異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語 作:パラレル・ゲーマー
東京都心上空、高度一万メートル。
成層圏にほど近いこの領域は、通常であれば、マイナス五十度を下回る極寒と、希薄な酸素が支配する死の世界である。
だが今、この空域は物理法則とは異なる、濃密で重苦しい「魔力」の嵐によって満たされていた。
紫色の雷雲が渦を巻き、大気そのものが悲鳴を上げている。
その嵐の中心に向かって、五つの小さな光点が音速を超える速度で上昇していた。
陸上自衛隊特殊作戦群『チーム・グリモワール』。
隊長の剣持一佐は、賢者・猫から一時的に付与された飛行魔法『天翔ける翼(ウィング・オブ・ヘルメス)』の推力に身を任せながら、必死に恐怖を理性の檻に押し込めていた。
彼らの視線の先には、絶望そのものが浮かんでいた。
神星龍(ディバイン・スター・ドラゴン)。
全長数キロメートル。
星々を散りばめたような半透明の巨体。
背中には銀河の渦を模した六枚の翼。
東京スカイツリーさえも爪楊枝に見えるほどの、圧倒的な質量とエネルギーの塊。
その二つの赤い瞳が、眼下の東京を見下ろしている。
その瞳に映っているのは、破壊の衝動か、それとも虚無か。
『……隊長。目標と接触します』
部下の震える声が、インカムから響く。
「……ああ。総員、武器は構えるなよ。
敵意を見せれば、その瞬間に蒸発するぞ。
……我々の任務は『対話』だ」
剣持は震える手で、耳元の『万能言語翻訳機(銀のイヤリング)』に触れた。
賢者様は言った。
「話せば分かる」と。
そして、「翻訳機があれば言葉は通じる」と。
その言葉だけが、人類に残された唯一の頼みの綱だった。
龍の目の前、数百メートルの距離まで接近する。
近くで見ると、その巨体はただの生物ではなかった。
鱗の一枚一枚が独立した恒星のように輝き、体内を流れるエネルギーの奔流が血管のように脈打っている。
そのプレッシャーだけで、心臓が破裂しそうだ。
剣持は腹の底から「思考」した。
翻訳機がそれを龍への概念言語へと変換し、直接、相手の魂へと叩き込む。
『――――ど、どうも!
日本政府代表の剣持です!
我々は貴方様を封印から解放した者たちです!』
そのあまりにも必死な、そして神に対する挨拶としてはあまりにも平凡な呼びかけ。
だが、その声は確かに届いた。
神星龍の巨大な瞳が、ゆっくりと動き、空中に浮かぶ五人の人間を捉えたのだ。
その瞬間、剣持たちの脳内に直接、雷鳴のような重厚な声が響き渡った。
『……………………ほう』
その一言だけで、周囲の大気が震えた。
『……蟻かと思ったが……魔力を纏った人間か。
……封印を解いたのは貴様らか』
通じた。
龍の声には、鑑定結果にあった「発狂」の色は薄い。
どうやら長い封印から解き放たれ、外の空気に触れたことで多少は理性が戻り、穏やかになっているようだ。
剣持は乾いた喉を鳴らし、対話を続けた。
『……は、はい!
私たちです!
……その、我々が貴方様の封じられた遺物を調査していたところ、事故により封印が解けてしまいまして……。
……突然のことで驚かれたかと思いますが……その、お加減はいかがでしょうか……?』
世界を滅ぼしかねない破壊神に対して、「お加減はいかがですか」と聞く。
そのあまりにも滑稽な状況に、剣持自身、自分が正気なのか疑いたくなった。
だが龍は、意外にも、ふぅと長く深い息を吐き出した。
それだけで、周囲の雷雲が消し飛び、青空が覗く。
『……………………悪くはない』
龍は静かに答えた。
『……数千年……いや数万年か。
……あの狭く暗く、そして我が魂を削り続ける地獄のような檻の中に比べれば……この大気は清浄だ。
……礼を言うぞ、小さき者よ。
……あのままあそこで朽ち果てるのは、神星の眷属として我慢ならなかったからな』
礼を言われた。
剣持たちは全身の力が抜けるような安堵を感じた。
いける。
この龍は話が通じる。
だが次の瞬間。
龍の言葉が、その希望を凍りつかせた。
『……しかし、ここはどこだ?』
龍は眼下の東京の街並みを見下ろした。
林立する高層ビル、コンクリートのジャングル。
『……我を封印した、あの忌まわしき「メザドベア」の魔力の臭いがしない。
……奴らの子孫の気配も感じられぬ。
……ここは奴らの国ではないな?』
剣持は冷や汗を流しながら答えた。
ここで嘘をつくことはできない。
『……はい。
……ここは貴方様が元いた世界ではありません。
……私たちは異世界……貴方様の世界から流れ着いた遺物を回収し、解析を行っていたのです。
その結果、この世界で封印が解けてしまい……』
『……異世界だと?』
龍は得心がいったように頷いた。
『……なるほど。
道理で魔素(マナ)が薄いわけだ。
……次元の狭間を漂い、この辺境の地に流れ着いたか』
龍の赤い瞳が、ギラリと光った。
そこには明確な「意志」と、そして「殺意」が宿り始めていた。
『……ならば話は早い』
龍の全身から禍々しい殺気が膨れ上がる。
空間が軋み、悲鳴を上げる。
『……おい、人間。
……我を元の世界に戻せ』
その要求に、剣持は息を呑んだ。
『……も、戻って、どうされるおつもりで……?』
『――――決まっておろう。
……皆殺しだ』
龍は憎悪に満ちた声で唸った。
『……我を謀り捕らえ、あのような狭い箱に閉じ込め、数千年にわたって我の魂を燃料として使い潰した、あの傲慢なメザドベアの民ども……!
……断じて許さぬ!
……奴らの国だけではない!
奴らを生かしておいた、あの世界そのものを焼き尽くしてやる!
……我が受けた屈辱と苦痛の代償は、あの星の全ての生命をもってしても足りぬわッ!!』
剣持の顔から血の気が引いた。
元の世界。
それは、すなわち日本が現在進行形で開拓を進めている『ネオ・ジャパン』のことだ。
そこには、友好関係にあるアステリア王国の人々や、エルフのリナ、ヴォルフガングといった友人たちがいる。
そして何より、多くの自衛隊員や民間人が働く『アマテラス・ベース』があるのだ。
メザドベア文明が今どうなっているかは知らない。
だが、この怒り狂った神は「世界ごと」焼き払うと言っている。
もしこの龍を、あっちへ送り返せば。
日本の拠点も、現地の友人たちも、全てが灰になる。
やばい。
マジギレしている。
剣持は絶望的な状況の中で、必死に叫んだ。
『……だ、ダメですッ!!』
『……ああん?』
龍が不快げに目を細めた。
その視線だけで、剣持の身体にかかっていた防御魔法のシールドが軋み、火花を散らす。
『……貴様、我に指図する気か?』
『……ち、違います!
……ですが、向こうの世界にはメザドベアとは無関係な、私たちにとって大切な友人たちも住んでいるのです!
……我々と友好的に接してくれている罪のない人々も大勢いるのです!』
剣持は祈るように言葉を紡いだ。
『……異世界を根絶やしにするのだけは、どうか、どうかご勘弁ください……!』
『……知ったことか!』
龍の咆哮が物理的な衝撃波となって、剣持たちを襲う。
空中で吹き飛ばされそうになるのを、彼らは必死で耐えた。
『……我は神だ!
……その我を封印し、家畜のように扱ったのだぞ!?
……あまつさえ、我を燃料として使うなどという不遜!
冒涜!
……許されることではない!
……宇宙の理にかけて、報いを受けさせねばならんのだ!』
龍の怒りは頂点に達していた。
その背中の翼が大きく広げられ、そこから無数の光の粒子が破壊のエネルギーとなって収束し始める。
このままでは説得どころか、この場で東京ごと消し飛ばされる。
剣持は必死に言葉を探した。
どうすれば、この怒りを鎮められる?
どうすれば、アステリアの世界を守れる?
彼は一か八かの賭けに出た。
『……そ、それとも!』
剣持は叫んだ。
『……何か、我々の国が代償を支払うことで、怒りを収めてはいただけないでしょうか……!?』
『……代償?』
龍の動きがピタリと止まった。
収束しかけていたエネルギーが霧散する。
赤い瞳が剣持を、じろりと睨みつけた。
『……貴様ら人間風情が。
……我に取引を持ちかけようというのか?』
『……は、はい!
……貴方様を解放したのは我々です!
……その功績に免じて、どうか、どうかお話を聞いてください!』
剣持は空中で土下座する勢いで頭を下げた。
『……神星龍(ディバイン・スター・ドラゴン)様!
どうか怒りを静めてください……!
……我々は貴方様に対して敵意はありません!
……むしろ貴方様のような偉大な存在を燃料として扱うなど、言語道断だと考えています!
……我々にできることなら何でもします!
だから……!』
沈黙。
永遠にも感じるような、長い長い沈黙。
龍は眼前の小さな人間を、品定めするように見つめていた。
その瞳の奥で、激情と神としてのプライド、そして「解放者への借り」という理屈が、せめぎ合っているのが分かる。
やがて。
龍は大きく長く、鼻を鳴らした。
プシューッ、という蒸気のような吐息が雲を吹き飛ばす。
『…………ふぅ』
龍の殺気が、ふっと緩んだ。
『……良かろう』
『……えっ?』
『……確かに封印を解いたのは貴様らだ。
……その事実に免じて、今回のところは怒りを収めよう』
『……あ、ありがとうございます……!』
剣持たちは全身の力が抜けるような安堵を感じた。
生きた心地がしなかった。
だが龍は、続けた。
『……しかし、条件がある』
『……は、はい!
何でしょう!?』
『……我を異世界に戻すのは止めろ』
『……えっ?』
意外な言葉に、剣持は顔を上げた。
龍はバツが悪そうに視線を逸らした。
『……今の我は、まだ不安定だ。
……もし今すぐに元の世界に戻れば……。
……貴様の言う通り、怒りで我を忘れ、罪のない者まで含めて星ごと消し飛ばしてしまうかもしれん……。
……それでは我を陥れた、あの愚か者どもと同じレベルに堕ちることになる』
それは神星存在としての、ギリギリの理性とプライドだった。
彼は、自らが怒りに飲まれ、破壊神と化すことを恐れていたのだ。
『……頭を冷やす時間が必要だ』
『……で、では……?
どうされるおつもりで……?』
『……しばらくの間、この世界に留まる』
龍は宣言した。
『……だが、この姿のままでは貴様ら人間どもが騒いで鬱陶しいだろう。
……それに、我自身もまだ力の制御が完全ではない』
龍は地上の、崩壊したサイト・アスカの方角を見やった。
そこには、彼が出現した際に突き破った大穴と、瓦礫の山が広がっている。
『……出現した場所を破壊してしまったようだな。
……これは我が意図したことではない。
……謝罪の意味も込めて、全て元に戻しておこう』
龍が翼を大きく広げた。
そして静かに、しかし荘厳な声で言霊を紡いだ。
『――――時よ戻れ。
……因果よ修復せよ』
その瞬間。
世界が逆再生された。
崩れ落ちた瓦礫が空へと舞い上がり、砕けたガラスが再結合し、ひび割れた大地が塞がっていく。
まるでフィルムを巻き戻すかのように、サイト・アスカの崩壊現場が見る見るうちに元の姿へと戻っていく。
それは魔法というよりも、現実改変(リアリティ・ワープ)そのものだった。
数秒後。
そこには何事もなかったかのように、完全な状態で修復された研究所が建っていた。
『……ふぅ。
……これで貸し借りなしだ』
龍は満足げに頷いた。
『……さて。
……我は、とりあえずの「仮の住処」として、あの封印に戻ることとする』
『……えっ!?
封印にですか!?』
剣持は耳を疑った。
あんなに嫌がっていた檻に、自ら戻るというのか。
『……勘違いするな。
……封印されるわけではない。
……あの箱は壊れかけてはいるが、高次元存在が身を休める「殻」としては、それなりに優秀なのだ。
……エネルギーを吸い取る機能さえ切れば、ただの頑丈な個室だ。
……誰にも邪魔されず、静かに眠るには丁度良い』
龍の姿が徐々に、光の粒子となって収束し始めた。
その光は小さく、しかし密度を増していく。
『……人間よ。
……我は、しばらく眠る。
……次に目覚める時まで、我の眠りを妨げるなよ。
……そして、もし再び我を呼び覚ます必要があるならば……』
龍の声が遠ざかっていく。
『……その時は、極上の「供物」を用意しておくことだ。
……さらばだ』
光の奔流は地上へと降り注ぎ、修復されたサイト・アスカの地下深く、あの隔離チャンバーの中へと吸い込まれていった。
そして空には再び、雲一つない青空が広がっていた。
◇
数十分後。
サイト・アスカの地下、特別解析室。
そこには信じられない光景があった。
粉々に砕け散ったはずの防護ガラスは元通りになり、破壊されたはずの計測機器も、何一つ傷ついていない状態で稼働していた。
そして隔離チャンバーの中央には――。
あの『黒い多面体』が、再び鎮座していた。
ただし、以前のような禍々しい紫色の明滅はない。
その表面は静かな黒曜石のような光沢を放ち、まるでただの巨大な宝石のように静まり返っていた。
「……信じられん……」
長谷川教授が震える手で、眼鏡をかけ直した。
「……全て元通りだ……。
……時間は進んでいるのに……。
……物質の状態だけが、破壊される前の状態に復元されている……。
……これが神星龍の力か……」
橘紗英も呆然と、その黒い箱を見つめていた。
彼女の脳裏には、先ほどの龍の最後の言葉が残っていた。
『仮の住処』。
つまり、この中には今、あの世界を滅ぼしかねない神が、自らの意思で引きこもっているのだ。
それは究極の爆弾を抱え込んだようなものだった。
だが同時に、最強の守護神を得たとも言えるのかもしれなかった。
そこへ、チーム・グリモワールの面々が帰還した。
彼らは防護服を脱ぎ捨て、その場にへたり込んだ。
全員、顔色は真っ青で、全身が汗でずぶ濡れだった。
彼らの背中の、賢者から与えられた光の翼は、役目を終えて静かに消滅した。
「……た、隊長……」
部下の一人が、震える声で言った。
「……な、なんとかなりましたね……」
「……ああ」
剣持は天井を仰ぎ、深く深く息を吐き出した。
「……なんとかなった。
……首の皮一枚でな……」
彼らの命懸けの交渉によって、東京は――いや、異世界『ネオ・ジャパン』も含めた二つの世界は救われたのだ。
その様子を、いつもの黒猫の姿をした賢者が、部屋の隅の陰からニヤニヤしながら眺めていた。
「……くくく。……よくやったぞ、人間ども」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
「……あの頑固な龍を説得するとはな。
……なかなかどうして、お主らも役者が上がってきたではないか。
……空中飛行の魔法も、使いこなせておったわ」
彼は満足げに尻尾を振ると、その場から姿を消した。
日本政府の胃の痛くなるような日々は、まだまだ終わらない。
だが彼らは今日、また一つ、神話級のトラブルを乗り越える術(すべ)を学んだのだった。