異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語   作:パラレル・ゲーマー

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第139話

 神は、不在だった。

 そして神の不在の間に、人間は自らの手で神話の続きを紡ぎ、そして新たな怪物を育て上げていた。

 那古野城の夜は、もはやただの夜ではなかった。それは、一つの巨大な、そしてどこまでも異質な祝祭の始まりを告げる、静かで、しかし熱狂的な前夜祭と化していた。

 信長が、その天才的な発想と、賢者がもたらした未知の食材を駆使して始めた『美食革命』。それは、彼の予想を遥かに超える形で、この尾張という国を、そして日ノ本の文化そのものを、内側から作り変えようとしていた。

 賢者からの、あのあまりにも厄介な三つの宿題。

 その一つ目、『国一番の茶器十揃え』は、信長の悪魔的な機転によって、既にそのほとんどが那古野城の蔵へと納められていた。堺の豪商も、京の公家も、彼の作り出す奇跡の菓子と、その背後にある神の如き力の前に、喜んで(あるいは恐怖に駆られて)その至宝を差し出した。

 そして今、彼は二つ目の宿題に取り掛かろうとしていた。

『観阿弥・世阿弥の時代の能面』。

 

 その夜、那古野城の大広間は、これまでにないほどの荘厳な、そしてどこか妖しいほどの緊張感に包まれていた。

 中央には、この日のために設えられた檜造りの能舞台。その周囲には、信長が日ノ本中から招集した、観世、金春、宝生、金剛といった大和猿楽四座の名だたる役者たちが、固唾をのんで成り行きを見守っている。

 そして、その舞台の上。

 信長は、ただ一人、静かに立っていた。

 その身にまとっているのは、いつもの『不死鳥の羽衣』ではない。

 漆黒の、しかしその生地には銀糸で龍の刺繍が施された、荘厳な舞衣装。

 そして、その顔には、一つの古びた、しかし異様なまでのオーラを放つ能面が、つけられようとしていた。

 嫉妬に狂う女の凄絶な情念を写し取った、『般若』。

 先日、金春座との競演の末に、信長が半ば強引に「譲り受けた」あの曰く付きの至宝だった。

 

「…………殿」

 舞台の脇、几帳の陰から、帰蝶がそのか細い、しかし芯の通った声で囁いた。

「……おやめください。……その面は、危険すぎます。……あれは、もはやただの面ではございません。……数多の魂を喰らい、それ自体が意志を持つ、生きた呪詛にございます……!」

 彼女の、その未来を視る瞳には、この先に待ち受けるであろう、あまりにもおぞましい光景が、朧げながらに映っていた。

 だが、信長はその忠告を、不遜な笑みで一蹴した。

「……面白い。……面白いではないか、帰蝶よ」

 彼は、その般若の面をどこか愛おしそうに撫でた。

「……人の子の矮小な怨念ごときに、この信長が喰われるとでも思うか? ……むしろ、逆じゃ。……このワシが、その面に宿る神々の嫉嫉とやらも、喰らってくれるわ!」

 彼は、そう言うと、何の躊躇もなくその般若の面を自らの顔へと装着した。

 その瞬間だった。

 大広間の全ての燭台の炎が、一斉に、まるで生命を失ったかのように、ふっと消え失せた。

 後に残されたのは、窓から差し込む月明かりと、そしてその月光を浴びて舞台の中央に佇む、一体の鬼女の禍々しいシルエットだけだった。

 

「…………ひっ……!」

 広間の隅にいた若い侍女が、小さな悲鳴を上げた。

 信長の舞が、始まった。

 だが、それはもはや人間の舞ではなかった。

 彼の、その神の力を宿した肉体。それが、般若の面に宿る数多の怨念と、神々の嫉妬とやらいう巨大な負のエネルギーと共鳴し、一つの完璧な、そしてどこまでも冒涜的な芸術へと昇華されていた。

 その摺り足の一つ一つが空間そのものを歪ませ、その袖を翻す動きの一つ一つが、見る者の魂を直接削り取るかのような鋭利な刃と化している。

 彼は、もはや織田信長ではない。

 彼は、嫉妬に狂い、愛する男を喰らうためにこの世へと舞い戻ってきた、本物の鬼女そのものだった。

 

 そのあまりにも凄絶な、そしてどこまでも魂を揺さぶる舞。

 それを、帰蝶は、その巫女の力をもって、ただ一人、その本当の姿で「観測」していた。

 彼女の目に映っていたのは、もはやただの能舞台ではなかった。

 それは、信長の魂の、その最も深い場所にある心象風景。

 漆黒の闇と、紅蓮の炎だけが渦巻く、混沌とした精神の戦場。

 その中心で、黒い鎧をまとった信長の魂が、一体の、あまりにも巨大な「何か」と対峙していた。

 それは、形を持たなかった。

 ただ、嫉妬と、憎悪と、そして満たされぬ渇望だけが凝縮して固まったかのような、不定形の、しかし宇宙的なまでの質量を持つ巨大な感情の塊。

 それが、あの般若の面の正体だった。

『――よこせ』

 その感情の塊が、声にならない声で、信長の魂に直接囁きかける。

『――その力、その野望、その未来、その全てを我に寄越せ。さすれば、我は、お前に永遠の安らぎを与えてやろう……』

 それは、あまりにも甘美な、そしてどこまでも抗いがたい死への誘惑だった。

 信長の魂が、その巨大な負の引力に引きずり込まれそうになる。

 帰蝶は、思わず叫びそうになった。

 だが、次の瞬間、彼女は信じられない光景を目撃した。

 絶体絶命の窮地に立たされているはずの信長の魂が、その魔王の如き貌に、深い、深い、そしてどこまでも楽しげな笑みを浮かべたのだ。

 

「――くくく。……面白い。……面白いことを言う」

 信長の魂が、答えた。

「……安らぎじゃと? ……そのような退屈なもの、この信長が求めると思うか?」

 彼は、その黒い鎧のまま、腕を組んだ。

「……良いか、名もなき怨念どもよ。……お主たちの、その矮小な嫉妬や憎悪。……それも、悪くはない。……だがな」

 彼は、言った。

 その声は、この宇宙の全ての混沌をその掌の上で転がす、絶対的な王者のそれだった。

「…………この織田信長の野望に比べれば。……お主たちのその感情は、あまりにも、あまりにもちっぽけすぎるわ!」

 彼は、その手を、その感情の塊へと差し伸べた。

 そして彼は、叫んだ。

「――ならば、その力、この信長が喰らってくれるわ! ……お主たちの、その満たされぬ渇望も、嫉妬も、憎悪も、その全てを、この信長の天下布武のための薪(まき)としてくれる!」

 そのあまりにも傲慢な、そしてどこまでも神の如き宣言。

 感情の塊が、一瞬だけ怯んだように揺らめいた。

 そして、次の瞬間、信長の魂が、その黒い鎧から、絶対的な、そしてどこまでも暴力的なまでの覇気を解き放った。

 その覇気は、巨大な渦となり、その感情の塊を、まるで嵐が塵芥を飲み込むかのように、一瞬にしてその魂の奥深くへと完全に吸収してしまった。

 

「………………」

 帰蝶は、言葉を失っていた。

 彼は、怨念と戦ったのではない。

 彼は、怨念そのものを、自らの力の一部として、完全に支配してしまったのだ。

 そのあまりにも魔王的な、そしてどこまでも常識を超えた魂の在り方。

 彼女は、改めて自らが愛した男の、その底知れない器の大きさに、ただ戦慄するしかなかった。

 

 ◇

 

 大広間で、信長の舞が終わった。

 彼は、その顔から『般若』の面をゆっくりと外した。

 彼の顔には、疲労の色はなかった。

 代わりにそこにあったのは、一つの巨大な「何か」を喰らい尽くした獣のような、深い、深い満足感と、そして新たな叡智を手に入れた賢者の、静かな輝きだった。

 彼は、その般若の面をどこか愛おしそうに見つめた。

 そして帰蝶に向き直ると、静かに、しかしその瞳の奥に狂気じみた光を宿して言った。

「…………帰蝶よ」

「…………は、はい」

「…………この面は、ワシに教えてくれたわ。…………鉄の魂の声をな」

「…………鉄の魂……?」

「うむ。……嫉妬の炎が、いかにして鉄を溶かし、憎悪の槌が、いかにしてそれを鍛え上げ、そして満たされぬ渇望が、いかにしてその刃に魂を宿すのかを。……この面は、その全てをワシに語ってくれた」

 彼は、その般若の面を、帰蝶へと手渡した。

 そして彼は、言った。

 その声は、新たな、そしてより危険な遊びの始まりを告げる合図だった。

「…………賢者殿への三つ目の宿題。……『最高の刀匠が打った刀を百振り』。……あれは、もはや不要じゃ」

「…………殿?」

「…………ワシが、自ら打つ」

 

 そのあまりにも突拍子もない、そしてどこまでも傲慢な宣言。

 帰蝶は、一瞬、言葉を失った。

 だが、彼女はすぐに、その言葉の本当の意味を理解した。

 彼は、ただ刀を打つのではない。

 彼は、この国に新たな神話を創造しようとしているのだ。

 魔王が、自らその手で鍛え上げる魔剣の神話を。

 その翌日から、那古野城の城下町の一角に、一つの巨大な、そしてどこまでも異様な鍛冶工房が建設され始めた。

 信長は、日ノ本中から最高の刀匠と、最高の鉄を集めさせた。

 だが、彼は彼らに、ただ刀を打たせることはしなかった。

 彼は、自らその鍛冶場の中心に立ち、その巨大な槌を、その神の如き腕力で振るい始めたのだ。

 彼の額には、汗が光る。

 その瞳は、もはやただの覇王ではない。

 一つの完璧な芸術品をこの世に生み出そうとする、狂信的な芸術家のそれだった。

 彼は、魔石の力で、炉の温度を、人間の技では到底到達できぬほどの高温へと引き上げる。

 彼は、賢者がもてあそんでいた未来の技術の断片を、その天才的な頭脳で応用し、新たな、そしてより強靭な鋼の合金を生み出す。

 そして彼は、あの般若の面との対話で得た鉄の魂の声を聴きながら、その鋼を、何度も、何度も折り返し鍛え上げていく。

 その光景は、もはやただの鍛冶ではなかった。

 一つの、神聖な儀式だった。

 そして、数日後、その神聖な儀式の果てに、最初の一振りが完成した。

 それは、刀だった。

 だが、それは彼らが知るいかなる刀とも違う。

 その刀身は、まるで夜の闇そのものを吸い込んだかのように、どこまでも深く、そして鈍い光を放っていた。だが、ひとたび月光を浴びれば、その刃文は、まるで天の川のように、無数の星々の輝きをその内に宿していた。

 そして、その刀からは、常に低い、しかし確かな唸り声のようなものが聞こえてくるかのようだった。

 それは、鉄が喜んでいる声だった。

 自らを最高の形でこの世に生み出してくれた魔王への、感謝と、そして忠誠の歌だった。

 

「…………見事じゃ」

 信長は、その完成した一振りを手に、満足げに呟いた。

「…………これこそが、ワシが創りたかったものよ」

 彼は、その刀に名を授けた。

「…………その名は、『天魔覆滅(てんまふくめつ)』」

 彼は、その魔剣を自らの腰へと差した。

 そして彼は、言った。

 その声は、この日ノ本の全ての旧い神々への、宣戦布告だった。

「…………さて。……あと九十九振りじゃな」

 彼の、あまりにも壮大で、そしてどこまでも美しい狂気の物語は、まだ始まったばかりだった。

 

 

 

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