異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語   作:パラレル・ゲーマー

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第122話

 神は、不在だった。

 そして神の不在の間に、人間は自らの手で神話の続きを紡ぎ、そして新たな怪物を育て上げていた。

 那古野城の空気は、あの祝言の夜を境に、静かに、しかし確実にその質を変えていた。

 これまで、若き主君・織田信長を取り巻いていたのは、家臣たちの侮りと困惑と、そしてほんの少しの恐怖だった。だが、今は違う。

 そこに渦巻いていたのは、絶対的な、そしてどこか狂信的なまでの畏敬と、そして自分たちが歴史の目撃者となっているという熱狂的な高揚感だった。

 その変化の中心にいたのは、もちろん、美濃から嫁いできた一人の姫君、斎藤帰蝶だった。

 彼女は、もはやただの美しいだけの飾り人形ではなかった。

 彼女は、魔王の隣に立つことを許された、唯一無二の魔女。

 そして、その魂に未来の断片を映し出す、神聖なる巫女であった。

 

 祝言の翌朝、信長は家中の重臣たちを大広間に集め、一つのあまりにも奇妙な、しかし絶対的な命令を下した。

「――皆、聞け。……これより、我が妻、帰蝶の言葉は、この信長の言葉と同義と心得よ。……彼女が『白』と言えば、たとえそれが漆黒の闇であろうとも、それは『白』である。……彼女が『未来』を語れば、それは必ず訪れる『現実』であると知れ。……もし、この決定に異を唱える者がおれば、その場で手討ちにする」

 そのあまりにも唐突な、そしてどこまでも独裁的な宣言。

 だが、その場の誰一人として、異を唱える者はいなかった。

 彼らは、皆知っていた。

 この若き魔王が、決して戯れでこのようなことを言う男ではないということを。

 そして、彼らは見てしまったのだ。

 この姫君が嫁いできた、ただその一夜だけで、自分たちの主君の、あの常に孤独な氷のようだった瞳の奥に、初めて人間らしい、そしてどこまでも楽しげな光が宿ったのを。

 帰蝶の存在は、信長という計り知れない器を、ついに完成させるための最後のピースだったのだ。

 

 こうして、歴史上最も奇妙で、そして最も強力なパワーカップルは誕生した。

 彼らの最初の共同作業は、戦でもなければ、政でもなかった。

 それは、台所から始まった。

「…………殿」

 帰蝶は、那古野城の広大な、しかしどこか殺風景な厨房に立ち、その美しい眉をひそめていた。

「……これは、一体……?」

 彼女の目の前には、下働きの者たちが慌てて用意した信長の朝餉が並べられていた。

 麦の飯、鰯の塩焼き、そして大根の味噌汁。

 戦国の世の武将の食事としては、決して質素なものではない。

 だが、帰蝶の目には、それが信じられないほどに貧しく、そして物悲しいものに映っていた。

「…………あの神の如き力をお持ちの殿が……毎日、このようなものを……?」

 そのあまりにも純粋な、そしてどこか侮蔑の色さえ含んだ問い。

 信長は、その隣で不機嫌そうな顔をしていたが、ぐうの音も出なかった。

 事実だったからだ。

 彼は、賢者がもたらした奇跡の数々――神の米、ポーション、そしてスキルジェム――を、あくまで国の力、軍の力としてしか捉えていなかった。

 それを、自らの日常生活を豊かにするために使うという発想そのものが、彼には欠如していたのだ。

 彼は、戦うために生きる男だった。

 食事とは、ただ生きるために、戦うために、腹を満たすための作業に過ぎなかった。

 

「…………帰蝶よ」

 彼は、少しだけ気まずそうに言った。

「……ワシは、食には疎くてな。……美味いか、不味いか、それくらいしか分からぬ」

「…………お察しいたします」

 帰蝶は、深い、深いため息をついた。

 そして彼女は、決意した。

 この哀れな魔王の、そのあまりにも貧しい食生活を、自らの手で革命することを。

 それは、彼女がこの城に来て最初に成すべき、最も重要で、そして最も楽しい「内助の功」だった。

 彼女は、厨房にいた全ての料理人たちを下がらせた。

 そして、信長にだけ聞こえるように、その唇に悪戯っぽい笑みを浮かべて囁いた。

「…………殿。……これより、この帰蝶が、殿のためだけに、本当の『奇跡』をお見せいたしますわ」

 

 彼女は、信長を伴い、城の食料庫へと向かった。

 そこには、賢者が置いていったあの神の置き土産が、まだ手付かずのまま山と積まれていた。

 むせ返るような香りを放つ、未知のスパイスの袋。

 宝石のように輝く、純白の砂糖の塊。

 そして、美しいガラス瓶に詰められた琥珀色の液体。

 帰蝶は、それらを前にして、その瞳をキラキラと輝かせた。

 彼女の脳裏には、父・道三が美濃で密かに集めさせていた南蛮渡来の書物に記されていた、未知の料理のレシピが次々と蘇っていた。

 彼女は、料理人たちに的確な、しかしあまりにも常識外れな指示を飛ばし始めた。

「……そこの鶏肉を、この葡萄酒とやらに一晩漬け込みなさい。……そして、この黒い粒(胡椒)と、この赤い粉(パプリカ)をたっぷりとまぶし、弱火でじっくりと焼き上げるのです」

「……この白い粉(小麦粉)と、あの甘い石(砂糖)を、卵と混ぜ合わせなさい。……そして、この茶色く、甘く、そして僅かに苦い不思議な豆(カカオ)を溶かし込んだものを、加えるのです」

 厨房は、大混乱に陥った。

 料理人たちは、そのあまりにも奇想天外な姫君の指示に戸惑い、そして最初は反発した。

 だが、彼らは見てしまったのだ。

 自分たちの主君であるあの第六天魔王が、その姫君の隣で、まるで初めて料理を教わる子供のように目を輝かせながら、その手伝いをしている姿を。

 そして、厨房に満ち始めた、これまで誰も経験したことのない、甘く、香ばしく、そしてどこまでも幸福な香りを。

 彼らの料理人としてのプライドは、その絶対的な「美味さ」の予感の前に、完全に粉砕された。

 

 その日の昼餉、信長の膳の上に並べられたのは、もはや戦国の食事ではなかった。

 それは、未来の世界の、あるいは異世界の王侯貴族だけが知る、美食の饗宴だった。

 黄金色に焼き上げられた、ハーブとスパイスの香りを纏った若鶏のロースト。

 口に入れた瞬間、とろけるように甘い漆黒の焼き菓子(チョコレートケーキ)。

 そして、氷室から取り出されたばかりの氷で冷やされた、甘酸っぱい果実水(フルーツジュース)。

 信長は、その一口目を口に運んだ。

 そして彼は、絶句した。

「…………………………………………」

 美味い。

 そんな陳腐な言葉では、到底表現できない。

 彼の、戦と謀略だけで構成されていた無味乾燥な世界が、その瞬間、極彩色の味覚の奔流によって、完全に塗り替えられていった。

 彼は、生まれて初めて知った。

 食という行為が、ただ腹を満たすための作業ではなく、人の魂をこれほどまでに震わせ、そして幸福にするものであるという事実を。

 彼は、夢中になった。

 子供のように、その奇跡の料理を次々とその口へと運んでいった。

 そして、全てを食べ終えた時、彼は満ち足りた表情で、深く、深く息を吐き出した。

 そして彼は、自らの妻となった魔女に向かって、心の底からの、そして最大の賛辞を送った。

 その声は、もはや魔王のものではなかった。

 ただ、最高の幸福を知った一人の男のそれだった。

 

「…………帰蝶よ」

 彼は、言った。

「……ワシは、間違っておった。……天下布武など、どうでもよいわ」

「…………殿?」

「……これからは、毎日これを作ってくれ」

 

 そのあまりにも純粋で、そしてどこまでも子供じみた願い。

 帰蝶は、その顔に最高の、そしてどこまでも満足げな笑みを浮かべて、静かに頷いた。

「…………御意にございまする」

 その日を境に、織田信長の人生は変わった。

 いや、彼の中に眠っていたもう一つの、そして最も人間的な才能が、開花したのだ。

 彼は、戦と同じくらい、いや、それ以上に、食という名の新たなフロンティアに夢中になった。

 彼は、帰蝶と共に厨房に立ち、新たな料理の開発に、その天才的な頭脳を費やした。

 賢者が置いていったスパイスと、魔石が生み出す無限の食材。

 その二つの奇跡を組み合わせ、彼らは次々と、この時代の人間が想像さえし得なかった新たな美食を生み出していった。

『信長プリン』、『魔王カレー』、『天下布武ラーメン』。

 その奇想天外な、しかし一度食べれば誰もがその虜となる魔性の料理の噂は、瞬く間に城下に広まっていった。

 そして、信長はその料理を独占しなかった。

 彼は、それを自らの家臣たちに振る舞い、そして時には城下の民にさえも分け与えた。

 その行為は、彼の家臣団の結束を、そして民からの信望を、これまでにないほどに強固なものとした。

 人々は、もはや彼をただの恐ろしい魔王として見てはいなかった。

 彼らは、自分たちに腹一杯の幸福を与えてくれる、気まぐれで、しかし誰よりも優しい愛すべき暴君として、彼を心から慕うようになっていた。

 

 そして、その食文化革命は、思わぬ形で、賢者から与えられたあの厄介な「宿題」を解決する、最高の切り札となる。

 数ヶ月後、堺の豪商、武野紹鷗を招いた茶会でのこと。

 信長は、紹鷗が誇る国宝級の茶器で点てられた茶を、静かに味わった。

 そして彼は、言った。

「……うむ。……見事な茶器、そして見事な茶よ。……だが、紹鷗殿。……この茶には、一つだけ足りぬものがある」

 彼は、懐から一つの小さな菓子を取り出した。

 それは、帰蝶が砂糖と卵白だけで作り上げた、雪のように白く、そして雲のように軽い焼き菓子(メレンゲクッキー)だった。

「……これを、共に味わってみられよ」

 紹鷗は、いぶかしげにその白い塊を口に運んだ。

 次の瞬間、彼の茶人としての六十年の人生の全てが、完全に覆された。

 口に入れた瞬間、しゅわりと溶けて消える儚い食感。

 そして、その後に広がる、純粋で、洗練され、そして茶の持つ深い苦味と渋みを、これ以上ないほどに完璧に引き立てる天上の甘さ。

「………………なっ……!?」

 彼は、絶句した。

「…………こ、この菓子は……! こ、この茶の味をここまで高める菓子が、この世に存在したとは……!」

 その日、武野紹鷗は、自らが所有する全ての国宝級の茶器を、ただその菓子のレシピと交換で、喜んで信長に差し出したという。

 

 尾張の国の、そして日ノ本の本当の変革は、戦場からではなかった。

 それは、一つの厨房から、静かに、しかし確実に始まっていた。

 神の不在の間に、人間は自らの手で、最も身近で、そして最も幸福な奇跡を創造し始めていたのだ。

 そのあまりにも温かく、そしてどこまでも美味しい革命の物語を、まだ神は知らない。

 

 

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