異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語 作:パラレル・ゲーマー
日本の日常は、静かに、しかし確実に、神の不在と、そして神の奇跡の断片と共に在るという、新たな常識(ニューノーマル)へと移行していた。
人々は、当たり前のように充電の必要がないスマートフォンを手にし、食卓には時折、神饌(SHINSEN)ブランドの奇跡の野菜が並ぶことを夢見る。そして、テレビの向こう側では、日米の天才たちが、巫女王ホシミコの遺産(という名の神の玩具)を巡って、熾烈な、しかしどこか楽しげな知的探求を繰り広げている。
世界は、ゆっくりと、しかし確実に変わり続けていた。
その変化の中心、官邸の地下深く、プロジェクト・キマイラの作戦司令室。
その空気は、もはやかつてのような張り詰めた緊張感ではなく、むしろ巨大すぎるプロジェクトを運営する巨大企業の役員会議室のような、どこか機能的で、そして奇妙なほどの日常感に満ちていた。
その日もまた、月に一度の最も重要で、そして最も不可解な定例報告会、すなわち『神の降臨』の日が、やってきていた。
東京、西新宿のヘリポートは、もはや神を迎えるための完璧な神殿として、その様相を一新していた。
床には、伊勢神宮の式年遷宮で用いられるのと同じ最高級の檜の板が敷き詰められ、その清浄な木の香りがヘリポート全体を満たしている。中央には、輪島塗の漆黒の祭壇が置かれ、その上には、京都の老舗香木店の主人がこの日のために特別に調合したという伽羅の香が、静かに揺らめき、幽玄な紫の煙を立ち上らせていた。
そのあまりにも荘厳で、そしてどこか狂気じみた光景の中心で。
純白の狩衣に身を包んだ宰善茂総理、橘紗英理事官、そして綾小路俊輔官房長官が、神官のように整然と列をなし、静かにその時を待っていた。
彼らの顔には、もはや当初の緊張や恐怖はなかった。そこにあるのは、神の気まぐれという名の天災に、もはや慣れっこになってしまったベテランの防災担当者のような、どこか開き直った静かな覚悟だけだった。
やがて、空間が何の前触れもなく揺らいだ。
そして、祭壇の前に、すっと一匹の艶やかな黒猫が姿を現した。
「うむ。ご苦労」
賢者・猫は、そのあまりにも手慣れた歓迎の設えを一瞥すると、まるで近所の定食屋にでも入るかのような気軽さで、祭壇の前にちょこんと座った。
「さて。……先月の注文の品は、できておるか」
「はっ! もちろんでございます、賢者様!」
橘が、深々と頭を下げる。
彼女の合図と共に、ヘリポートの巨大な搬入口がゆっくりと開き、そこから自衛隊の隊員たちによって厳重に梱包されたいくつもの巨大な木箱が運び込まれてきた。
木箱の蓋が開けられると、中には、先月賢者が要求したスイス製の最高級機械式腕時計の数々、南極の氷を特殊な容器に封じ込めたもの、そして群馬県が総力を挙げて生産したという最高級のこんにゃく芋が、神への捧げ物として、美しく、そしてどこまでもシュールに鎮座していた。
「うむうむ。……結構、結構。……こんにゃくの質も上々じゃな」
賢者は、満足げに頷くと、その全ての献上品を、いつものように次元ポケットへと一瞬にして収納していった。
その光景に、もはや誰も驚かない。
「さてと」
賢者は、毛づくろいをしながら続けた。
「……では、来月の『仕入れ』リストじゃがな」
そのあまりにも軽い口調。
だが、その一言に、司令室にいた全員の背筋が、ぴんと伸びた。
神の新たな御神託。
それが、この国の次なる一ヶ月の命運を決定づけるのだ。
「…………うむ」
賢者は、少しだけ考える素振りを見せた。
その数秒の沈黙が、日本のトップエリートたちの心臓を締め上げる。
そして、彼は言った。
その声は、どこまでも軽く、そしてどこまでも世界の理からかけ離れていた。
「…………木造の船が欲しいのう」
「…………………………………………は?」
その場にいた全員の思考が、完全に停止した。
宰善総理も、橘も、綾小路も、その口をあんぐりと開けたまま、完全に凍り付いていた。
も、木造の船?
今、この神は、木造の船と仰せられたか?
あまりにも、これまでの奇跡の数々とは、スケールが、そしてジャンルが違いすぎる。
「…………も、木造の船でございますか、賢者様?」
橘が、かろうじてその震える声で問い返した。
「うむ。そうじゃ」
賢者は、こともなげに頷いた。
「……ああ、そうだ。……ついでに、漁業ができるように現代で使われておる網も付けてほしいのう。……丈夫で、たくさん魚が獲れるやつじゃ」
そのあまりにも具体的で、そしてどこまでも庶民的な追加注文。
司令室は、深い、深い混乱の渦に包まれた。
「……な、何故でございますか、賢者様……?」
綾小路が、その蛇のような顔に、純粋な困惑の色を浮かべて尋ねた。
「……貴方様ほどの御方であれば、それこそ星々を駆ける宇宙船さえもお持ちのはず。……何を今更、我々矮小なる人間が作る、古風な木の船などを……」
そのあまりにも当然の問いに対し。
賢者・猫は、心底面倒くさそうに、そしてどこか出来の悪い生徒に簡単な算数を教える教師のように、溜め息をついた。
「…………はー……。……お主たちは、まだ商売というものが分かっておらんのう」
彼は、言った。
「……よいか? ……ワシがこれから取引をしようとしておる相手はな、まだ文明レベルが低い。……そこに、いきなりワシの宇宙船のようなオーバーテクノロジーを持ち込んでみよ。……彼らはそれを理解できず、ただ神の奇跡として崇め奉るだけで、自らの力でそれを再現し、発展させようとはすまい。……それでは、商売にならんのじゃよ」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして、究極のぐうたらビジネスの極意を説き始めた。
「……ワシが欲しいのは、彼らがギリギリ理解でき、そして自分たちの手で『複製』できるレベルの、少しだけ進んだ技術なのじゃ。……なぜか? ……それは、木造の船だと複製しやすいからじゃよ。……ワシが、最初に完成品の船を二、三隻ほど売ってやる。……彼らは、その船を分解し、研究し、やがては自らの手で同じものを作り始めるであろう。……そうなれば、ワシはもう商品を納入する必要はない。……あとは、彼らがその技術を使って国を富ませ、そしてその利益の一部を『ライセンス料』としてワシに支払い続ける。……ビジネスとしては、その方が遥かにやりやすいのじゃよ。……分かるかな? ……ワシは、魚を与えるのではない。……魚の釣り方を、教えてやっておるのじゃ。……もちろん、有料でな」
そのあまりにも合理的で、そしてどこまでもしたたかな究極のフランチャイズ・ビジネスの理論。
それは、司令室にいた日本のトップエリートたちの頭を、ガツンと殴りつけたかのような衝撃を与えた。
彼らは、ようやく理解したのだ。
この神は、ただの気まぐれな超越者などではない。
彼は、複数の世界を股にかける、究極の、そしてどこまでもぐうたらなビジネスマンなのだと。
「…………なるほど……!」
宰善総理が、呻くように言った。
「…………素晴らしい……! なんと、なんと合理的なご慧眼……! ……我々には、到底思いも及ばぬ発想にございました……!」
彼らは、もはや神の奇跡にではなく、その完璧すぎるビジネスモデルの美しさに感服していた。
「……うむ。……そういうわけじゃからな」
賢者は、満足げに頷いた。
「……
「は、ははっ!」
「…………ああ、そうだ。……本当は、飛行機なんかも売りたいのじゃがな。……アレは、さすがに彼らが複製するのは、なかなか難しいからのう……。……まあ、それはまた次の機会じゃな」
そのあまりにも不穏な未来の事業計画を、さらりと口にしながら。
賢者は、立ち上がった。
「…………じゃあ、頼むぞい」
彼はそう言い残すと、自分が来た時と同じように、何の余韻も残さず、すっとその場から姿を消した。
後に残されたのは。
神の不在の静寂と、その神が置いていった、あまりにも具体的で、そしてどこまでも厄介な宿題だけだった。
彼らは、しばらく呆然としていた。
やがて、その沈黙を破ったのは、宰善総理の雷鳴のような一喝だった。
彼は、完全にプロジェクトリーダーの顔に戻っていた。
「…………聞け、諸君!」
彼の声が、司令室全体に響き渡った。
「……賢者様からの、新たな御神託である! ……我々は、これより『船』を創る! ……それも、ただの船ではない! ……賢者様が仰せられた、『少しだけ進んだ、しかし複製可能な船』をだ!」
彼は、国土交通省と防衛省から来ていた専門家たちに向き直った。その目は、燃えていた。
「……直ちにだ! ……直ちに、我が国の最高の造船技師、船舶設計士、そして歴史学者を集めよ! ……プロジェクト・チームを編成し、この無理難題を、一ヶ月で形にするのだ!」
「い、一ヶ月ですと!?」
専門家たちが、悲鳴を上げた。
「そうだ、一ヶ月だ!」
総理は、叫んだ。
「……そして、忘れるな! ……設計の絶対条件は、ただ一つ! ……『そこまで文明が進んでなくても、組み立てることができるように設計するんだ!』 ……釘やネジは最小限に! ……木材の接合は、可能な限り伝統的な木組みの技術を応用せよ! 帆の素材は、麻や木綿でも代用可能なものに! ……分かるな!? 我々が創るのは、ただの船ではない! ……異世界へと輸出するための、完璧な『技術移転パッケージ』なのだ!」
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも困難な国家プロジェクトの始動宣言。
司令室は、もはやかつての神学論争の場ではなかった。
それは、神の無茶な要求に応えるため、国家の全ての叡智とプライドを懸けて戦う、究極の下請け企業の、熱狂的なキックオフミーティングの場と化していた。
彼らは、もはや神の僕(しもべ)ではなかった。
彼らは、神の壮大なる異世界ビジネスを、その地上における唯一無二のパートナーとして支える、最も優秀な、そして最も忠実な『サプライヤー』へと、その貌を変えていたのだ。
そのあまりにも滑稽で、そしてどこか誇らしい新たな役割を、彼らは、静かに、そして確かに受け入れた。
日本の、眠れぬ一ヶ月が、今、静かに始まろうとしていた。