夜明け前の空気が、少し痛いくらい冷たかった。
大学入試当日。
時計の針が六時を指した瞬間、僕は目を覚ました。
……ほとんど眠れていなかった。
胸がドクドクして、手のひらがずっと汗ばんでる。
枕元の時計を見るたび、心臓の鼓動が早くなる。
「〇〇くん、起きてる?」
母さんの声。
扉がそっと開いて、
白いエプロン姿の母さんが顔を覗かせた。
朝の光が差し込んで、
髪が金色みたいにやわらかく光ってる。
「……うん、もう起きた」
「そう、よかった」
母さんは小さく笑って、
「ごはん、あったかいうちに食べようね」と言ってキッチンに戻った。
食卓の上には、
湯気の立つおにぎりと具だくさんの味噌汁。
母さんがにこにこしながらお椀を並べる。
「今日は勝負の日だから、
具は“勝つお”にちなんでカツオと昆布ね」
「……語呂合わせかよ」
「こういうのが大事なの」
そう言って母さんは、おにぎりを差し出した。
形が少しいびつで、ラップにマジックで書かれた一言。
「〇〇くんの力、ちゃんと出せますように」
手書きの“お守り”みたいで、
胸が少し熱くなった。
「ありがとう。……頑張ってくる」
「うん。焦らず、落ち着いてね」
外はまだうっすら暗く、
吐く息が白く光る。
駅までの道を、母さんと二人で歩いた。
手袋越しに、
母さんの手が少し震えてるのがわかった。
「母さん、寒いの?」
「ううん、ちょっと緊張してるの。〇〇くんより」
「……なんで母さんが」
「だって、ここまでずっと見てきたもの」
母さんは笑って言った。
「頑張ってきた人の背中を見送るのが、
一番ドキドキするのよ」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなった。
駅前は受験生でいっぱいだった。
白い息を吐きながら、
それぞれが同じ方向へ歩いていく。
誰もが緊張して、静かな戦場みたいだ。
改札の前で、母さんが立ち止まった。
「ここからは、〇〇くん一人の道ね」
そう言って、マフラーの端を整えてくれる。
「母さん」
「うん?」
「……今までありがとう」
「ふふ、なにそれ。まだ受かってもいないのに」
そう言いながらも、
母さんの目が少し潤んでいた。
「行ってらっしゃい」
その声が、
冬の空にすっと溶けていった。
試験会場の建物は大きくて、
見上げるだけで胃が痛くなりそうだった。
受験票を見つめて深呼吸。
“あの人”──母さんの笑顔を思い浮かべた。
カツオと昆布のおにぎり、
白いマフラー、
小さな字で書かれたメッセージ。
……不思議と落ち着いた。
夕方。
すべての試験が終わって、外に出た。
空はオレンジ色に染まり始めていた。
深く息を吸い込むと、
冷たい風の中に、
どこか懐かしい味噌汁の匂いを思い出した。
スマホが震えた。
母さんからのLINE。
「おつかれさま。
晩ごはんはシチューにするね。
あたたかいお風呂も沸かしておくよ。」
文面を見ただけで、涙が出そうになった。
家の灯りが見えた瞬間、
緊張の糸がぷつんと切れた。
玄関のドアを開けると、
「おかえり!」
エプロン姿の母さんが、
笑顔で立っていた。
その笑顔だけで、
「受験終わったんだな」って実感が湧いた。
食卓の上には、
白い皿に湯気を立てるシチュー。
テーブルの隅には、
朝の“おにぎりの包み紙”がそのまま置いてある。
僕は静かに席についた。
「母さん」
「なあに?」
「……ありがとな」
母さんはスプーンを持つ手を止め、
ふわっと笑った。
「〇〇くんが頑張る姿を見られたから、
それだけで満点よ。」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
その夜、
窓の外に雪が静かに舞っていた。
街の灯りがにじんで、
それがまるで母さんの笑顔みたいに見えた。
焦って、苦しくて、
何度も立ち止まりそうになったけど──
僕はようやく分かった。
「母さんは、いつも僕の一歩後ろで、
僕が立ち止まらないように風を送ってくれてたんだ。」
湯気の立つシチューの香りの中で、
小さく深呼吸する。
冬の夜はまだ冷たい。
でも、僕の世界はもう温かかった。