異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語   作:パラレル・ゲーマー

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第102話

 賢者・猫が、神の如き気まぐれで置いていった、たった一つの『魔石』。

 その青黒く鈍い輝きを放つ小さな石ころが、今、織田弾正忠家の、そしてこの日ノ本の未来そのものを根底から揺るがす、壮大な実験の対象となろうとしていた。

 場所は、那古野城から半里ほど離れた、人里離れた山間の谷間に広がる、織田家直轄の隠し田。ここは、戦の際の最後の兵糧を確保するため、ごく一部の家臣と、代々織田家に仕える最も信頼の置ける農夫の一族だけが、その存在を知る極秘の田圃(たんぼ)だった。

 

 初夏の強い日差しが照りつけるその田圃の畔道に、数人の男たちが、神妙な面持ちで集まっていた。

 中心に立つのは、織田家当主、織田信秀。その傍らには、うつけの仮面を脱ぎ捨て、真剣な、しかしどこか楽しげな光をその瞳に宿す若き信長。そして、彼らを取り囲むように、平手政秀をはじめとする数名の重臣と、この隠し田を代々管理してきた作兵衛という名の老農夫が、固唾をのんで成り行きを見守っていた。

 彼らの視線の先にあるのは、信秀が恭しく両手で掲げ持つ、あの魔石だった。

 

「………………本当に、よろしいのでございますか、殿」

 平手政秀が、不安げな声で問いかけた。その顔には、目の前の主君たちが正気を失ってしまったのではないかという、深い憂慮の色が浮かんでいた。

「……うむ。……百聞は一見にしかずじゃ。……あの賢者殿の言葉が真であるか、この目で見届けるまでは、この信秀、夜も眠れんわ」

 信秀の声は静かだった。だが、その奥には、抑えきれない興奮と、そしてもしこれが真実でなかった場合の、深い失望への恐れが渦巻いていた。

 彼は、傍らに控えていた柴田勝家に目配せをした。

 勝家は、無言で頷くと、巨大な鉄槌を手に、田圃の中央に置かれた頑丈な金床(かなとこ)の前に立った。

 信秀が、おそるおそる、その魔石を金床の上に置く。

「…………頼むぞ、権六。……粉々になるまで砕け」

「……御意」

 勝家は、深く息を吸い込んだ。

 そして、その鬼神の如き剛腕に全ての力を込めて、鉄槌を振り下ろした。

 ゴォンッ!!!!

 凄まじい金属音と衝撃波が、静かな山間に響き渡った。

 だが、信じられないことに、鉄槌は甲高い音を立てて弾き返され、魔石には傷一つついていなかった。

「なっ……!?」

 勝家が、驚愕に目を見開く。

「……なんと硬い石だ……! この権六の、渾身の一撃を弾き返しただと……!?」

「……ふん。……ただの石ではない、ということよな」

 信長が、面白そうに鼻を鳴らした。

「……権六! ただの力任せでは、埒があかん! ……我が身に宿りしこの力、少しばかり貸してやろう!」

 信長はそう言うと、勝家の肩にそっと手を置いた。

 その瞬間、勝家の巨体が、淡い翠色のオーラに包まれる。

「おお……!? な、なんだこれは……! 力が……! 力が、漲ってくる……!」

「――今だ! 打て!」

 信長の号令一下、勝家は再び鉄槌を振り下ろした。

 今度の一撃は、先ほどの比ではなかった。

 ゴッッッッッッ!!!!!!

 山が、震えた。

 鉄槌は、ついにその神の石を捉え、そして粉々に砕き散らした。

 後に残されたのは、金床の上に広がる、まるでダイヤモンドダストのようにきらきらと輝く、微細な青黒い粉末だけだった。

 

「……おお……。……砕けたか」

 信秀が、安堵の息を漏らす。

 彼は、その神秘的な輝きを放つ粉末を、老農夫の作兵衛に、恭しく手渡した。

「……作兵衛よ。……これを、あの田に撒いてくれ。……できるだけ、均等にな」

「は、ははっ……!」

 作兵衛は、わなわなと震える手で、その神の粉が入った木箱を受け取った。

 彼は、その生涯を土と共に生きてきた。土の声を聞き、天の機嫌を伺い、ただひたすらに実直に米を作り続けてきた。

 だが、今、自分がこれからやろうとしていることは、その彼の人生の全てを、そしてご先祖様から受け継いできた全ての知恵を、根底から覆す冒涜的な行為に思えた。

 彼は、祈るような気持ちで、そのきらきらと輝く粉末を、昨日田植えを終えたばかりの青々とした苗が並ぶ水田へと、ゆっくりと、そして丁寧にばらまいていった。

 風が吹き、神の粉は、陽光を反射しながら、まるで祝福の光の雨のように、静かに田圃の上へと舞い落ちていく。

 そのあまりにも幻想的な光景を、信秀も、信長も、そして全ての家臣たちが、ただ息を殺して見守っていた。

 全ての粉を撒き終えた後。

 田圃は、何も変わらなかった。

 ただ、水面が微かにきらきらと輝いているだけ。

「………………」

 重苦しい沈黙が、その場を支配した。

「…………殿。……これで、本当に……?」

 平手が、不安げに呟く。

「……分からん」

 信秀は、短く答えた。

「……賢者殿は、こう仰せられた。『一日で実る』と。……今宵一夜、この田のことは忘れよ。……そして、明日の夜明けと共に、再びこの場所に集う。……よいな?」

「「「ははっ!」」」

 

 その夜、織田信秀は眠ることができなかった。

 彼の頭の中を、期待と、そしてそれ以上の不安が、嵐のように吹き荒れていた。

 もし、あれがただの化け猫の戯言であったならば。

 自分は、家臣たちの前で、そして何よりも息子の前で、とんだ大恥をかくことになる。

 だが、もし。

 もし、あれが真実であったならば。

 織田家は、この日ノ本の神となる。

 彼は、そのあまりにも巨大すぎる可能性の重圧に、輾転反側を繰り返した。

 

 そして、運命の朝が訪れた。

 まだ東の空が白み始めたばかりの、薄明の刻。

 信秀は、信長と重臣たちを伴い、再びあの隠し田へと馬を走らせていた。

 谷間に立ち込める朝霧が、ひんやりと肌を撫でる。

 やがて、目的の田圃が見えてきた。

 その光景を目にした瞬間、馬上の全ての男たちが、まるで雷にでも打たれたかのように、完全に動きを止めた。

 

「…………………………………………」

 

 誰もが、言葉を失っていた。

 目の前に広がる光景が、あまりにも、あまりにもありえなかったからだ。

 昨日まで、ただの青々とした苗が並ぶ水田だったはずの場所が。

 今や、見渡す限りの黄金色の海原へと変貌を遂げていたのだ。

 一本一本の稲が天に向かって力強く伸び、その穂先には、朝露を浴びて宝石のように輝く米粒が、ずしりと重そうに、たわわに実っている。

 風が吹くたびに、黄金色の稲穂がさわさわと音を立てて揺れ、まるで大地の女神が微笑んでいるかのようだった。

 それは、もはやただの田圃ではなかった。

 それは、神話の世界。

 古事記に記された、高天原の豊穣の風景そのものだった。

「………………あ」

 老農夫の作兵衛が、その場に崩れ落ちるようにひざまずいた。

 彼の皺だらけの顔は、驚愕と、そしてそれ以上の根源的な畏怖に歪んでいた。

「…………か、神様……! ……龍神様が、おなされたんじゃ……! ……これは、人の成せる御業では、断じてありませぬ……!」

 彼は、その黄金色の大地に向かって、何度も、何度も額をこすりつけ、祈りを捧げ始めた。

 

 そのあまりの神々しい光景に、百戦錬磨の武士であるはずの重臣たちでさえも、ただ馬の上で呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 その中で、ただ一人。

 織田信秀だけが、動いた。

 彼は、馬から飛び降りると、まるで夢遊病者のように、その黄金色の海の中へと足を踏み入れた。

 そして、一本の稲穂を、震える手でそっと折り取った。

 彼は、その穂先から数粒の米粒をしごき取ると、その殻を指先で器用に剥き、そしてその中から現れた純白の玄米を、自らの口へと運んだ。

 そして、ゆっくりと噛み締めた。

 その瞬間、彼の脳天を衝撃が突き抜けた。

 甘い。

 そして、力強い。

 米本来の生命力そのものとでも言うべき、濃厚な味わい。

 彼がこれまで口にしてきたいかなる米とも、全く次元が違う。

「………………は」

 彼の口から、乾いた声が漏れた。

「………………ははは」

 そして、次の瞬間、彼は声を上げて笑った。

 それは、もはや人間の笑い声ではなかった。

 天命をその手中に収めた男の、歓喜の咆哮だった。

「ハハハハハハハハハハハハッ!!!!!!!!」

 彼の高らかな笑い声が、朝の静かな山間に響き渡った。

「見たか、三郎! 平手よ! 権六よ! ……これぞ、天が我ら織田家に与えたもうた吉兆ぞ! ……これさえあれば、もはや飢饉を恐れる必要はない! ……兵糧は、無限じゃ!」

 そして、彼は天を仰ぎ、叫んだ。

 

「ハハハ、米が取り放題ではないか!」

 

 その父の狂喜の姿を、信長は、静かに、そしてどこか冷めた目で見つめていた。

 彼の頭脳は、既にその先の、さらに恐るべき可能性を計算していた。

 この奇跡を、いかにして力へと変えるか。

 信秀は、すぐに我に返ると、その顔を為政者のそれへと戻した。

「……よし。……作兵衛! 家臣ども! ……今すぐ、この田の米を全て刈り取れ! ……そして、明日も、明後日も、そのまた次の日もじゃ! ……この奇跡が、いつまで続くのか。……その限界を、この目で見届ける!」

 

 その日から、隠し田では狂乱の収穫祭が始まった。

 作兵衛とその一族、そして口の堅い足軽たちが総動員され、昼夜を問わず、その黄金色の稲穂を刈り取り続けた。

 だが、奇跡は終わらなかった。

 一日目。彼らが全ての稲を刈り取り、もぬけの殻となった田圃。

 その翌朝、そこには、再び昨日と全く同じように、たわわに実った黄金色の稲穂が、朝日に輝いていた。

 二日目も、三日目も、同じだった。

 刈っても、刈っても、翌朝には全てが元通りになっている。

 無限に湧き出る黄金の泉。

「…………ひっ……」

 三日目の朝、その光景を目の当たりにした若い足軽の一人が、ついにその精神の均衡を失い、腰を抜かして悲鳴を上げた。

「……ば、化け物だ……! この田圃は、化け物に憑かれてるんだ……!」

 農夫たちも、もはやその顔に喜びの色はなかった。そこにあるのは、人知を超えた現象に対する、根源的な恐怖だけだった。

 

 だが、織田信秀の狂喜は、日に日にその温度を増していった。

 彼は、城の蔵に山と積まれていく、見たこともないほど白く、そして大粒の米俵を前にして、再び高らかに笑った。

「ハハハハハハハ! 尽きぬ! 全く、尽きる気配がないわ! ……これぞ、まさしく打ち出の小槌よな!」

 そして、彼は天を仰ぎ、再び叫んだ。

「ハハハ、米が食べ放題ではないか!」

 

 その夜、那古野城の評定の間。

 信秀と信長、そして重臣たちを前に、炊きたての「神の米」が、漆塗りの椀によそわれて差し出された。

 湯気と共に立ち上る、甘く、そして芳醇な香りだけで、その場にいた全員が、ごくりと喉を鳴らした。

 彼らは、その一口を口に運んだ。

 そして、全員が絶句した。

 美味い。

 そんな陳腐な言葉では、表現できない。

 一粒一粒が完璧なまでに輝き、その歯ごたえは、もっちりとしていながら、舌の上でとろけるように甘い。

「………………」

 誰もが、無言で、夢中でその白い奇跡をかき込んだ。

 そして、椀が空になった時、信秀が静かに、しかし力強く言った。

「…………しかし、この米は美味いな!」

 その一言に、その場にいた全員が、深く、深く頷いた。

 

「…………うむ」

 信秀は、満足げに言った。

「……この奇跡、尾張の全ての田に広げたい。……いや、広げるのだ。……そうなれば、我が尾張は日ノ本一の米どころとなる。……兵は食うに困らず、民は飢えることなく、国は無限に富むであろう」

 彼の目は、既に遥か未来を見据えていた。

「……して、賢者殿への対価じゃがな」

 彼は、信長に向き直った。

「……この『神の米』を高く売り、それで稼ぐしかあるまい。……京の公家どもや南蛮の商人どもに売りつければ、いくらでも金に変わるであろう。……あの御方は商人だと仰せられた。……ならば、金で報いるのが、最も誠意あるやり方というものよ」

 そのあまりにも合理的で、そしてどこまでも戦国大名らしい結論。

 信長は、その父の言葉に、不遜な笑みを浮かべて、ただ静かに頷くだけだった。

 尾張は、神の国になった。

 いや、これからなろうとしていた。

 そして、その神の名は、賢者・猫でも、龍神でもない。

 織田信秀、そして織田信長。

 人の欲望と野心という名の、最も人間臭い神の国へと。

 そのあまりにも危険で、そしてどこまでも魅惑的な変貌の第一歩が、今、この一粒の米と共に、静かに始まろうとしていた。

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