焦りと安堵が入り混じったような日々が続いていた。
窓の外の雪は少しずつ溶けて、
屋根からポタポタと雫が落ちている。
合格発表まで、あと三日。
「〇〇くん、肩こってない? 少し揉んであげようか」
母さんが台所から顔を出す。
白いカーディガンに淡い黄色のエプロン。
その笑顔だけで、部屋の中が春みたいに明るくなる。
「大丈夫。勉強してないし」
「ふふ、それはいいことなのかしら」
母さんは笑って、
「お茶いれてくるね」と言って部屋を出た。
湯気の匂いと一緒に、
胸の奥が少しだけチクリとした。
本当は──東京の大学に行きたかった。
少し遠くて、電車じゃ通えない距離。
行けば、母さんと離れて暮らすことになる。
都会の景色を歩いて、
新しい仲間に出会って、
見たことのない世界を見てみたかった。
でも、それを母さんに言ったことはない。
あの人がリビングでひとり、
湯気の立つスープをすくう姿を想像しただけで、
胸が苦しくなる。
たぶん僕はまだ、
あの人をひとりにする勇気がない。
次の日、母さんと買い物に出かけた。
八百屋の佐藤さんがにやっと笑って言う。
「〇〇、大学受かってもこの町から逃げんなよ!」
母さんが笑って返す。
「逃げるってなに、佐藤さん」
「いやいや、あんたの息子がいなくなったら、
この商店街の平均気力が下がるんだよ!」
みんなが笑って、
いつもの空気が流れていく。
僕はその輪の中にいながら、
ふと空を見上げた。
電線の向こう、遠くに新幹線の音がした。
「……東京、行ったら、どんな景色が見えるんだろうな」
心の中でそう呟いたけど、
母さんには聞かせなかった。
夜。
母さんはリビングでスケッチブックを広げていた。
その手元をのぞくと、
桜の木の下に立つ“クマ”の絵。
その隣に、小さく“ウサギ”が描かれている。
「春の絵?」
「うん。〇〇くんの春。」
「……まだ決まってないのに?」
「決まる前に描くの。
だって、春は誰のところにも来るから。」
その言葉に、
なんだか胸が締めつけられた。
「母さん、もし僕が遠くの大学に行ったらどうする?」
「え?」
「……いや、なんでもない」
「ふふ、変な〇〇くん」
母さんは笑って、
「どこにいても、あなたは私の宝物よ」と言った。
それを聞いて、
僕は何も言えなくなった。
夜、ベッドの上で天井を見上げた。
時計の音が、やけに大きく響く。
「……ほんとは、東京行きたかったんだよな」
声に出してみると、
少しだけ寂しさがこぼれた。
でも、そのすぐあとに、
リビングのほうから小さな物音がした。
母さんがキッチンでマグカップを片付けている音。
その音が、不思議と落ち着く。
たぶん僕は、
“この音がある家”から離れられないんだと思う。
だから、僕はこの町で春を迎える。
母さんの隣で。
そしていつか、
胸を張って言えるようになりたい。
「僕の春は、この町から始まった」って。
──そしてふと、
心のどこかに浮かんだ言葉があった。
いつからかわからない。
ずっと昔、まだ小さかった頃から、
胸の奥に刻まれている言葉。
「あなたが歩くその先に、いつも帰る場所があるように。
どんなに遠くにいても、私はここであなたの幸せを祈っています。」
誰の言葉なのか、わからない。
でも、不思議とあたたかくて、
いつも僕の心に寄り添ってくれる。
もしかしたら、それは──
母さんがまだ言葉にしないまま、
ずっと僕に送ってくれていた“願い”なのかもしれない。
春は、すぐそこまで来ていた。