異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語   作:パラレル・ゲーマー

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第105話

 神は去った。

 だが、神が置いていったあまりにも巨大すぎる奇跡の塊は、横須賀の地下深くに建造された極秘ドックの中で、静かに、しかし圧倒的な存在感を放ち続けていた。

 全長、約五十メートル。真珠のように滑らかな光沢を放ち、見る角度によってその色を虹色に変化させる、未知の素材で作られた流麗な曲線を持つ船体。

 日本政府は、畏敬と、そしてほんの少しの皮肉を込めて、その神の船に名を授けた。

『やまと』。

 この国の古き名であり、そしてかつてこの国の民が星々の海への憧れを込めて、物語の中で復活させた伝説の戦艦の名。

 そのあまりにも重すぎる名を冠された神の船は、しかし、その主である神の言葉通り、まるで子供の玩具のように、ただ静かにそこに浮かんでいた。

 

 その神の玩具の最初の乗組員として選ばれたのは、この国の叡智と勇気の結晶とも言うべき、選りすぐりのエリートたちだった。

 プロジェクト・プロメテウス科学者チームのリーダー、長谷川健吾教授。

 そのアメリカ側カウンターパートであり、日米共同研究の象徴でもあるエヴリン・リード博士。(彼女をこの歴史的な瞬間に立ち会わせることは、アメリカという最も厄介で、そして最も重要な同盟国に対する、日本からの最大限の誠意の証であった)

 そして、航空自衛隊のトップエースパイロットと、JAXAのベテラン宇宙飛行士。

 さらに、あの『絶対環境耐性シールド』をその身にまとうことを許された、五名の特殊作戦群の隊員たち。

 彼らは、固唾をのんで、その神の船のハッチが開かれるのを待っていた。

 

「…………すごいな」

 最初に船内へと足を踏み入れたJAXAのベテラン宇宙飛行士、星野が、その宇宙の深淵を何度も見てきたはずの瞳を、子供のように輝かせて呻いた。

「……無重力だ。……いや、違う。……重力はある。……だが、まるで水の底を歩いているかのように体が軽い……。……慣性制御システムが、完璧に機能しているというのか……!」

 船内は、外見からは想像もつかないほどに広大だった。

 それは、もはや船というよりも、一つの浮遊する都市だった。

 彼らが最初に通されたのは、巨大なアトリウムのような空間。天井はどこまでも高く、そこには本物の青空と雲が、完璧なリアリティで再現されていた。中央には、熱帯の植物が青々と茂る庭園と、透き通った水がせせらぐ小川まで設えられている。

「…………信じられない……」

 エヴリン・リードが、その怜悧な顔に、純粋な驚愕の色を浮かべて呟いた。

「……空間拡張技術……。……日本側の資料にあったのは、これのことなのね。……TARDISは、実在したんだわ……」

 そのイギリスの長寿SFドラマの固有名詞を、日本のクルーたちは理解できなかったが、彼女が感じている衝撃の大きさだけは、痛いほどに伝わってきた。

 

 彼らは船内を探索し、その度に新たな奇跡を目の当たりにした。

 個室として割り当てられた区画は、それぞれが高級ホテルのスイートルームのように広大で、そして豪華だった。そして、その中央には、信じられないことに、南国のリゾートを思わせるようなプライベートプールまで完備されていた。

「…………プール付きの宇宙船……?」

 自衛隊のパイロットが、完全に思考を停止させて呟いた。

「……ビューティーふぉー……! ビューティーふぉー!」

 長谷川教授は、もはやそれしか言えなかった。

 そして、壁のパネルに触れると部屋の様相が一変する、超性能まで付いていた。

『――ルーム設定を変更します』という穏やかな合成音声と共に、それまでのモダンな洋風の内装が、一瞬にして静謐な数寄屋造りの和室へと変わる。障子の向こうには枯山水の庭園が広がり、鹿おどしが心地よい音を立てていた。

「…………これは、もう何が何だか……」

 星野は、頭を抱えた。

 この船は、もはやただの乗り物ではない。

 それは、持ち主のあらゆる欲望を叶える魔法のランプ、そのものだった。

 

 やがて、彼らは船の心臓部、ブリッジへとたどり着いた。

 そこは、彼らが想像していたような、無数の計器盤やモニターが並ぶ雑然とした場所ではなかった。

 広大な静寂に満ちたドーム状の空間。その中央に、ただ一つ、黒曜石を削り出して作られたかのような、美しいコマンド・チェアが置かれているだけ。

 その椅子に、星野が恐る恐る腰を下ろした、その瞬間。彼の脳内に、直接、穏やかな女性の声が響き渡った。

『――キャプテンの生体情報を認証。……ようこそ、宇宙船『やまと』へ。……私は、当船舶の航行支援AIです。……行き先を、どうぞ』

「…………思念式……!」

 星野は、戦慄した。

「……本当に、考えるだけで飛ぶというのか……!」

 

 官邸の地下司令室で、その一部始終をモニター越しに見守っていた宰善総理が、マイクに向かって重々しく命じた。

「…………星野君。……聞こえるかね」

「はっ! 総理!」

「……うむ。……では、これより『やまと』の処女航海を開始する。……目標は一つ。……我々の、最も身近な隣人だ。……目標、月」

「…………御意!」

 

 星野は、深く息を吸い込んだ。そして、その脳裏に、人類が太古の昔から見上げ続けてきた、あの白銀の星の姿を、強く、強くイメージした。

(――目標、月へ!)

 次の瞬間。

 ブリッジの巨大なビュー・スクリーンに映し出されていた横須賀のドックの風景が、何の音もなく、何の振動もなく、まるでテレビのチャンネルを変えたかのように、一瞬にして漆黒の宇宙空間へと切り替わった。

 そして、その漆黒のキャンバスのど真ん中に。あまりにも巨大な、そしてあまりにも美しい灰色の大地が、猛烈な速度で迫ってくる。

 そして、十五秒後。船は、月の静止軌道上に、完璧な静寂の中、ぴたりと静止した。

 ビュー・スクリーンの向こう側には、クレーターに覆われた荒涼とした大地と、そしてその地平線の向こうからゆっくりと昇ってくる、涙が出るほどに美しい青い故郷の星の姿があった。

 ブリッジは、しばし、深い、深い沈黙に包まれた。

 誰もが、そのあまりにも神々しい光景に、言葉を失っていた。

 やがて、その沈黙を破ったのは、星野の震える、しかし心の底からの歓喜に満ちた叫び声だった。

 

「…………わーお! ……月ですよ、月! ……俺たちは今、月に来てるんだ!」

 

 そのあまりにも子供じみた、しかし誰もの心を代弁する一言。

 ブリッジは、爆発したような歓声と、そして感動の嗚咽に包まれた。

 彼らは、やったのだ。

 人類の新たな大航海時代の、その最初の、そして最も偉大な一歩を、今この瞬間に記したのだ。

 

 その後の月面での活動は、もはやピクニックのようだった。

『絶対環境耐性シールド』を身につけた五名の特殊作戦群の隊員たちは、分厚い宇宙服などという無粋なものとは無縁だった。

 彼らは、いつもの迷彩服のまま、船のハッチから月面へと降り立った。

「うわーい!」

 一人の若い隊員が、歓声を上げた。

 六分の一の重力に、彼の体は、まるで羽根のように軽やかに舞い上がる。

 彼らは、童心に返った子供のように、その灰色の広大な大地を跳ね回り、そして互いに記念写真を撮り合った。

「おい、見てくれよ! 地球をバックに敬礼だ!」

「こっちも頼む! アポロの足跡の隣で、ダブルピース!」

 そのあまりにも平和で、そしてどこまでも呑気な光景を、世界の誰も知らなかった。

 彼らは、ひとしきりはしゃいだ後、ようやく本来の任務を思い出した。

「……よし! ……サンプル、採取しましょう!」

 彼らは、月の石(レゴリス)を、まるで浜辺で貝殻でも拾うかのように、ビニール袋へと無造作に詰め込んでいく。

 そのあまりにも貴重なはずの宇宙からの土産物が、彼らにとっては、ただの記念品程度の価値しか持っていなかった。

 

 ◇

 

 数時間後。

 官邸の地下深く、危機管理センター。

 歴史的な処女航海を終え、無事に帰還したクルーたちからの報告会が、厳粛な雰囲気の中で行われていた。

「――えー、ということで。……賢者・猫様から賜りました宇宙船『やまと』の処女航海は、完璧な成功裏に完了いたしました」

 星野船長が、その興奮冷めやらぬ様子で報告を締めくくった。

「……して、総理。……次なる目標は、いかがいたしましょうか。……火星ですかな? ……あるいは、木星の衛星エウロパに生命の痕跡を探しに行くというのも、ロマンがありますな」

 そのあまりにも壮大な提案に、司令室の閣僚たちの間から、微かな、しかし確かな熱狂のどよめきが起こる。

 だが、その熱に浮かされたような空気を、宰善総理の静かな一言が制した。

「…………まあ、待て、星野君。……その前に、我々が片付けねばならぬ、もっと厄介な問題がある」

 彼は、円卓を見渡した。

「…………えー、その前に、これを公開するかですが……」

 そのあまりにも重い問いかけ。

 司令室は、再び水を打ったように静まり返った。

「……この『やまと』の存在を公表すれば、もはや言い逃れはできん」

 綾小路官房長官が、その蛇のような目で言った。

「……世間を席巻する『ホシミコ=宇宙人説』は、もはやただの説ではなく、我々政府が公式に認めた『事実』となる。……そうなれば、我が国の立場は、そして世界との関係は、どうなりますかな? ……皆様、どうお考えか?」

 

 その問いに、外務大臣の古賀が、苦渋に満ちた表情で口を開いた。

「……どちらにせよ、もはや隠し通せるものではありません。……いつかはバレる。……ならば、いっそ我々の側から、最も有利な形で公表すべきです。……特に、アメリカには事前に通達しておく必要があるでしょう。……彼らを無視すれば、今度こそ同盟関係に修復不可能な亀裂が……」

「ふん、何を今更」

 防衛大臣の岩城が、吐き捨てるように言った。

「……奴らとて、一枚岩ではない。……我々のサイトアスカで共同研究を行っている科学者どもは、この奇跡を前にして、もはや国籍など忘れかけておるわい。……むしろ、この圧倒的な技術力を見せつければ、彼らは戦意を喪失し、我々にひれ伏すのではないのかね?」

 

 その堂々巡りになりかけた議論。

 だが、その空気は意外なほどに楽観的だった。

 なぜなら、彼らの心の中には、もはや当初のような恐怖はなかったからだ。

 彼らは、この二年という歳月をかけ、神の気まれという名の不条理に、完全に慣れてしまっていたのだ。

「…………うーん」

 長谷川教授が、どこか楽しげに言った。

「……今更だからなあ。……我々は、もう何度も世界の常識をひっくり返してきたではありませんか。……もう一つくらい、常識が増えたところで、大した違いはありますまい」

「……ええ」

 橘紗英も、静かに頷いた。

「……それに、この宇宙船の動作原理は、我々にも全くの不明です。……ブラックボックス、そのもの。……コピーは、現状では絶対に不可能でしょう。……ならば、その存在を公表したところで、我が国の技術的優位性が即座に失われるという問題は、ないかと」

「……それに」と、JAXAの代表者が付け加えた。

「……宇宙を旅するという人類共通の夢が、叶うのです。……この船を、我が国の、いえ人類の宇宙開発の新たな象徴として、ぜひJAXAで研究させていただきたい! ……これ以上の名誉は、ございません!」

 

 そうだ。

 彼らは、もはや恐れてはいなかった。

 彼らは、この新たな、そして最も巨大な神の玩具を、どうやって遊びこなすかという未来への希望に満ち溢れていた。

 宰善総理は、その閣僚たちの顔を、一人一人、満足げに見渡した。

 そして、彼は立ち上がった。

 その顔には、この国の指導者としての、そしてこの壮大な茶番劇の最高の演出家としての、老獪な、そしてどこまでも楽しげな笑みが浮かんでいた。

「…………決まりですな」

 彼は、言った。

「……アメリカには事前に通達し、この新たな冒険の『共同主催者』としての栄誉を、与えてやろう。……もちろん、操縦桿を握るのは我々だがな」

 彼は、カメラの向こうにいる世界中の人々に向かって、語りかけるように続けた。

「……そして、世界に公表する。……我々が、星々の海への扉を開いたのだと。……まあ、どうせ我々が何を言っても、世界は勝手に物語を作り上げてくれる。……ならば、その物語を、せいぜい楽しませてもらおうではないか」

 彼は、最後に、悪戯っぽく肩をすくめてみせた。

 

「…………まあ、『宇宙船です、テヘペロ』なんて言ったら、さすがにキレられそうですが。……今更ですしな」

 

 そのあまりにも無責任で、そしてどこまでも確信に満ちた一言。

 司令室は、爆発したような笑い声に包まれた。

 彼らの神との壮大で、そしてどこまでも滑稽な化かし合いは。今や、地球という矮小な舞台を飛び越え、星々の海という無限のフロンティアへと、その駒を進めようとしていた。

 そのあまりにも壮大で、そしてどこまでもぐうたらな神の不在の間に。神の玩具を手にした子供たちは、自らの手で、新たな、そして最も面白い遊びのルールを、創造し始めていたのである。

 

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