異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語 作:パラレル・ゲーマー
日本の地下深く、サイト・アスカの隔離チャンバー。
かつて世界を滅ぼしかけた『神星龍(ディバイン・スター・ドラゴン)』が住まうその場所は、今や日本政府による過剰なまでの接待によって、極上のスイーツ・パラダイスと化していた。
幼女の姿をとった神星龍――シンは、最高級のシルクで作られたクッションに身を沈め、日本中から献上された「プリン」の山を前に、至福の表情を浮かべていた。
外の世界では、彼女の存在を巡って国際的な陰謀が渦巻いていることなど、彼女にとっては隣の銀河の天気予報ほども興味のないことだった。
彼女の今の最大の関心事は、このカラメルの苦味と、カスタードの甘味の黄金比率についてのみである。
「……ふむ。悪くない。
……人間という種は脆弱だが、この『糖分』を練り上げる技術に関しては、銀河でもトップクラスかもしれんのう」
彼女がスプーンを口に運ぼうとした、その時だった。
何の前触れもなかった。
魔力の揺らぎも、空間の歪みさえも感知できなかった。
ただ気づけば、「そこ」にいた。
部屋の中央、ふかふかのペルシャ絨毯の上に、一匹の黒猫がちょこんと座っていた。
夜の闇を凝縮したような艶やかな毛並み。
そして、全てを見透かすような、底知れない翠色の瞳。
「――うわーーーーーッ!!!!! で、出たーーーーーーッ!!!!!」
シンは手に持っていたスプーンを放り投げ、弾かれたようにソファの背もたれまで飛び退いた。
その顔は恐怖に引きつり、全身の毛が逆立つかのような戦慄が走っている。
彼女は『Tier 0:理の体現者』。
この宇宙の物理法則の一つを掌握する高位存在だ。
だからこそ理解できてしまう。
目の前にいる、この小さな獣の姿をした「ナニカ」が、自分とは次元の違う圧倒的な上位存在であることを。
「……な、なんじゃ、失礼なヤツじゃな……。
久々に顔を見せに来てやれば、化け物扱いか?」
黒猫は心底心外だというように、髭を震わせた。
ガラスの向こうの監視室から、慌てた様子で橘紗英のアナウンスが入る。
『……し、神星龍様、落ち着いてください!
……その御方は、我々が以前お話しした「賢者・猫」様です!
……決して敵対的な存在では……!』
「……け、賢者だと……!?」
シンはソファの陰から恐る恐る顔を出し、黒猫を凝視した。
彼女の龍としての眼(マナ・アイ)が、黒猫の周囲に渦巻く因果律の情報を読み取ろうとする。
だが読めない。
情報がないのではない。
あまりにも高密度で、あまりにも複雑な「理」が圧縮されすぎていて、彼女の処理能力では解析不能(エラー)を起こしてしまうのだ。
「……う、嘘じゃ……!
……これが賢者……? ただの魔法使いなどというレベルではないぞ……!
……想像通り、いや、想像を遥かに超えておる……!
……こやつは、我ら神星存在よりも遥かに上位の……『理』そのものを創り出す側の存在ではないか……ッ!?」
シンはガタガタと震え出した。
高次元存在にとって、階位(Tier)の差は絶対だ。
Tier 0の自分にとって、Tier -1以上の存在は文字通りの「創造主」であり、「消去者」に等しい。
彼らがその気になれば、シンの存在など概念ごと、宇宙の歴史からデリートキー一つで消し去ることができるのだ。
「……ひ、ひひぃぃ……!
……不敬で消されたくない……!
……あわわわ、さっき『出たー』とか言ってしまった……!
……す、すみません! 許して! 存在抹消しないでぇぇぇッ!!」
プライドの高い龍神が頭を抱えて蹲る姿は、あまりにも情けなく、そして涙を誘うものだった。
「……消さんし、不敬とも思わんわい」
賢者・猫は呆れたようにため息をついた。
「……お主、ワシを何だと思っておるんじゃ。
……破壊神か何かか?
……ワシはただの通りすがりの猫じゃよ」
「……そ、そうか……?
……本当に消さないか……?
……魂ごとリサイクルしたり、しないか……?」
「……しない、しない。
……まったく、ビビリ過ぎじゃろ。
……メザドベアの連中に虐められたのが、よほどトラウマになっておるようじゃな」
賢者はとことこと歩み寄ると、シンの足元で丸くなった。
「……いや、だって……」
シンは涙目で訴える。
「……話すのも不敬になるレベル差があるから怖いんじゃが……。
……お主自身が許しても、お主の眷属とか親衛隊とかに、あとで『あの時の態度は何だ』とか言って消されたりしない?
……大丈夫? 本当に大丈夫?」
「……眷属なんか居ないから大丈夫じゃよ。
……ワシはずっと一人(一匹)じゃ。
……気楽なもんじゃよ」
「……そ、そうなのか……」
シンはようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。
どうやらこの超・上位神は、見た目通り(?)、気さくで権威を振りかざすタイプではないらしい。
彼女は乱れたドレスを直し、咳払いを一つして、精一杯の威厳を取り繕った。
「……コホン。
……し、失礼した。
……あまりにも規格外の気配がしたものでな。つい取り乱してしまったわ」
「……まあよい。
……調子狂うのう」
賢者は尻尾をゆらゆらと揺らした。
「……それで?
……今日は一体、なんの用があって、このようなむさ苦しい地下まで降りてこられたのじゃ?
……ワシに用事など、ないはずじゃろう?」
「……いや、挨拶とな。
……ついでに一緒に『観光』でもしないかと思ってのう」
「……観光?」
シンは首を傾げた。
「……この狭い地下施設をか?
……それとも上の汚れた空気の街をか?
……あまり気乗りはせんな」
「……いや、もっと遠くじゃよ」
賢者はニヤリと笑った(猫の顔で)。
「……異世界観光でも、どうじゃ?」
「……異世界……?」
シンは目を丸くした。
「……異世界のう……。
……日本政府の人間からは聞いておるが、未だに信じられんわ。
……次元の壁を越えて自由に行き来するなど……。
……我ら神星存在でさえ、数千年かけて星の海を渡るのがやっとなのに……」
彼女は賢者をじっと見つめた。
「……まあ、お主ほどの神が言うなら出来るんじゃろうな。
……『異界渡り』とやら……。
……理屈は分からんが、概念的に座標を書き換えているのか……?」
「……まあ、そんなところじゃ。
……どうじゃ?
ここに閉じこもって、プリンばかり食べているのも飽きたじゃろう?
……外の空気を吸いに行くのも、悪くはないぞ?」
悪魔の囁きならぬ、神の誘い。
シンの心が揺れ動く。
確かにこの地下生活は快適だが、退屈でもある。
かつて大空を支配していた龍としては、もっと広い世界を見たいという欲求は常にあった。
「……ふむ。
……まあ、お主が護衛してくれるなら安心か。
……よかろう。付き合ってやってもよいぞ」
「……うむ。話が早くて助かる」
賢者は立ち上がった。
そしてガラスの向こうの橘に向かって声をかけた。
「……おい、橘。
……少し、この神星龍を預かるでな。
……夕方には返すから、心配するな」
『……は、はい! いってらっしゃいませ!
……くれぐれも暴走などなさらぬよう……!』
「……分かっておるわ」
賢者はシンに向き直った。
「……では行こうか、神星龍!
……ああ、そういえば、お主に名前はあるのか?
……『神星龍』では、ちと呼びにくいんじゃが」
「……名前か」
シンは少し考え込んだ。
かつての文明では『対象実験体Ω』とか、『炉心』とか呼ばれていただけだ。
個としての名前など、久しく呼ばれていない。
「……まあ、この姿になってからは、人間たちが勝手に『シン』と呼んでおるがな」
「……シンか。
……いい名じゃな。シンプルでよい。
……では、これからはシンと呼ぶぞ」
「……うむ。許可しよう」
「……では、いくか、シン」
賢者はシンの小さな手を、その肉球でポンと叩いた。
「――転移」
世界が反転する。
サイト・アスカの地下室が、光の彼方へと消え去った。
◇
一瞬の浮遊感の後、シンが目を開けると、そこは見たこともない奇妙な空間だった。
どこまでも広がる銀色の壁。
空中に浮かぶ半透明のディスプレイ。
そして窓の外に広がる漆黒の闇と、無数の星々の輝き。
「……こ、ここは……?」
シンは周囲を見渡して絶句した。
「……宇宙……か?
……いや、ここは船の中か?
……なんという……凄いテクノロジーを感じるが……」
彼女はかつて高度な魔法文明に囚われていたが、この場所の技術レベルはその比ではないことを本能的に悟った。
魔力ではない。
もっと純粋で洗練された、未知のエネルギーがこの空間を支配している。
「……ああ、ここは俺の宇宙船だよ。
……『テッセラクト・ボイジャー』っていうんだ」
聞き慣れない若い男の声がした。
シンが振り返ると、そこには先ほどの黒猫はいなかった。
代わりに立っていたのは、一人の黒髪の青年だった。
Tシャツにスウェットという、あまりにもラフな格好をした、どこにでもいそうな日本の若者。
「……な、なんじゃ?
……お主、猫から人間になるのか……?」
シンは目をぱちくりさせた。
気配は間違いなく、さっきの賢者だ。
だが姿形が、完全に人間になっている。
「……ああ、これね。
……異世界だと基本的に、この人間フォームでいるんだよね。
……地球で日本政府と接触するときだけ、面倒だから猫フォームで通してるんだ」
青年――新田創は頭を掻きながら苦笑した。
「……あっ、これ、日本政府には黙っててね?
……あいつら、俺が人間だって知ったら、また面倒なこと言い出しそうだし。
……猫のフリしてる方が、何かと都合がいいんだよ」
「……はあ。
……了解したのじゃ。
……神にも世俗の事情というものがあるのじゃな」
シンは納得したように頷いた。
むしろこの人間の姿の方が、彼女にとっては親しみやすかった。
あの底知れない黒猫の姿よりも、幾分か「話が通じそう」な気がしたからだ。
「……して、ここは宇宙船と言ったか?
……お主、こんな物まで持っておるのか。
……メザドベアの連中が見たら、泡を吹いて倒れそうじゃな」
「……まあね。
……ここは俺の別荘みたいなもんだよ。
……シンには、ここのワープ許可を出しておくから、時々遊びに来て良いよ。
……地球の地下が窮屈になったら、ここで息抜きすればいい」
「……なんと!
……自由にここに来て良いのか!?」
シンの目が輝いた。
この閉塞感のない広大な宇宙空間を眺められる場所。
ここなら、かつて星の海を旅していた頃の気分に浸れるかもしれない。
「……うむ! 感謝するぞ、賢者・猫よ!
……お主、意外といい奴じゃな!」
「……はは、どうも。
……じゃあ、どこに行く?
……色々と世界はあるけど」
創は空中にホログラムの地図を展開した。
そこには彼がこれまでに開拓してきた、数々の異世界へのゲートが表示されている。
「……オススメは、ここかな」
彼が指差したのは、一つの大陸の地図だった。
「……『新大陸』へのゲートが出来て、今、一番盛り上がってる場所だ。
……『グランベル王国』っていう国が管理してるんだけど、毎日がお祭り騒ぎだよ。
……最近は日本から持ち込んだ文化も混ざって、カオスで面白いことになってる」
「……ふむ。
……活気のある場所か。悪くないのう。
……じゃあ、そこでいいぞ」
シンは頷いた。
そして、最も重要な質問を口にした。
「……ところで、そこには『甘い物』はあるのか!?」
彼女の瞳が、獲物を狙う肉食獣のように鋭く光る。
日本での生活ですっかりスイーツ中毒になってしまった彼女にとって、それは死活問題だった。
「……あー、甘い物かあ……」
創は少し困った顔をした。
「……一応、砂糖や香辛料は俺が卸してるから、それなりにはあるけど……。
……食事に関しては、まだ発展途上だね。
……日本のコンビニスイーツみたいなレベルのものは、まだ期待しない方がいいかな。
……『王の慈悲のクッキー』とか、『雲のパン』とかはあるけど」
「……むぅ。
……それは少し残念じゃな。
……旅の醍醐味は、その土地の甘味にあるというのに」
シンは露骨にがっかりした顔をした。
その姿を見て創は苦笑した。
(……こいつ、本当に神様か? ただの食いしん坊な子供にしか見えないんだが……)
「……まあ、そんな顔するなって」
創はパチンと指を鳴らした。
その瞬間、何もない空間から甘い香りが漂い始めた。
そしてシンの目の前のテーブルに、忽然と一つの皿が現れた。
そこに乗っていたのは、美しい三層のスポンジと、真っ白なクリーム、そして宝石のようなイチゴで飾られた、完璧なショートケーキだった。
「……こ、これは……!!」
シンの表情が一瞬でパアッと明るくなった。
彼女はフォークをひったくり、ケーキを一口食べた。
「……んん~~~~ッ!!!
……美味い!!!
……これじゃ! この味じゃ!
……スポンジのしっとり感と、クリームの軽やかさ……!
……物質創造で、ここまで完璧な味を再現するとは……!
……上位神は、やはり凄いのう……!」
彼女は感動のあまり震えていた。
創の能力を完全に「美味しいものを出すための力」として認識した瞬間だった。
「……よし! 気力が充実したぞ!
……賢者・猫よ、案内せい!
……そのグランベル王国とやらに、ワシの祝福を与えに行ってやろうではないか!」
ケーキを平らげたシンは、鼻息も荒く立ち上がった。
その手には、ちゃっかりとお代わりのケーキ皿が握られている。
「……はいはい。
……じゃあ、行きますか」
創は苦笑しながら、異界渡りを発動させた。
「……とりあえず向こうでは、正体を隠して『俺の遠い親戚の子供』ってことにしておくから。
……いきなりドラゴンになったり、ビーム撃ったりしないでね?」
「……うむ、心得ておる。
……ワシも、お忍びの旅というやつを楽しみたいからのう」
最強の神と、最恐の(元)破壊神の、奇妙な二人旅が始まろうとしていた。
グランベル王国の人々はまだ知らない。
今日、彼らの街に、歴史を揺るがすほどの「大食い」が舞い降りることを。