、指先でそっと撫でた。
「お祭りの日にね、主人がこれを買ってくれたの」
おばあちゃんは笑って言った。
「もう何十年も前。あの人、照れくさそうに渡してきてね。
“似合わないわよ”って言ったら、“似合うに決まってる”って言われたの」
母さんは、静かに聞いていた。
風で髪が少し揺れ、優しい目をしていた。
「……素敵ですね」
その一言が、本当に心から出た声だった。
おばあちゃんは笑いながら言った。
「今じゃ髪も白くなっちゃって、
こんなのつけても誰も気づかないけどね」
「そんなことないですよ」
母さんは小さく首を振った。
「きっと、誰かが見てます。思い出は、目に見えなくても残ってるから」
母さんはその場にしゃがみこんで、スケッチブックを開いた。
「ちょっとだけ、描かせてもらっていいですか?」
おばあちゃんは驚いたように笑った。
「まぁ、私なんかを?」
「“なんか”じゃないですよ。すごくきれいです」
鉛筆の音が静かな商店街に響いた。
母さんの手が動くたび、髪飾りが紙の上に小さな光を宿していく。
やがて、ページの中には――
白い髪をやさしくまとめる金の花と、
それを見上げて微笑むおばあちゃんの姿が描かれていた。
「……あら、若く描いてくれたのね」
おばあちゃんが照れたように言った。
母さんは笑って答えた。
「いいえ、今のままですよ。時間が描いてくれた“美しさ”です」
その絵は後日、商店街の掲示板に貼られた。
タイトルは母さんの手書きで「金の花」。
絵の下には、おばあちゃんの小さなメッセージが添えられていた。
「思い出は、風といっしょに咲くものですね」
それを見た人たちはみんな立ち止まって、
「なんだかあったかい絵だねぇ」と言って笑っていった。
母さんが言った。
「昔のものって、形が残ってなくても、気持ちはちゃんと生きてるのよね」
「うん……母さんが描くと、なんか時間まで優しくなる」
母さんは照れくさそうに笑って、
「そんな魔法、持ってないけどね」と返した。
でも僕は思った。
母さんの魔法は、きっと“優しさで時間を包む力”なんだ。
それを町のみんなが少しずつ感じてる。
家に帰ると、玄関に小さな包みが置いてあった。
中には金の花の形をした手作りクッキーと、メモが一枚。
「絵をありがとう。主人の写真の隣に飾りました。」
母さんは静かに目を細めて、
「うん、やっぱりこの町って、あったかいね」と呟いた。