昼過ぎ、急に空が暗くなった。
パラパラと降り出した雨は、あっという間に本降りになって、
商店街のアーケードから外へ出た人たちが一斉に駆け込む。
僕は学校帰りに駅前で足止めを食らい、
ため息をついてスマホを見ていた。
そのとき、メッセージが届いた。
「〇〇くん、雨がすごいね☔️ ママ、カフェで雨宿りしてる〜」
母さんからだ。
見ると、商店街の角のカフェの写真が送られてきていた。
僕は傘もなく、濡れるのを覚悟して走り出した。
カフェに着くと、店のガラス越しに母さんの姿が見えた。
窓際の席に座って、
白いカーディガンの袖を少し捲ってスケッチブックを広げている。
外の雨がガラスを叩き、
店内のライトが柔らかく反射して、
まるで絵の中にいるみたいだった。
僕がドアを開けると、
店の空気がコーヒーと雨の匂いで満たされていた。
「〇〇くん、びしょ濡れじゃない!」
「だって、母さんがここにいるって言うから」
母さんは慌ててタオルを差し出してくれた。
その隣の席には、スーツ姿の男の人が座っていた。
年の頃は三十代くらい。
コーヒーを前に、ぼんやりと窓の外を見ていた。
ふと、その男の人が母さんに声をかけた。
「……すみません、それ、絵を描いてるんですか?」
母さんは少し驚いて、
「はい。雨の音が綺麗だったので」と微笑んだ。
「音を……描く?」
「ええ。見えないものを描くのが、私の仕事なんです」
男の人は、しばらく黙ってそれを見ていた。
母さんのスケッチブックの中には、
濡れたガラス、滴る傘、曇ったカップ、
そして小さな光の粒が描かれていた。
「……なんか、不思議ですね」
「そうですか?」
「はい。仕事でずっと数字ばっかり見てるんで、
こういうの見てると、心が柔らかくなります」
母さんは、静かに笑ってスケッチを続けた。
やがてページを破って、その一枚を男の人に差し出した。
「これ、どうぞ」
「えっ、いいんですか?」
「ええ。今この時間に描いた“雨音”なので、
きっと今日しか渡せません」
男の人はその絵を見つめたまま、
ゆっくりと笑った。
「……ありがとうございます。なんか、頑張れそうです」
母さんは軽く会釈して、
「コーヒー、冷めちゃいますよ」と言った。
店を出るころには、雨はやんでいた。
舗道にできた水たまりが、
街灯の光をゆらゆらと映している。
僕は母さんに聞いた。
「母さん、あの人のこと知ってたの?」
「ううん、初めて会った人。でもね……」
母さんは空を見上げて続けた。
「人って、ちょっと話すだけで心の温度が変わる時があるの。
今日の雨は、そんな時間をくれたのかもね」
僕は黙ってうなずいた。
母さんの横顔が街灯の光に照らされて、
まるで映画のワンシーンみたいに見えた。
翌日、商店街のカフェの入口に小さな絵が飾られていた。
それは、昨日母さんが渡した“雨音の絵”だった。
額の下にはメッセージが添えられている。
「この絵を見て、今日も頑張れる気がしました。」
店主さんが言う。
「〇〇さんの絵って、ほんとに不思議ね。
飾るだけで、店の空気が柔らかくなるんだから」
母さんは照れくさそうに笑って、
「雨のおかげですよ」と答えた。
僕は母さんに言った。
「母さんの絵って、空気の温度を変えるよね」
母さんは少し考えてから、
「そうかな。でも、私が描いてるのは“人の気持ち”なのかも」
そう言って、
空にかかりはじめた薄い虹を見上げた。
あの日の雨は冷たかったけれど、
母さんのまわりだけ、
ずっとあたたかかった気がする。