異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語 作:パラレル・ゲーマー
神は、不在だった。
そして神の不在の間に、人間は自らの手で神話の続きを紡ぎ、そして新たな怪物を育て上げていた。
那古野城の空気は、あの祝言の夜を境に、静かに、しかし確実にその質を変えていた。
織田信長と、斎藤帰蝶。
歴史上最も危険で、そして最も美しい夫婦の誕生。それは、この尾張という小さな国を、もはやただの戦国の版図の一角ではない、一つの異質な、そして圧倒的な輝きを放つ魔境へと変貌させていた。
信長は、もはや一人ではなかった。
彼の、そのあまりにも巨大すぎる野望と、そして神から与えられた底なしの孤独を、唯一理解し、そして共有できる伴侶を得たのだ。
帰蝶の、その未来を視る力は、信長の、その人間を超えた決断力と行動力を、完璧に補完した。
彼女が、その魂の囁きで未来の危険を予知すれば、信長は、その超人的な力で、その危険の芽を、それが現実となる前に、いとも容易く摘み取ってしまう。
彼女が、人の心の裏側にある嘘や裏切りを見抜けば、信長は、その冷徹な判断力で、裏切り者を情け容赦なく粛清する。
彼らは、二人で一つの完璧な怪物だった。
光と影。矛と盾。魔王と巫女。
その二つの魂が寄り添う時、彼らの前には、もはやいかなる障害も存在しなかった。
そして彼らは、まず自らの足元を、完璧な楽園へと作り変えることから始めた。
信長の人生を、そして魂を根底から変えた、あの『美食』という名の革命。
それは、もはや信長個人の楽しみではなかった。
彼は、帰蝶と共に厨房に立ち、賢者が置いていった未知の調味料と、魔石が生み出す無限の食材を組み合わせ、次々と、この時代の人間が想像さえし得なかった新たな美食を生み出していった。
そして、その奇跡の料理を、彼は独占しなかった。
彼は、それを自らの家臣たちに、そして時には城下の民にさえも、気前よく振る舞った。
その行為は、彼の家臣団の結束を、そして民からの信望を、これまでにないほどに強固なものとした。
人々は、もはや彼をただの恐ろしい魔王として見てはいなかった。
彼らは、自分たちに腹一杯の幸福を与えてくれる、気まぐれで、しかし誰よりも優しい愛すべき暴君として、彼を心から慕うようになっていた。
その評判は、風に乗って、瞬く間に日ノ本中を駆け巡った。
『――尾張に行けば、腹一杯、天上の飯が食える』
そのあまりにも単純で、そしてどこまでも根源的な噂は、いかなる外交戦略よりも、いかなる武力よりも強力な磁力となって、日ノ本中の才能ある、しかし腹を空かせた者たちを、那古野城の城門へと引き寄せ始めていた。
◇
その日もまた、那古野城の大広間では、壮大な宴が繰り広げられていた。
だが、その宴の主役は、織田家の家臣たちではなかった。
そこに集っていたのは、この国のありとあらゆる道の「達人」たちだった。
信長は、賢者から与えられたあのあまりにも厄介な「宿題」――茶器、能面、名刀の収集――を、彼らしい、あまりにも常識外れな方法で解決しようとしていた。
「…………欲しいものが売ってないのなら。……その持ち主を、自らこちらへ来させれば良いだけの話よ」
彼は、そう言って笑った。
そして、彼は布告を出した。
『――我こそは日ノ本一の茶人、数寄者、刀匠、あるいは舞の名手であると自負する者は、身分を問わず那古野城へ来たれ。……もし、その技がこの織田信長を満足させることができたならば、望むだけの褒美と、そしてこの織田家への仕官の道を約束する』と。
そのあまりにも傲慢な、しかしどこまでも魅力的な挑戦状。
それに、日ノ本中の自らの腕に自信を持つ者たちが、熱狂的に呼応した。
堺の豪商、武野紹鷗を筆頭とする茶人たち。
京の都でその伝統を守り続けてきた能楽の、観世座、金春座の役者たち。
備前、相州、山城から集まった伝説的な刀匠の一門たち。
彼らは皆、自らの技の真価を、そして自らの魂の価値を、この成り上がりの、しかし今や日の本で最も輝いている若き魔王に、問うためにやってきたのだ。
その日の宴は、能楽の競演会だった。
大広間の中央には、檜で作られた簡素な、しかし神聖な能舞台が設えられている。
その舞台の上で、観世座の人間国宝と謳われる老役者が、一つの舞を舞っていた。
演目は、『羽衣』。
天女が、その失われた羽衣を求めて舞う、幽玄の舞。
老役者の、その洗練され尽くした動き。摺り足の一つ、袖を翻す一つ一つの所作が、もはや人間のそれではない。
それは、一つの完成された祈りだった。
だが、信長は、その完璧な舞を、どこか退屈そうな目で眺めていた。
彼の隣で、帰蝶がその魂の囁きを、彼にだけ聞こえるように告げる。
「…………殿。……この者の舞は、確かに見事です。……ですが、その魂はあまりにも完成されすぎております。……もはや、そこに伸び代はない。……ただ、過去の栄光を完璧に再現しているだけの、美しい骸(むくろ)にございます」
「……うむ。……ワシも、そう思うておった」
信長は、頷いた。
「……美しい。……だが、心が躍らぬわ」
やがて、観世座の舞が終わり、次に舞台へと上がったのは、大和猿楽四座の一つ、金春座のまだ若き役者だった。
彼は、一つの古びた、しかし異様なまでのオーラを放つ能面を、その顔につけていた。
その面は、嫉妬に狂う女の凄絶な情念を写し取った、『般若』。
帰蝶の、その美しい顔が、わずかに引きつった。
「…………殿。……あの面……」
「……どうした、帰蝶」
「…………視えます。……あの面には、魂が宿っております。……それも、一つや二つではない。……この数百年、この面をつけ、この舞を舞ってきた数多の役者たちの、喜び、悲しみ、そして狂気が、怨念のように渦巻いて……!」
その彼女の言葉を、証明するかのように、若い役者の舞が始まった瞬間、大広間の空気が一変した。
彼の舞は、観世座の老役者のそれのように、完璧ではなかった。
むしろ、荒々しく、未熟で、そしてどこまでも危険な光に満ちていた。
だが、そこには魂があった。
彼は、もはやただの役者ではない。
彼は、その面に宿る数多の怨念にその身を乗っ取られた、本物の鬼女そのものだった。
そのあまりにも凄絶な、そしてどこまでも魂を揺さぶる舞。
それに、信長は初めてその瞳をギラリと輝かせた。
「…………面白い……! ……面白いではないか!」
彼は、その身を乗り出していた。
「……これだ! ……これこそが、ワシが見たかったものよ!」
舞が、終わる。
若い役者は、その場に崩れ落ち、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返していた。
彼の魂は、完全に燃え尽きていた。
大広間は、静まり返っていた。
誰もが、そのあまりにも濃密な神々の戯れに、魂を奪われていた。
その静寂を破ったのは、信長の高らかな笑い声だった。
「――見事であったぞ、小僧! ……その舞、この信長の魂に、確かに届いたわ!」
彼は、立ち上がった。
そして、その若い役者の前に歩み寄ると、その肩を力強く叩いた。
「……褒美をくれてやる。……望むものを、申してみよ」
「…………は……。……ははっ……!」
若い役者は、その震える声で答えた。
「…………もったいなきお言葉……! ……ならば、この私めに、織田家への仕官の栄誉を……!」
「うむ、許す!」
信長は、頷いた。
「……そして、もう一つじゃ」
彼は、その若い役者の顔から、あの禍々しい『般若』の面を、そっと外した。
そして彼は、言った。
その声は、魔王のそれだった。
「…………この面も、この信長が貰い受ける」
そのあまりにも横暴な、そしてどこまでも理不尽な宣言。
若い役者は、絶句した。
「そ、それは……! ……それは、我が金春座が、五百年にわたって受け継いできた至宝にございます……! ……それだけは、どうか……!」
その必死の嘆願。
だが、信長はその言葉を、冷たく、そして無慈悲に一蹴した。
「……ならば、問う。……その至宝は、お主たちの蔵の奥で、年に数度その埃を払われるだけの運命と。……このワシの手によって、いずれ帝の御前で、そして日ノ本中の民の前で、その真の輝きを放つ運命と。……どちらが、幸せであると思う?」
「………………」
「……この面は、泣いておるぞ」
信長は、その般若の面を、どこか愛おしそうに撫でた。
「……もっと舞いたいと。……もっと、多くの魂を震わせたいと。……ワシには、その声が聞こえる」
そのあまりにも詩的で、そしてどこまでも傲慢な、しかし否定しようのない説得力。
若い役者は、もはや何も言うことができなかった。
彼は、その場に深々とひれ伏し、ただ嗚咽を漏らすだけだった。
こうして、信長は、その日の宴だけで、十を超える国宝級の能面を、そのコレクションへと加えた。
ある時は、莫大な黄金で。
またある時は、その悪魔の如き弁舌で。
そして時には、その神の如き武力をちらつかせることで。
彼は、日ノ本中の文化遺産を、まるで熟した果実でももぎ取るかのように、次々とその手中に収めていった。
賢者への、二つ目の宿題。
それは、あまりにも速やかに、そしてあまりにも鮮やかに、達成されようとしていた。
◇
その夜、再び祝言の夜と同じ、あの離れの一室。
信長と帰蝶は、その日手に入れたばかりの十数枚の能面を、月明かりの下で静かに並べていた。
翁、女、童子、そして鬼。
その一つ一つの面に宿る、数多の魂の記憶。
帰蝶は、その面にそっと手を触れ、その囁きに耳を澄ませていた。
「…………殿。……この『小面(こおもて)』は、悲しんでおりますわ。……南北朝の動乱で、愛する人を失った姫君の魂が……」
「…………ほう」
「…………そして、こちらの『痩男(やせおとこ)』。……これは、飢饉で我が子を亡くした父親の怨念……」
彼女は、その巫女の力で、面の奥に封じられた物語を、一つ、また一つと読み解いていく。
信長は、その隣で、ただ黙ってその声に耳を傾けていた。
彼は、もはやただの武将ではなかった。
彼は、この国の忘れ去られた魂の叫びを聞き届ける、唯一無二の王となりつつあった。
やがて、帰蝶が最後の一枚の面を手に取った。
それは、あの若い役者が舞った『般若』の面だった。
彼女が、その面に触れた、その瞬間、彼女の、その美しい顔が、さっと青ざめた。
「…………帰蝶?」
「…………殿。……この面は、違う。……他の面とは、格が違います……」
彼女の声は、震えていた。
「…………この面から聞こえてくるのは、人の子の小さな悲しみなどではありませぬ。……もっと古く、もっと巨大な……」
彼女は、その般若の嫉嫉に歪んだ口元を、震える指でなぞった。
「…………これは、神々の嫉妬……」
そのあまりにも不吉な、そしてどこまでも神話的な言葉。
それに、信長の、その魔王の如き瞳が、初めて純粋な好奇心の色にきらめいた。
「…………面白い。……面白いではないか、帰蝶」
彼は、その般若の面を、彼女の手からそっと取り上げた。
そして彼は、言った。
その声は、これから始まる新たな、そしてより危険な遊びの始まりを告げる合図だった。
「…………その神々の嫉嫉とやらも、この信長が、一度舞ってみせようぞ」