異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語 作:パラレル・ゲーマー
神は不在だった。
新田創――賢者・猫が、そのあまりにも不親切な『魔法入門』という名の置き土産を残して沈黙した。日本の国家中枢は、その神の不在の間に、自らの手で新たな奇跡を育て上げるという、壮大な、そしてどこまでも危険な実験に、その全てを捧げていた。
そして、その実験は、彼らの矮小な想像を遥かに超える形で実を結んだ。
風間隼(かざまはやと)。
伊豆諸島上空を、セーラー服姿で空中散歩していたところを「保護」された、十四歳の少女。
彼女は、神が予言した『空から降ってきた才能』、そのものだった。
サイトアスカの地下深く、セクター・グリモワール。そこは、もはやただの研究施設ではなかった。日本の、そして人類の未来を左右する、世界で唯一の魔法学校(アカデミー)へと変貌を遂げていた。
だが、そのアカデミーの空気は、ここ数ヶ月、一種の奇妙な閉塞感と、そして天才を前にした凡人たちの、深い、深い絶望感に満ちていた。
原因は、もちろん、風間隼その人だった。
「………………はー……」
モニタリングルームで、長谷川健吾教授が、その白髪混じりの頭を掻きむしりながら、深い溜め息をついた。
彼の視線の先、ガラス張りの訓練場では、隼が一人、退屈そうな顔で魔法の訓練(という名の遊び)に興じていた。
彼女は、指を一つ鳴らした。
パチン、という乾いた音と共に、訓練場の天井近くに、バスケットボールほどの大きさの水の球が、いくつも、いくつも出現する。
次に、彼女はもう一度指を鳴らした。
すると、その水の球は一瞬にして凍りつき、美しい氷の彫刻へと姿を変えた。
そして、最後の仕上げ。
彼女は、まるで指揮者がタクトを振るうかのように、優雅に手を動かした。
すると、その無数の氷の彫刻が、完璧なハーモニーを奏でるオーケストラのように、訓練場の中を華麗に舞い始めたのだ。
それは、もはや魔法ではなかった。
芸術だった。
そのあまりにも圧倒的で、そしてどこまでも努力を感じさせない光景。
それを見ていた彼女の「同級生」であるはずの、あの自衛隊の超エリート隊員たちの顔には、もはや当初のライバル心はなかった。そこにあるのは、絶対的な才能の壁を前にした人間の、純粋な、そしてどうしようもない諦観の色だけだった。
「……どうなってんだよ、あれ……」
一人の隊員が、呻くように言った。
「……俺たちが、一週間かかってようやく指先に小さな火種を灯せるようになったっていうのに……。……あの子は、ここに来た初日に、いきなり訓練場半分を焦土に変えるほどのファイアストームをぶっ放しやがった……」
「……ああ」と、別の隊員が続けた。
「……俺たちが、教科書の第七章『中級防御魔法概論』でヒーヒー言ってる間に、あの子はもう最終章の『禁断の時空魔法の可能性について』を読んで、『これ、面白そうですね』とか言ってたぞ……」
彼らは、もはや嫉妬さえ感じていなかった。
それは、アリが空を飛ぶ竜を見上げるような、ただただ絶対的な隔絶感だった。
「…………ビューティーふぉー……!」
その絶望的な空気の中で、一人だけ目をキラキラと輝かせている男がいた。
長谷川教授だった。
「……素晴らしい! なんという才能だ! ……彼女の脳波パターンは、我々凡人が魔力(サイオニック・フィールド)を練り上げる時のそれとは、根本的に違う! ……我々が必死で井戸から水を汲み上げているのだとすれば、彼女は生まれながらにして大河そのものなのだ! ……彼女こそが、人類の新たなる進化の可能性! ホモ・サピエンスからホモ・マギカへのミッシングリンク、そのものなのですぞ!」
その科学者としての純粋な、そしてどこか狂気じみた興奮。
だが、その熱狂に冷や水を浴びせたのは、やはりこのプロジェクトの最高責任者、橘紗英の氷のように冷たい声だった。
「…………教授」
彼女は、モニターに映し出された隼の、どこか退屈そうな横顔を見つめながら言った。
「……彼女の才能が規格外であることは、よく分かりました。……ですが、問題はそこではありません。……問題は、彼女のその才能を、我々が、そしてこの国が、本当に制御できるのかどうか。……その一点です」
彼女の視線の先には、隼の最新の精神鑑定レポートが表示されていた。
そこに記されていたのは、十四歳の少女の、あまりにも無邪気で、そしてあまりにも危険な魂のプロファイルだった。
『――対象は、自らの持つ力の特異性を全く自覚していない。……彼女にとって、魔法とは、呼吸をすること、歩くことと何ら変わらない、当たり前の日常の一部である。……故に、倫理観、責任感といった概念が著しく欠如している。……彼女の行動原理はただ一つ。……『面白いかどうか』、ただそれだけである』
そのあまりにも純粋で、そしてあまりにも厄介な結論。
彼女は、力を持つ子供、そのものだった。
そして、子供は、時にその無邪気さ故に、最も残酷なことをしでかす。
この規格外の才能を、このまま野放しにしておけば、いつか必ず、取り返しのつかない事態を引き起こすだろう。
そして何よりも、橘の頭脳を悩ませていたのは、綾小路官房長官がかつて投げかけた、あの不吉な問いだった。
『――もし、我々が知らないだけで、既にこの世界のどこかに、彼女のような存在が他にもいるとしたら?』
その問いは、もはやただの仮説ではなかった。
風間隼という動かぬ証拠の存在が、それを現実的な脅威へと変えていた。
日本中に、あるいは世界中に、自らの力を自覚せぬまま、あるいは密かにその力を振るい続けてきた第二、第三の風間隼が眠っているとしたら?
社会は、その混沌に耐えられるのか。
橘は、静かに、しかし鋼のような決意を込めて総理に進言した。
「…………総理。……もはや一刻の猶予もございません。……我々は、パンドラの箱を開けてしまった。……ならば、その中から飛び出してくるであろう混沌を管理し、制御するための新たな『法』を、我々自身の手で創造せねばなりません」
その進言は、宰善総理と彼の内閣に、新たな、そして最も困難な宿題を突きつけた。
魔法という、人類の歴史上全く新しい概念を、いかにして既存の法体系の中に組み込むのか。
数週間にわたる、法務省、警察庁、そしてプロジェクト・キマイラの最高頭脳たちによる徹夜の議論の末。
ついに、一つの歴史的な法案がその形を成した。
そして、その法案は、国民への十分な説明も、国会での十分な審議も、その全てを『国家安全保障上の緊急避難的措置』という超法規的な理屈で省略し、閣議決定という異例の速さで可決、公布された。
その日の午後。
官邸の定例記者会見場。
その壇上に立った官房長官、綾小路俊輔の顔には、いつもの皮肉な笑みはなかった。
そこにあったのは、歴史の転換点を告げる預言者のような、厳粛な、そしてどこまでも冷徹な表情だった。
彼は、世界中のメディアが見守る中、静かに、しかしその言葉の一つ一つに揺るぎない重みを込めて語り始めた。
「……本日、日本国政府は、我が国の、いえ人類の未来を左右する一つの新たな法律の施行を、ここに宣言いたします」
彼はそこで、一度言葉を切った。
会見場が、どよめきと緊張に包まれる。
「……その法律の名は、『超常能力の管理及び保護に関する基本法』。……通称、『超常能力管理基本法』と、我々は呼んでおります」
そのあまりにもSF的で、そしてどこまでも物々しい法律の名称。
記者たちは、何が何だか分からず、ただ呆然とその言葉を聞いていた。
綾小路は、続けた。
「……皆様ご存知の通り、二年前に発見されました『星見子の遺産』。……その解析を進める中で、我々は信じがたい、しかし否定しようのない結論に達しました。……かつて我々が『奇跡』や『超能力』、『魔法』や『霊能力』と呼び、非科学的な迷信として片付けてきた現象のその多くが、実は説明可能な、そして再現性のある『力』として、この世界に実在していたという事実に」
彼は、背後のスクリーンにいくつかの画像を映し出した。
それは、サイトアスカで撮影された魔法のデモンストレーションの映像と、そして古代の壁画に描かれた奇跡の絵、さらには現代の心霊写真とされたものまで、脈絡なく並べられていた。
「……これらの『超常能力』は、極めて稀ではありますが、特定の遺伝的素質を持つ、あるいは特殊な修練を積んだ個人の中に、潜在的に眠っていることが、我々の研究で明らかとなりました。……これは、冗談などではありません。……二年前までおとぎ話の世界の話であったものが、今や我々の目の前にある、厳然たる現実となっているのです」
会見場は、もはやパニックだった。
だが、綾小路は、その熱狂を冷徹に制した。
「……そして、この力は諸刃の剣です。……正しく使えば、人々の暮らしを豊かにし、新たな可能性の扉を開くでしょう。……ですが、一歩間違えれば、社会に大きな混乱と、そして悲劇をもたらしかねない。……故に、政府は決断いたしました。……これらの力を無法地帯に放置するのではなく。……明確な法の光の下で、適切に管理し、保護し、そして育成していくことを」
彼は、その法律の概要を淡々と説明し始めた。
第一に、自らが超常能力を持つと自覚する全ての国民に対し、新たに設置される政府機関、『内閣府直轄・超常現象対策室』への届け出を義務付けること。
第二に、届け出があった能力に対し、対策室が厳格な審査を行い、その能力が「本物」であると認定された者には、政府公認の『特級技能者』としてのライセンスを発行し、その活動を公的に認可、支援すること。
第三に、その力を悪用し社会の秩序を乱した者に対しては、この法律に基づき、通常の刑法よりも遥かに重い罰則を科すこと。
そして最後に、この法律は、これまで日の当たらない場所にいた存在たちを弾圧するためのものではなく、むしろ彼らを認め、その尊厳を守るためのものであると、力強く宣言した。
「……これまで、その特異な才能故に、社会から奇異の目で見られ、あるいは詐欺師と罵られ、孤独の中に生きてきた方々がおられるやもしれません。……占い師、イタコ、超能力者、あるいは代々秘術を受け継いでこられた旧家の方々。……我々は、あなた方の存在をもはや否定しません。……あなた方は、この国が誇るべき新たなる『才能』なのです。……どうか、その力を恐れることなく、我々の下へとお越しいただきたい。……共に、この国の新たな未来を築こうではありませんか」
そのあまりにも劇的な、そしてどこまでも計算され尽くした演説。
それは、日本中の、そして世界中の「影の住人」たちの心を根底から揺さぶった。
発表の翌日から、霞が関に新設された『超常現象対策室』の臨時受付窓口には、信じられないほどの数の人々が長蛇の列をなした。
新宿の路地裏で、細々とタロット占いをしていた老婆。
青森の恐山で、死者の声をその身に降ろしてきたイタコの老婆。
テレビのバラエティ番組で、スプーンを曲げては胡散臭いと笑われてきた、自称超能力者の青年。
そして、京都の古びた屋敷で、何百年という間、人知れず陰陽道の秘術を受け継いできたという、古風な狩衣に身を包んだ旧家の当主。
彼らは皆、半信半疑の、しかしどこか縋るような思いで、その扉を叩いた。
そして、彼らはそこで、生まれて初めて、自らの力がただの思い込みやまやかしではないことを、「本物」として公的に認められるという経験をしたのだ。
審査のプロセスは、厳格を極めた。
対策室の審査官たちの前で、彼らは自らの「奇跡」を披露する。
占い師は、審査官が引くトランプのカードの順番を、一寸の狂いもなく言い当てた。
イタコは、その場にいないはずの審査官の亡き祖母の声をその身に降ろし、その祖母しか知り得ないはずの思い出を語って聞かせた。
超能力者の青年は、念じるだけで厳重に封をされた封筒の中身を透視し、読み上げてみせた。
そして、陰陽師の末裔は、一枚の紙で作った式神を、まるで生き物のように自在に操り、部屋の中を飛ばせてみせた。
その一つ一つが、これまでの科学の常識では説明のつかない、紛れもない「本物」の奇跡だった。
対策室の官僚たちは、そのあまりの光景に度肝を抜かれながらも、淡々とその能力をデータ化し、分類し、そしてライセンスを発行していった。
『――認定:未来予知(プレコグニション)レベルC』
『――認定:霊体交信(スピリット・コミュニケーション)レベルB』
『――認定:透視(クレアボヤンス)レベルD』
『――認定:式神使役(エレメンタル・マスタリー)レベルB』
数週間後、その驚くべき調査結果の中間報告が、プロジェクト・キマイラの司令室にもたらされた。
橘紗英は、そのあまりにも膨大で、そしてあまりにも混沌とした報告書を、氷のような目で読み上げていた。
「………………驚きましたわね」
彼女は、静かに呟いた。
「……日本国内だけで、既に三千名を超える『本物』が登録されています。……その能力は多種多様。……ですが、大別すると、いくつかの系統に分類できるようです。……占い師の多くは、未来視や予知といった、時間に干渉する系統。……イタコや霊能者の多くは、我々のまだ知らない霊的な次元に干渉する系統。……そして、超能力者と呼ばれる者たちの多くは、念動力や透視といった、空間に干渉する系統の能力者であると」
彼女はそこで、一度言葉を切った。
「……そして、何よりも興味深いのは、我々が『魔法』と呼ぶ、あの因果律改変能力。……これを使える者は、極めて稀です。……これまでの登録者の中では、風間隼少女を除き、数名しか確認されておりません。……ですが、その数名には、驚くべき共通点がありました」
彼女は、スクリーンに数名の登録者の家系図を映し出した。
その家系図は、何百年、あるいは千年という単位で過去へと遡っていた。
「……彼らは皆、代々何らかの秘術や特殊な技能を受け継いできたとされる、旧家の末裔です。……伊賀の忍びの家系、出雲の神官の家系、そして京都の陰陽師の家系……。……彼らが使う魔法は、我々が教科書で学んだ汎用的なものではなく、その血筋ごとに、極めて特殊な方向へと特化したものです」
長谷川教授が、興奮したように付け加えた。
「……そうです! ……まさに賢者様の教科書の『応用編』に記されていた通り! ……『特定の血筋に受け継がれる特化型の魔法は、その再現性と応用が極めて難しい』……と! ……つまり、彼らのその力は、後天的に学んだものではなく、遺伝、すなわち血によって受け継がれてきたものなのです! ……因果律改変能力者の子供は、同じように高い素質を持って生まれてくる! ……そういうことですぞ!」
そのあまりにも衝撃的な、そしてどこまでも論理的な結論。
司令室は、再び静まり返った。
彼らはようやく、この国の、そしておそらくは人類の歴史の隠された真実の一端を垣間見たのだ。
宰善総理が、呻くように言った。
「…………なるほどな。……日本国内で、これほどまでに多くの能力者が潜んでいたのは……。……ただ、この国が古くからあるから、というだけではなかったのだな。……我々のこの国の血の中には、太古の昔から、その奇跡の種が連綿と受け継がれてきておったというわけか……」
そのあまりにも壮大で、そしてどこか誇らしい結論。
それは、彼らに新たな、そしてより巨大な使命感を与えた。
この国に眠る神代からの才能を、発掘し、育て、そして正しく導くこと。
それこそが、神の不在の時代に生きる我々神官団に課せられた、真の務めなのだと。
彼らの終わりなき苦悩と、そしてどこまでも滑稽な神話創造の旅は、またしても新たな、そしてより深遠な領域へと、その駒を進めようとしていた。