大学入試まで、あと一か月。
焦り、眠れない夜が増えた。
僕、健太、彩花。
それぞれが違う大学を目指して、
同じように不安と戦っていた。
健太はスポーツ推薦が決まりかけてたけど、
「筆記で落ちたら終わり」と言って夜遅くまで勉強している。
彩花は志望校の過去問を何度も解き直して、
「あと一歩が届かない」と泣きそうな顔をしてた。
僕はといえば──
何をしても集中できなかった。
ノートに書いた文字が頭に入らず、
シャーペンの芯を何本も折った。
机の上に母さんが置いたマグカップがある。
湯気の向こうで、
「がんばってね」と書かれたメモ。
でも、それを見ても心が落ち着かない。
焦る。
どうしてこんなに焦るんだろう。
放課後、校舎裏で健太が言った。
「なぁ、正直……怖いよな」
「うん」
僕は短く返す。
「俺、スポーツ推薦で落ちたらどうしようって思うと、
寝ても夢で走ってるんだよ。マラソンかよって」
彩花が笑う。
「私なんか、模試の夢だよ。寝ても模試」
でも誰も、本気で笑ってはいなかった。
空気が重く、
冬の空みたいに澄んで、冷たかった。
家に帰ると、
母さんがキッチンでスープをかき混ぜていた。
やわらかい照明の下、
髪をひとつにまとめて、
白いセーターの袖を少しまくっている。
「〇〇くん、おかえり。
お顔、ちょっと疲れてるね」
僕はうつむいた。
「別に。大丈夫」
母さんは何も言わず、
静かにマグカップを差し出した。
中には温かいミルクティー。
湯気の匂いがふわっと部屋に広がる。
「焦るのはいいことだよ。
でもね、焦りだけだと心がカラカラになるの」
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
翌週末。
健太と彩花が僕の家に来た。
「もう限界! 集中できねぇ!」と健太。
「人の家で勉強すれば違うかも」と彩花。
母さんは笑って「いらっしゃい」と迎え入れた。
テーブルの上には、
湯気を立てるカレーと焼きたてのパン。
「勉強の前に、お腹あっためなきゃね」
健太:「やべ、女神だ……」
彩花:「ほんとにもう、聖域の人だよね……」
僕:「やめてくれ、聖域とか言うな……」
でも、母さんが笑うと、
不思議と緊張がほぐれた。
焦りや不安が、少しずつ消えていく。
三人並んで問題集を開いていると、
母さんがココアを持ってきた。
「〇〇くん、健太くん、彩花ちゃん、
無理しすぎないでね」
「……ママさん、俺、受験落ちたらどうしよう」
健太の声が少し震えてた。
母さんは笑って言った。
「落ちても、あなたはあなたよ。
それに、落ちるっていうのは、
“次に飛ぶためにしゃがんでる”だけなの」
健太は黙って頷いた。
彩花は涙を拭って笑った。
「……しゃがんでる、か。なんか、いいね」
母さんは静かに僕の頭を撫でた。
「〇〇くんもね、がんばりすぎないで。
あなたの歩幅でいいのよ」
夜更け。
勉強を終えて三人でストーブの前に座った。
外は雪がちらついている。
彩花がつぶやく。
「〇〇くんのお母さんって、あったかいね」
健太が頷く。
「うん。あの人がいると、
世界がちょっと柔らかくなる感じ」
僕は笑った。
「わかる。たぶん、母さんって、
“焦り”とか“怒り”とか、そういうのを全部包む人なんだと思う」
カーテンの向こう、
街灯の光が雪に反射して、
部屋がほんのりオレンジに染まっていた。
母さんがキッチンから声をかける。
「〇〇くんたち、夜食にスープ持ってくね!」
鍋を抱えた母さんが笑顔で現れる。
その瞬間、部屋がいっそう明るく見えた。
大学入試まで、あと二十七日。
焦りはまだある。
でも、もう怖くない。
母さんの作るスープの味、
健太のバカな冗談、
彩花の笑い声。
全部が僕の背中を押してくれている。
──あの夜、母さんが言った。
「焦りはね、がんばってる証拠よ。
でもね、君たちには“焦りより強いもの”がある。
それはね、“誰かに応援されてること”。」
その言葉が、今も胸の中に残っている。
あの冬の夜の温もりと一緒に。