異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語   作:パラレル・ゲーマー

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第154話

 東京都心上空、高度一万メートル。

 成層圏にほど近いこの領域は、通常であれば、マイナス五十度を下回る極寒と、希薄な酸素が支配する死の世界である。

 だが今、この空域は物理法則とは異なる、濃密で重苦しい「魔力」の嵐によって満たされていた。

 

 紫色の雷雲が渦を巻き、大気そのものが悲鳴を上げている。

 その嵐の中心に向かって、五つの小さな光点が音速を超える速度で上昇していた。

 

 陸上自衛隊特殊作戦群『チーム・グリモワール』。

 隊長の剣持一佐は、賢者・猫から一時的に付与された飛行魔法『天翔ける翼(ウィング・オブ・ヘルメス)』の推力に身を任せながら、必死に恐怖を理性の檻に押し込めていた。

 彼らの視線の先には、絶望そのものが浮かんでいた。

 

 神星龍(ディバイン・スター・ドラゴン)。

 全長数キロメートル。

 星々を散りばめたような半透明の巨体。

 背中には銀河の渦を模した六枚の翼。

 東京スカイツリーさえも爪楊枝に見えるほどの、圧倒的な質量とエネルギーの塊。

 

 その二つの赤い瞳が、眼下の東京を見下ろしている。

 その瞳に映っているのは、破壊の衝動か、それとも虚無か。

 

『……隊長。目標と接触します』

 部下の震える声が、インカムから響く。

 

「……ああ。総員、武器は構えるなよ。

 敵意を見せれば、その瞬間に蒸発するぞ。

 ……我々の任務は『対話』だ」

 

 剣持は震える手で、耳元の『万能言語翻訳機(銀のイヤリング)』に触れた。

 賢者様は言った。

「話せば分かる」と。

 そして、「翻訳機があれば言葉は通じる」と。

 

 その言葉だけが、人類に残された唯一の頼みの綱だった。

 

 龍の目の前、数百メートルの距離まで接近する。

 近くで見ると、その巨体はただの生物ではなかった。

 鱗の一枚一枚が独立した恒星のように輝き、体内を流れるエネルギーの奔流が血管のように脈打っている。

 

 そのプレッシャーだけで、心臓が破裂しそうだ。

 剣持は腹の底から「思考」した。

 翻訳機がそれを龍への概念言語へと変換し、直接、相手の魂へと叩き込む。

 

『――――ど、どうも!

 日本政府代表の剣持です!

 我々は貴方様を封印から解放した者たちです!』

 

 そのあまりにも必死な、そして神に対する挨拶としてはあまりにも平凡な呼びかけ。

 だが、その声は確かに届いた。

 

 神星龍の巨大な瞳が、ゆっくりと動き、空中に浮かぶ五人の人間を捉えたのだ。

 その瞬間、剣持たちの脳内に直接、雷鳴のような重厚な声が響き渡った。

 

『……………………ほう』

 

 その一言だけで、周囲の大気が震えた。

 

『……蟻かと思ったが……魔力を纏った人間か。

 ……封印を解いたのは貴様らか』

 

 通じた。

 龍の声には、鑑定結果にあった「発狂」の色は薄い。

 どうやら長い封印から解き放たれ、外の空気に触れたことで多少は理性が戻り、穏やかになっているようだ。

 

 剣持は乾いた喉を鳴らし、対話を続けた。

 

『……は、はい!

 私たちです!

 ……その、我々が貴方様の封じられた遺物を調査していたところ、事故により封印が解けてしまいまして……。

 ……突然のことで驚かれたかと思いますが……その、お加減はいかがでしょうか……?』

 

 世界を滅ぼしかねない破壊神に対して、「お加減はいかがですか」と聞く。

 そのあまりにも滑稽な状況に、剣持自身、自分が正気なのか疑いたくなった。

 

 だが龍は、意外にも、ふぅと長く深い息を吐き出した。

 それだけで、周囲の雷雲が消し飛び、青空が覗く。

 

『……………………悪くはない』

 

 龍は静かに答えた。

 

『……数千年……いや数万年か。

 ……あの狭く暗く、そして我が魂を削り続ける地獄のような檻の中に比べれば……この大気は清浄だ。

 ……礼を言うぞ、小さき者よ。

 ……あのままあそこで朽ち果てるのは、神星の眷属として我慢ならなかったからな』

 

 礼を言われた。

 剣持たちは全身の力が抜けるような安堵を感じた。

 いける。

 この龍は話が通じる。

 

 だが次の瞬間。

 龍の言葉が、その希望を凍りつかせた。

 

『……しかし、ここはどこだ?』

 

 龍は眼下の東京の街並みを見下ろした。

 林立する高層ビル、コンクリートのジャングル。

 

『……我を封印した、あの忌まわしき「メザドベア」の魔力の臭いがしない。

 ……奴らの子孫の気配も感じられぬ。

 ……ここは奴らの国ではないな?』

 

 剣持は冷や汗を流しながら答えた。

 ここで嘘をつくことはできない。

 

『……はい。

 ……ここは貴方様が元いた世界ではありません。

 ……私たちは異世界……貴方様の世界から流れ着いた遺物を回収し、解析を行っていたのです。

 その結果、この世界で封印が解けてしまい……』

 

『……異世界だと?』

 

 龍は得心がいったように頷いた。

 

『……なるほど。

 道理で魔素(マナ)が薄いわけだ。

 ……次元の狭間を漂い、この辺境の地に流れ着いたか』

 

 龍の赤い瞳が、ギラリと光った。

 そこには明確な「意志」と、そして「殺意」が宿り始めていた。

 

『……ならば話は早い』

 

 龍の全身から禍々しい殺気が膨れ上がる。

 空間が軋み、悲鳴を上げる。

 

『……おい、人間。

 ……我を元の世界に戻せ』

 

 その要求に、剣持は息を呑んだ。

 

『……も、戻って、どうされるおつもりで……?』

 

『――――決まっておろう。

 ……皆殺しだ』

 

 龍は憎悪に満ちた声で唸った。

 

『……我を謀り捕らえ、あのような狭い箱に閉じ込め、数千年にわたって我の魂を燃料として使い潰した、あの傲慢なメザドベアの民ども……!

 ……断じて許さぬ!

 ……奴らの国だけではない!

 奴らを生かしておいた、あの世界そのものを焼き尽くしてやる!

 ……我が受けた屈辱と苦痛の代償は、あの星の全ての生命をもってしても足りぬわッ!!』

 

 剣持の顔から血の気が引いた。

 元の世界。

 それは、すなわち日本が現在進行形で開拓を進めている『ネオ・ジャパン』のことだ。

 

 そこには、友好関係にあるアステリア王国の人々や、エルフのリナ、ヴォルフガングといった友人たちがいる。

 そして何より、多くの自衛隊員や民間人が働く『アマテラス・ベース』があるのだ。

 

 メザドベア文明が今どうなっているかは知らない。

 だが、この怒り狂った神は「世界ごと」焼き払うと言っている。

 

 もしこの龍を、あっちへ送り返せば。

 日本の拠点も、現地の友人たちも、全てが灰になる。

 

 やばい。

 マジギレしている。

 

 剣持は絶望的な状況の中で、必死に叫んだ。

 

『……だ、ダメですッ!!』

 

『……ああん?』

 

 龍が不快げに目を細めた。

 その視線だけで、剣持の身体にかかっていた防御魔法のシールドが軋み、火花を散らす。

 

『……貴様、我に指図する気か?』

 

『……ち、違います!

 ……ですが、向こうの世界にはメザドベアとは無関係な、私たちにとって大切な友人たちも住んでいるのです!

 ……我々と友好的に接してくれている罪のない人々も大勢いるのです!』

 

 剣持は祈るように言葉を紡いだ。

 

『……異世界を根絶やしにするのだけは、どうか、どうかご勘弁ください……!』

 

『……知ったことか!』

 

 龍の咆哮が物理的な衝撃波となって、剣持たちを襲う。

 空中で吹き飛ばされそうになるのを、彼らは必死で耐えた。

 

『……我は神だ!

 ……その我を封印し、家畜のように扱ったのだぞ!?

 ……あまつさえ、我を燃料として使うなどという不遜!

 冒涜!

 ……許されることではない!

 ……宇宙の理にかけて、報いを受けさせねばならんのだ!』

 

 龍の怒りは頂点に達していた。

 その背中の翼が大きく広げられ、そこから無数の光の粒子が破壊のエネルギーとなって収束し始める。

 

 このままでは説得どころか、この場で東京ごと消し飛ばされる。

 剣持は必死に言葉を探した。

 どうすれば、この怒りを鎮められる?

 どうすれば、アステリアの世界を守れる?

 

 彼は一か八かの賭けに出た。

 

『……そ、それとも!』

 

 剣持は叫んだ。

 

『……何か、我々の国が代償を支払うことで、怒りを収めてはいただけないでしょうか……!?』

 

『……代償?』

 

 龍の動きがピタリと止まった。

 収束しかけていたエネルギーが霧散する。

 赤い瞳が剣持を、じろりと睨みつけた。

 

『……貴様ら人間風情が。

 ……我に取引を持ちかけようというのか?』

 

『……は、はい!

 ……貴方様を解放したのは我々です!

 ……その功績に免じて、どうか、どうかお話を聞いてください!』

 

 剣持は空中で土下座する勢いで頭を下げた。

 

『……神星龍(ディバイン・スター・ドラゴン)様!

 どうか怒りを静めてください……!

 ……我々は貴方様に対して敵意はありません!

 ……むしろ貴方様のような偉大な存在を燃料として扱うなど、言語道断だと考えています!

 ……我々にできることなら何でもします!

 だから……!』

 

 沈黙。

 永遠にも感じるような、長い長い沈黙。

 

 龍は眼前の小さな人間を、品定めするように見つめていた。

 その瞳の奥で、激情と神としてのプライド、そして「解放者への借り」という理屈が、せめぎ合っているのが分かる。

 

 やがて。

 龍は大きく長く、鼻を鳴らした。

 プシューッ、という蒸気のような吐息が雲を吹き飛ばす。

 

『…………ふぅ』

 

 龍の殺気が、ふっと緩んだ。

 

『……良かろう』

 

『……えっ?』

 

『……確かに封印を解いたのは貴様らだ。

 ……その事実に免じて、今回のところは怒りを収めよう』

 

『……あ、ありがとうございます……!』

 

 剣持たちは全身の力が抜けるような安堵を感じた。

 生きた心地がしなかった。

 

 だが龍は、続けた。

 

『……しかし、条件がある』

 

『……は、はい!

 何でしょう!?』

 

『……我を異世界に戻すのは止めろ』

 

『……えっ?』

 

 意外な言葉に、剣持は顔を上げた。

 龍はバツが悪そうに視線を逸らした。

 

『……今の我は、まだ不安定だ。

 ……もし今すぐに元の世界に戻れば……。

 ……貴様の言う通り、怒りで我を忘れ、罪のない者まで含めて星ごと消し飛ばしてしまうかもしれん……。

 ……それでは我を陥れた、あの愚か者どもと同じレベルに堕ちることになる』

 

 それは神星存在としての、ギリギリの理性とプライドだった。

 彼は、自らが怒りに飲まれ、破壊神と化すことを恐れていたのだ。

 

『……頭を冷やす時間が必要だ』

 

『……で、では……?

 どうされるおつもりで……?』

 

『……しばらくの間、この世界に留まる』

 

 龍は宣言した。

 

『……だが、この姿のままでは貴様ら人間どもが騒いで鬱陶しいだろう。

 ……それに、我自身もまだ力の制御が完全ではない』

 

 龍は地上の、崩壊したサイト・アスカの方角を見やった。

 そこには、彼が出現した際に突き破った大穴と、瓦礫の山が広がっている。

 

『……出現した場所を破壊してしまったようだな。

 ……これは我が意図したことではない。

 ……謝罪の意味も込めて、全て元に戻しておこう』

 

 龍が翼を大きく広げた。

 そして静かに、しかし荘厳な声で言霊を紡いだ。

 

『――――時よ戻れ。

 ……因果よ修復せよ』

 

 その瞬間。

 世界が逆再生された。

 崩れ落ちた瓦礫が空へと舞い上がり、砕けたガラスが再結合し、ひび割れた大地が塞がっていく。

 まるでフィルムを巻き戻すかのように、サイト・アスカの崩壊現場が見る見るうちに元の姿へと戻っていく。

 

 それは魔法というよりも、現実改変(リアリティ・ワープ)そのものだった。

 

 数秒後。

 そこには何事もなかったかのように、完全な状態で修復された研究所が建っていた。

 

『……ふぅ。

 ……これで貸し借りなしだ』

 

 龍は満足げに頷いた。

 

『……さて。

 ……我は、とりあえずの「仮の住処」として、あの封印に戻ることとする』

 

『……えっ!?

 封印にですか!?』

 

 剣持は耳を疑った。

 あんなに嫌がっていた檻に、自ら戻るというのか。

 

『……勘違いするな。

 ……封印されるわけではない。

 ……あの箱は壊れかけてはいるが、高次元存在が身を休める「殻」としては、それなりに優秀なのだ。

 ……エネルギーを吸い取る機能さえ切れば、ただの頑丈な個室だ。

 ……誰にも邪魔されず、静かに眠るには丁度良い』

 

 龍の姿が徐々に、光の粒子となって収束し始めた。

 その光は小さく、しかし密度を増していく。

 

『……人間よ。

 ……我は、しばらく眠る。

 ……次に目覚める時まで、我の眠りを妨げるなよ。

 ……そして、もし再び我を呼び覚ます必要があるならば……』

 

 龍の声が遠ざかっていく。

 

『……その時は、極上の「供物」を用意しておくことだ。

 ……さらばだ』

 

 光の奔流は地上へと降り注ぎ、修復されたサイト・アスカの地下深く、あの隔離チャンバーの中へと吸い込まれていった。

 そして空には再び、雲一つない青空が広がっていた。

 

 ◇

 

 数十分後。

 サイト・アスカの地下、特別解析室。

 そこには信じられない光景があった。

 

 粉々に砕け散ったはずの防護ガラスは元通りになり、破壊されたはずの計測機器も、何一つ傷ついていない状態で稼働していた。

 そして隔離チャンバーの中央には――。

 

 あの『黒い多面体』が、再び鎮座していた。

 ただし、以前のような禍々しい紫色の明滅はない。

 その表面は静かな黒曜石のような光沢を放ち、まるでただの巨大な宝石のように静まり返っていた。

 

「……信じられん……」

 

 長谷川教授が震える手で、眼鏡をかけ直した。

 

「……全て元通りだ……。

 ……時間は進んでいるのに……。

 ……物質の状態だけが、破壊される前の状態に復元されている……。

 ……これが神星龍の力か……」

 

 橘紗英も呆然と、その黒い箱を見つめていた。

 彼女の脳裏には、先ほどの龍の最後の言葉が残っていた。

 

『仮の住処』。

 

 つまり、この中には今、あの世界を滅ぼしかねない神が、自らの意思で引きこもっているのだ。

 それは究極の爆弾を抱え込んだようなものだった。

 だが同時に、最強の守護神を得たとも言えるのかもしれなかった。

 

 そこへ、チーム・グリモワールの面々が帰還した。

 彼らは防護服を脱ぎ捨て、その場にへたり込んだ。

 全員、顔色は真っ青で、全身が汗でずぶ濡れだった。

 

 彼らの背中の、賢者から与えられた光の翼は、役目を終えて静かに消滅した。

 

「……た、隊長……」

 

 部下の一人が、震える声で言った。

 

「……な、なんとかなりましたね……」

 

「……ああ」

 

 剣持は天井を仰ぎ、深く深く息を吐き出した。

 

「……なんとかなった。

 ……首の皮一枚でな……」

 

 彼らの命懸けの交渉によって、東京は――いや、異世界『ネオ・ジャパン』も含めた二つの世界は救われたのだ。

 

 その様子を、いつもの黒猫の姿をした賢者が、部屋の隅の陰からニヤニヤしながら眺めていた。

 

「……くくく。……よくやったぞ、人間ども」

 

 彼は、誰に言うでもなく呟いた。

 

「……あの頑固な龍を説得するとはな。

 ……なかなかどうして、お主らも役者が上がってきたではないか。

 ……空中飛行の魔法も、使いこなせておったわ」

 

 彼は満足げに尻尾を振ると、その場から姿を消した。

 

 日本政府の胃の痛くなるような日々は、まだまだ終わらない。

 だが彼らは今日、また一つ、神話級のトラブルを乗り越える術(すべ)を学んだのだった。

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