異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語【コミカライズ連載開始】   作:パラレル・ゲーマー

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第172話 賢者・猫、怪獣見物に出かける

 新田 創(にった はじめ)は、今日も働く予定がなかった。

 

 日本の山奥に築き上げた、究極の理想郷(ユートピア)。

 その縁側に寝転がり、創は大きなあくびを一つした。

 冬の張り詰めた冷たい空気が庭を包んでいるが、室内の気温は環境制御システムによって、Tシャツ一枚でも完璧に心地よい温度に保たれている。

 その境目という絶妙なポジションで、彼はタブレット端末の画面を指で弾いていた。

 

(……朝飯は食ったし。……各世界の支店長からの定期報告も、異常なし、と)

 

 画面には、今日も今日とて莫大な利益を生み出し続ける異世界交易ネットワークの数字が並んでいる。

 右から左へ物を流すだけで、勝手に金貨の山が築き上げられていく。

 急いで本人が出向かなければならないような、差し迫った用事やトラブルはどこにもない。

 まさに、完璧なスローライフ。

 実に結構なことなのだが。

 

「…………さて。……今日は何をして遊ぶかな」

 

 創は、天井の木目を見上げながら独りごちた。

 積み上がった新作ゲームを崩すのもいい。気になっていたアニメを一気見するのもいい。

 だが、どうにも食指が動かない。

 全てが満たされすぎているが故の、この贅沢な停滞感。

 

(……そういえば)

 

 ふと、彼の脳裏に、最近開拓を始めたばかりのあの場所のことが浮かんだ。

 異世界『ネオ・ジャパン(仮称)』の南の大陸に築かれた前哨基地、アマテラス・ベース。

 日本政府という名の超優秀な下請け業者たちが、血と汗を流して絶賛開拓中の、あの手付かずの大自然が広がる新天地だ。

 

(……あっちは今、どうなってるだろうな)

 

 決して、「仕事の視察に行かなければ」というような立派な義務感ではない。

 自分がほんの少しだけ手を貸し、ゲートを開いてやった場所が、人間たちの手によってどのように変わり、あるいは変わらないのか。

 それを神様気分でのんびり観察するのは、箱庭シミュレーションゲームを眺めるような、純粋で、そしてどこまでも無責任な楽しさがあった。

 

「……たまには、外で昼飯でも食ってくるか」

 

 創は、どっこいしょと重い腰を上げた。

 日本側の人間たちがひしめく場所へ行く以上、この人間の姿のままで行くわけにはいかない。

 彼は意識を切り替えた。

 

 彼の手が、するりと、毛並みの良い黒い前足へと変わる。

 視界が急速に下がり、縁側の床板の木目が巨大に迫ってきた。

 ほんの数秒の間に、三十七歳の男の体は、夜の闇を凝縮したような一匹の黒猫へと完全に変貌していた。

 座布団の上で小さな前足を踏み直し、創は一度だけ背を伸ばした。

 

 創は、ピンと張った髭を揺らしながら、アマテラス・ベースの座標を頭に思い浮かべた。

 そして、息をするのと同じくらい自然な所作で、【異界渡り】の権能を発動させた。

 

 ◇

 

 陽光が降り注ぐアマテラス・ベースの放牧場付近は、驚くほどのどかな空気に包まれていた。

 高い柵の中で、六トンを超える岩山のような巨体を持つ魔角竜(トリケラトプスによく似た魔獣)が、気持ちよさそうに目を細めている。

 

「ほらタロウ、そっちじゃなくて、もう少し右だ。そこ、まだ泥がついてるぞ」

 

 迷彩服姿の自衛隊員が、デッキブラシを使ってその分厚くゴツゴツとした皮膚をゴシゴシと擦っていた。

 タロウと呼ばれた魔角竜は、「ブモォ……」と甘えたような低い鳴き声を漏らし、言われた通りにのっそりと巨体を傾けて、洗いにくい腹の側面を差し出している。

 未知の生態系に属する巨大生物と、現代日本の兵士。

 本来なら相容れないはずの二つの存在が、まるで休日に愛車でも洗っているかのような、平穏な日常の風景としてそこにあった。

 

「ほう。すっかり仲良くなったようじゃな」

 

 柵の上の木の柱に、音もなく降り立った黒猫が、面白そうにその光景を見下ろしていた。放牧場の奥では、特注の鞍を付けた別の魔角竜が、隊員を乗せてゆっくりと歩いている。

 

「あ、賢者様!」

 

 近くで作業状況を確認していた東郷交渉官が、その姿に気づいて足を止めた。

 彼は大仰にひれ伏すこともなく、しかし確かな敬意を込めて深く一礼した。日本政府の人間たちも、もはやこの神の気まぐれな出現にはすっかり順応していた。

 

「ほう。もう乗れるようになったのか。なかなか楽しそうではないか」

 

 創は、首元をデッキブラシで擦られてうっとりしているタロウを眺めながら、気さくな調子で話しかけた。

 

「ええ、おかげさまで。彼らは非常に賢く、我々の言葉のニュアンスまで気配で察してくれるようです。荷運びにも協力してもらえないかと、隊員たちが張り切っています」

 

 東郷が、安堵の微笑を浮かべて答える。

 その少し奥で、折り畳み式の野外テーブルに大きな地図と数枚のドローン撮影の写真を広げ、頭を抱えている初老の男の姿があった。

 国立科学博物館の古生物学者、万丈目(まんじょうめ)教授である。

 

「……むう。ドローンの映像だけでは、やはり解像度に限界がある。植生の密度からして、陸路での接近は大掛かりな遠征になるが、護衛の負担が大きすぎる……。しかし、この森の先に何がいるのか、どうしても直接確認したい……!」

 

 万丈目は、テーブルの上の写真を睨みつけながらブツブツと独り言をこぼしている。

 写真には、遥か北に連なる険しい山脈と、その麓に広がる深い原生林が映っていた。

 創は、尻尾を揺らしながら、広げられた写真の脇へひょいと飛び乗った。

 

「なんじゃ。今度は山登りか?」

 

「おや、賢者様! ええ、そうなんです。できるものなら、今すぐにでも行きたいところです!」

 

 万丈目は、黒猫の出現に驚きつつも、その目に宿る狂気じみた探究心の炎を隠そうともしなかった。

 彼にとって、この大陸は生きた宝物庫だ。航空機の搬入がゲートのサイズの都合で進んでおらず、上空には翼竜の脅威もあるため、遠方の調査は完全に足踏み状態にあったのだ。

 

「……実は昨日、アステリア王国のヴォルフガング殿から、非常に興味深い伝承をお聞きしましてな」

 

 東郷が、万丈目の熱弁を補足するように口を挟んだ。

 

「この北の山脈の奥深くに、体長が百メートルを超えるという巨大な生物が棲みついているというのです」

 

 その言葉に、創のピンと立っていた黒い耳が、ピクリと反応した。

 

「……百メートル?」

 

「ええ。あくまで現地の古い伝承です。実際にこの目で確認したわけでは――」

 

「しかも、口から青白い熱線を吐くという記述まであるのですよ!」

 

 東郷の冷静な説明を遮るように、万丈目が前のめりになって食いついた。

 

(……熱線。……百メートル超え)

 

 その単語の羅列は、創の脳裏に、かつて映画館のスクリーンで見上げた大怪獣の姿を鮮明に呼び起こした。

 自衛隊にとっての脅威だとか、安全保障上のリスクだとか、そういった人間側の深刻な事情は、創の意識から完全に抜け落ちていた。

 

「なんじゃそれ。見たいのう」

 

 創の翠色の瞳が、子供のように無邪気に輝いた。

 

「そうでしょう!? 伝承とはいえ、これほど広大な生態系の頂点に立つ生物がいるとすれば、それは進化の系統樹を根底から書き換える大発見です! もちろん、何もいなければ、それはそれで一つの結果です。ですが、もし本当にいるのなら……!」

 

 万丈目の声は震えていた。

 学者としての冷静さを保とうとしてはいるが、未知への渇望が全身から溢れ出している。

 創は、最後まで聞く必要もなかった。心の中では、既にポップコーンを用意している状態だ。

 

「うむ。では、ちょっと見に行くか」

 

 創がこともなげに言い放つと、東郷は「賢者様がご自身で向かわれるのですね。どうぞお気をつけて」という顔で、深々と頭を下げようとした。

 だが、創はテーブルの上でくるりと振り返り、二人を見つめた。

 

「お主たちも来るか? 詳しい者が一緒におった方が、見物は面白かろう」

 

「…………………………………………え?」

 

 東郷が、間の抜けた声を漏らした。

 そのあまりにも唐突な、そしてあまりにも魅力的な神の招待状。

 何週間もかけて安全なルートを策定し、決死の覚悟で挑むはずだった未踏の地への探索が、猫の気まぐれな外出への相乗りへと変わった瞬間だった。

 

 ◇

 

「行きます! 是非とも同行させてください!」

 

 万丈目は、食い気味に即答した。彼にとって、こんなチャンスを逃すという選択肢は存在しない。

 一方、現場の責任者である郷田陸将補は、急遽知らされたこの「お出かけ」に対し、胃の辺りを押さえながら確認に走った。

 

「賢者様、念のためですが……。まさか、森の中を歩いてその巨獣に近づくわけではありませんよね?」

 

「船で上から見るだけじゃよ。わざわざ食われに降りる趣味はないわい」

 

 創が呆れたように尻尾を振ると、郷田は深く安堵の息を吐いた。そして、目を輝かせている万丈目を鋭い視線で射抜いた。

 

「……教授にも、そこは徹底させてください。絶対に、船から降りるなどと言い出さないように」

 

「なぜ私を見て言うんだね」

 

 万丈目が心外だというように抗議するが、東郷も郷田も、その疑念を撤回しようとはしなかった。

 東郷は記録用のタブレットを鞄に収め、万丈目は手帳と予備の鉛筆を確かめた。郷田は二人の帰還を待ちながら、引き続き基地の指揮を執ることになった。

 本国には、同行者と予定の行き先、賢者の船内から観察することを取り急ぎ連絡した。

 

 基地の少し開けた空き地。

 創が虚空に向かって意志を向けると、空間がわずかに歪み、一辺が二メートルほどの銀色の立方体が、音もなくその場に出現した。

『テッセラクト・ボイジャー』。

 東郷は、そのあまりにも小さく、そして飾り気のない無機質な箱を見て、一瞬目を瞬かせた。

 

「こちらから、船へ移動するのでしょうか」

 

「これが船じゃ」

 

 創が前足で箱の表面に触れると、銀色の壁の一部がするりとスライドし、入り口が開いた。

 その向こう側に広がっていたのは、外観の小さな箱からはおよそ信じがたい、広大で洗練された空間だった。

 東郷は「なるほど、空間拡張技術……」と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。理解の範疇を超えている。

 

 創は、呆然と立ち尽くす二人を振り返り、尻尾で通路の先を示した。

 案内されたのは、外の景色を眺めるための、展望ラウンジとでも呼ぶべき広々とした一室だった。

 壁一面を占める巨大なビュー・スクリーンには、つい先ほどまで彼らが立っていた基地の空き地の風景が、恐ろしいほどの高解像度で映し出されている。

 部屋の中央には、人間がゆったりと腰掛けられる高級なレザーソファと、低い木製のテーブル。そして、その前方には、猫が丸くなるのにちょうどいいサイズに調整された、専用のクッションシートが設えられていた。

 

 創が軽い身のこなしで指定席へと飛び乗ると、座面が彼の体重に合わせてふわりと沈み込んだ。

 東郷は創の許可を得てタブレットを取り出し、スクリーンの映像を撮り始めた。一方の万丈目は既に巨大なスクリーンの真ん前に陣取り、ガラスに張り付くような勢いで外を見つめていた。

 

「教授、まだ出発しておりませんよ」

 

 東郷がたしなめるが、万丈目は全く聞いていない。

 

「分かっている。だが、この解像度は……! 肉眼で見るよりも鮮明ではないか!」

 

 創は、その騒がしい人間たちを見て、楽しそうに尻尾を振った。

 

「では、出発じゃ。解説は頼むぞ、教授」

 

『機体外部不可視モードへ移行します』という案内音声と共に、船が静かに浮き上がった。

 エンジンの駆動音も、浮上時の振動も、一切ない。ただ、スクリーンに映る景色だけが滑らかに下へとスライドしていく。

 テーブルの上にAIが用意した温かいお茶の水面は、微かな波紋すら立てていなかった。

 東郷は国家の安全保障のための調査へ、万丈目は生涯の夢の現場へ、そして創は、極上のエンターテインメントの時間へと、それぞれ足を踏み入れた。

 

 ◇

 

 眼下には、見渡す限りの原生林が広がっていた。

 前哨基地のアマテラス・ベースが、あっという間に豆粒ほどの大きさになり、視界の後方へと消えていく。地上からでは鬱蒼とした壁にしか見えなかった緑の海が、上空から見下ろすことで、その複雑な生態系の地図を露わにしていた。

 川が蛇行して森を切り裂き、木々の間にぽっかりと開いた草地があり、水場には多種多様な生物の群れが集まっている。

 

「いやあ、地面から見るのと、随分違うものじゃな」

 

 創は、純粋にその雄大な景色を楽しんでいた。人間の調査隊が徒歩で分け入れば命がけの魔境も、絶対安全な特等席から見下ろせば、極上のネイチャードキュメンタリーだ。

 

「あそこを! 川の手前です。少し止めていただけますか!」

 

 万丈目が、スクリーンの一点を指差して叫んだ。

 創が思考で命じると、船はピタリとその場に静止した。船の管理AI・734が指定された場所の映像を拡大し、創は画面に重なっていた地形表示を脇へ退けさせる。川辺の様子が、壁いっぱいに映し出された。

 

 画面の中央、川辺の開けた場所に、二足歩行の巨大な肉食竜の姿があった。

 体長は優に十メートルを超えている。赤黒い硬質な鱗に覆われた太い脚と、獲物を骨ごと砕くであろう巨大な顎。それがゆっくりと歩を進めるだけで、周囲の水を飲んでいた小さな生き物たちが、パニックを起こしてクモの子を散らすように逃げていく。

 創は、その圧倒的な迫力に目を奪われた。最初にこの世界を見つけた時にも、この大陸に棲む恐竜たちの映像は眺めていた。だが、あの時は「でかい恐竜がいる」というだけで満足し、すぐにゲートの設置場所探しへ移ってしまったのだ。

 

「おお、でかいな。あの顎は迫力があるのう」

 

 だが、万丈目はその巨大な個体ではなく、その後ろを指差した。

 

「大きい方だけではありません。後ろの、小さい個体も見てください」

 

 言われて見れば、巨大な肉食竜の歩いた軌跡を辿るように、体長が半分ほどの、よく似た小さな個体が、ちょこまかと後を追っている。

 足場の悪い泥濘に足を取られ、小さな個体が遅れそうになると、前を歩く巨大な個体は、時折振り返り、その歩調を落として待っているように見えた。

 万丈目は、息を殺してその様子をメモ帳に書き留めていく。

 

「親子なのか、群れの仲間なのかは、この短い観察ではまだ分かりません。ですが、大きい方が歩調を合わせ、後続を気に掛けているように見えます。化石から想像するしかなかった動きを、今、目の前で確かめられるのです」

 

 創は、もう一度映像を見直した。

 最初はただ「でかくて凶暴そうな恐竜が歩いている」としか認識していなかった風景が、万丈目の言葉一つで、途端に血の通った、複雑な生態系の一部として色鮮やかに見えてくる。

 

「……なるほど。大きい方だけ見ておったわ」

 

「牙の鋭さも骨格の構造も重要です。しかし、彼らがどのように息をして、どのように関わり合って生きているのか。その環境の中で、生きている姿を見るからこそ気づけることが、こんなにもあるのです!」

 

 万丈目の声から、最初の遠慮が完全に消え去っていた。

「あちらへ移動を!」「もう少し右の角度から!」「今度は二頭とも収まるように引いてください!」

 次々と飛んでくる細かい注文。

 東郷が「教授、賢者様を運転手のように扱うのは……」と慌てて諫めようとするが、当の創は、むしろその状況に深く満足していた。

 

「よいよい。ワシだけでは、大きいだの怖いだので終わってしまうからのう」

 

 心の中で、創はにんまりと笑う。

(連れてきて正解だったな。こういうガチの専門家と一緒に見ると、景色一つとっても解像度が全然違う。面白さが倍増するわ)

 

 彼がこの場に求めていたのは、単なる新しい知識のデータではない。自分の好きなものを発見し、目を輝かせて夢中で語る人間の、その熱量に触れる時間そのものだった。

 やがて、しばらく北上を続けたところで、船の管理AI・734の控えめな通知音が響いた。

 

『――マスター。北方の山岳地帯、山間の谷で、大型の生体反応を検出しました。周辺より強い魔力反応を伴っています』

 

 創は、ピンと耳を立て、そちらへ向き直った。

 

「教授。どうやら、本命らしいぞ」

 

 ◇

 

 船が山間部へと差し掛かると、眼下の地形の様子が明らかに変わり始めた。

 これまでの生命力に溢れた鬱蒼とした緑の森が、不自然な形で途切れている。

 巨大な樹木が根元からへし折られ、地面が深く抉れ、露出した岩肌には、巨大な重機で引っ掻いたような傷跡が幾筋も残っていた。雨風に削られた古いものもあれば、まだ土の色が新しいものもある。

 森を貫くように伸びる、異常に幅の広い通り道。

 最初は枯れ川の跡かとも思えたが、水が流れた形跡はなく、ただ地面が圧倒的な質量によって押しつぶされたように平らになっていた。

 

 万丈目は、先ほどまでの熱弁をピタリと止め、食い入るようにスクリーンを見つめていた。

 

「……足跡、でしょうか」

 

 彼は、すぐには断言しなかった。学者としての理性が、その結論を出すことを躊躇わせている。だが、あの幅数十メートルにも及ぶ獣道のようなものを説明する言葉が、他には見つからなかった。

 創は、その「何か巨大なものが通った痕跡」を眺めながら、尻尾の先をゆらゆらと揺らした。

 恐怖ではなく、純粋な期待で少しだけ前のめりになる。

 

 船はさらに進み、周囲を険しい岩壁に囲まれた、広大な谷のすり鉢状の空間へと到達した。

 スクリーンの中心に、それはあった。

 谷の中央の開けた岩場に、巨大な暗灰色の岩山のような塊が鎮座している。

 風景の中に完全に溶け込んでおり、表面はゴツゴツとした岩盤のように荒々しい。影に沈んだ部分は真っ黒で、最初はただの地形の起伏にしか見えなかった。

 

 だが、その「岩盤」の一部が、ゆっくりと持ち上がった。

 ズゥゥゥン、という低い地鳴りのような音が、船の集音マイクを通じて微かに聞こえてくる。

 岩だと思っていたその場所全体が、ゆっくりと膨張し、そして収縮を繰り返している。

 

 呼吸しているのだ。

 

 次に、地面に伏せられていた巨大な頭部が、ゆっくりと持ち上げられた。

 頭部の動きに合わせて、その顎の下で押し伏せられていた草木が、風を受けてわずかに揺れる。岩壁と同化していた巨大な丸太のような前脚が動き、土を削り取る。その遥か後方で、山肌を削りそうなほどに太く重い尾が、鬱陶しそうに身じろぎした。

 それまで別々の地形の一部に見えていたものが、ゆっくりと、しかし確かな一つの巨大な生物の輪郭として繋がり、完成していく。

 

 万丈目は、叫ばなかった。

 手にした鉛筆を握りしめたまま完全に硬直し、口を半開きにしているが、そこからは何の言葉も出てこない。彼の脳の処理能力が、目の前の現実のスケールに完全に追いついていなかった。

 

 東郷もまた、言葉を失っていた。神星龍の出現に巻き込まれた彼は、巨大な存在が実在すること自体を疑ってはいない。封印柩の解析室が崩壊した時の地鳴りは、今も記憶に焼き付いている。だが、封印された神が現れることと、これほどの生物が開拓地の奥で当たり前に暮らしていることは、別の問題だった。

 その圧倒的な沈黙の中で、創だけが、目をキラキラと輝かせていた。

 

「……おお。本当におった」

 

 創のその無邪気な、映画の特撮セットでも見るかのような嬉しそうな声が、室内に響いた。

 

「734、大きさはどれくらいじゃ?」

 

『頭部から尾の先端までの全長、およそ百二十メートルです』

 

 百二十メートル。

 数字で聞けばただのデータだ。だが、画面の中の比較対象が、その異常さを際立たせていた。

 巨神の足元の木立が、庭の植え込みのように小さく見える。その鋭い爪の先が地面を掻くと、大きな岩がいとも容易く転がっていく。頭部が持ち上がったことで、その影に覆われていた岩場へ太陽の光が戻った。

 

 万丈目が、長い、長い沈黙の果てに、ようやく震える声を取り戻した。

 

「……生きている」

 

 それは、先ほどの生態観察の時の元気な絶叫とは全く質の違う、魂の底から絞り出したような声だった。

 

「あの大きさで……息をして、体を動かしている……」

 

 教授の手が、小刻みに震えている。

 だが、彼はその震える手で、必死にメモ帳にスケッチを始め、気づいた特徴を書き留めていく。圧倒的な感動と畏怖で気を失いそうになりながらも、記録を残さなければならないという学者の業(ごう)が、彼を突き動かしていた。

 

「いやあ、すごいのう。これは来た甲斐があったわ」

 

 創は、その絶望的なまでの巨大な暴力を前にしても、あくまで「見物人」としての立ち位置を崩さなかった。

 彼はクッションに埋もれていた前足を伸ばし、二人と同じスクリーンに身を乗り出した。倒せるかどうかより、次にどんな動きをするのかが気になって仕方がない。

 東郷は、創のその呑気な声を聞いて、ようやく少しだけ我に返った。

 外交官としての理性が、冷や汗と共に警告を発する。

 

(……もし、あの怪物が、アマテラス・ベースの方角へ歩いてきたら、どうなる? ……自衛隊の火器で、あの質量を止められるのか? ……そもそも、我々が開拓しようとしていたこの大陸は、一体どんな領域だったのだ……)

 

 彼が、その胃の痛くなるような安全保障上の懸念に頭を抱えかけた、まさにその時だった。

 谷の反対側の森の奥から、木々をなぎ倒しながら、もう一つの巨大な影が姿を現した。

 

 ◇

 

 現れたのは、巨大な角と、鎧のように盛り上がった肩の筋肉を持つ、重戦車のような四足歩行の大型獣だった。

 体長は優に四十メートルはある。本来であれば、それだけでも十分に天災レベルの脅威であり、自衛隊の戦車部隊が出動する事態だ。

 だが、東郷は一瞬、「なんだ、小さい方か」と安堵しかけ、すぐに自らの感覚が完全に狂ってしまっていることに気づき、顔を引きつらせた。

 百二十メートルの巨神と並んでしまえば、四十メートルの巨獣でさえ、一回りも二回りも小さく見えてしまうのだ。

 

 大型獣は、低い地鳴りのような唸り声を上げながら、谷の中央へとゆっくりと近づいていく。

 岩場に伏せていた巨神が、その気配に気づき、巨大な頭をそちらへと向けた。

 まだ、どちらも飛びかかろうとはしない。

 互いの力量と、その場の空気を探り合うような、ピリピリとした間が谷を支配する。

 

 万丈目が、祈るような声で囁いた。

「……このまま、お願いします。こちらからは何も干渉せずに、このまま……」

 

 万丈目は二体の間合いを確認しながら、「接近。頭部の向きが変化」と早口で呟き、手帳へ視線を落とす間さえ惜しんでいた。

 創は二体が一つの画面に収まるよう734に命じ、クッションの上で座り直した。映画の見せ場が始まるのを待つ観客そのものだった。

 

 巨神が、動いた。

 太い前脚に力が込められ、大地に深く爪が食い込む。

 伏せたまま、首をわずかに持ち上げる。その動きに合わせて周囲の空気が陽炎のように揺らぎ、背後の岩壁の輪郭が歪んだ。

 分厚い岩盤のような首の皮膚がピンと張り詰め、顎の下から首筋へと走る細い鱗の継ぎ目が、チカチカと不気味な明滅を始めた。

 その色は、周囲の空気を凍てつかせるような、淡い青白さ。

 青白い光は脈打つように少しずつ強さを増し、首筋を這い上がり、巨大な口の奥底へと集まっていく。

 

 東郷が、その変化に気づき、顔面を蒼白にした。

「賢者様、あれは――」

 

「うむ。どうやら、伝承の通りらしいのう」

 

 創は、落ち着き払った声で答えた。

 船は、二体から距離を取った斜め上方の空域に静止していた。創が表示の角度を調整させると、巨神の横顔と、その口の先へ続く谷間が一つの画面に収まる。彼は満足げに頷き、前足を揃えてその続きを待った。

 

 巨神が、その巨大な顎をゆっくりと開いた。

 口腔の奥で臨界に達した青白い光が、一本の太く、そして極めて高密度な光の奔流となって、谷を横切った。

 

 熱線。

 

 だが、その光の奔流は、威嚇を続けていた四十メートル級の大型獣の体を貫くことはなかった。

 熱線は、大型獣が進もうとしていた先にある、谷の側面を構成する巨大な岩壁へと叩きつけられたのだ。

 

 画面全体が、一瞬だけ真っ白に染まる。

 直後、船のシステムが自動で映像の輝度を絞り、船内に再生される音量も抑えた。

 それでも、スクリーン越しに伝わってくるその光景は、地獄そのものだった。

 

 熱線が直撃した岩壁の一角が白く輝き、その輪郭ごと消し飛んだ。露出した断面は赤く照り返し、融けた岩が粘りを帯びて流れ落ちる。その下では支えを失った岩塊が次々と剥がれ、谷底へ轟音を立てて崩れ落ちていった。

 巻き上がった粉塵と水蒸気が、谷全体を白く覆い隠した。

 

 東郷は、思わずソファの肘掛けを強く握りしめた。

 手のひらには、べっとりと嫌な汗をかいている。

(……今のが、アマテラス・ベースに向けられたら。あの建物も、放牧場も……)

 想像するだけで、胃液が逆流しそうになる。基地の建物で、あれを受け止められるとは思えない。警報が鳴ってから避難を始めて、果たして間に合うのか。

 

 万丈目は、その圧倒的な破壊を前にしても、息を止めたまま、瞬きすら忘れてスクリーンを凝視していた。

 その肩は強張り、鉛筆を握る指にも力が入っている。それでも、視線だけは動かさず、この千載一遇の瞬間を網膜に焼き付けようとしていた。

「……発射する直前、首の下が光っていた……。口を開けてからではない。先に、変化が始まっていました」

 恐ろしかったはずなのに、ちゃんと見ている。

 

 その緊迫した二人を横目に。

 創の前に置かれたティーカップは、衝撃の一つも伝えられることなく、静かに湯気を立てていた。

 外の世界では地形が変わるほどの天変地異が起きているというのに、創はそのカップをふわりと浮かせ、口元へ運んでお茶を一口飲んだ。

 その絶対的な安全という名の非現実感が、外の破壊の凄まじさを、逆により際立たせていた。

 

 ◇

 

 粉塵が風に流され、徐々に視界が晴れていく。

 四十メートル級の大型獣は、前へ進むのをやめ、大きく後退していた。

 熱線で抉られた岩壁の残骸と、そこから放たれる異常な熱量を前に、本能が圧倒的な力量差を悟ったのだろう。しばらく巨神の姿を警戒するように見つめていたが、やがてゆっくりと体を引き、来た方向の森へと静かに戻っていった。

 

 巨神は、逃げていく相手を追うことはしなかった。

 二発目の熱線を放つ素振りもない。

 首元の青白い光は徐々に薄れて消え、巨大な顎がゆっくりと閉じられる。巨体の力が抜け、起こしていた頭が再び岩場へ下ろされた。

 

 万丈目が、張り詰めていた息を長く吐き出し、震える声で熱を帯びて語り始めた。

「……捕食するための攻撃では、なかったのかもしれません」

 

「追い払った、ということでしょうか?」

 東郷が、かすれた声で尋ねる。

 

「そう見えます。少なくとも今は、相手が退いたところで攻撃をやめています。縄張りから追い払うための威嚇だったのかもしれません」

 万丈目は手帳に「威嚇の可能性」と書き、今度は退いていく大型獣へ視線を移した。二体の距離が開いていく様子を、先ほどの熱線と同じ真剣さで追っている。

 

「うむ。実に見事な花火じゃった」

 創は、まるで特等席でショーを見終えた観客のように、満足げに尻尾を揺らした。

「では、もう一度見ようかのう」

 

 その言葉に、東郷の肩がビクッと跳ね上がり、顔面が完全に蒼白になった。

「も、もう一度、撃たせるのですか!? 賢者様、いくらこの船が安全とはいえ、そのような刺激を与えるのは……!」

 

「録画じゃよ、録画。さっきの口元が光るところを、大きくして再生してくれ」

 創がAIに命じると、スクリーンに先ほどの熱線発射数秒前の映像が、スローモーションで映し出された。

 

 東郷は、全身の力が抜けてソファに背中を預けた。

 一方の万丈目は、即座に画面に食いついた。

「そこです! その少し前からお願いします!」

 彼は、画面に顔がくっつくほどの距離まで近づき、食い入るように見つめている。

 

 創は、そんな対照的な二人を見ながら、くつくつと笑った。

「わざわざ寝ているところを起こして暴れさせたら、見物ではなく出演になってしまうではないか。ワシは安全な場所から眺めるのが好きなのじゃ」

 

 ◇

 

 スクリーンを現在の映像へ戻すと、谷間には再び静かな時間が流れていた。

 巨神は、岩場に体を預け、先ほどの圧倒的な破壊が嘘のように、規則正しくゆっくりとした呼吸を繰り返している。

 周囲の森に隠れていた小さな生き物たちも、少しずつ警戒を解き、再びその姿を見せ始めていた。

 

 創は、その平穏な光景をしばらく眺めてから、万丈目に声をかけた。

「……さて。そろそろ帰るかのう、教授」

 

 万丈目は、スクリーンの巨神から目を離さず、名残惜しそうな顔をした。

 眠っている間の呼吸も、寝返りの打ち方も、まだ何一つ見飽きてはいない。それでも、今日は賢者の見物に同行させてもらっているのだ。万丈目は未練を振り切るように手帳を閉じたが、指はしおり代わりにページの間へ挟んだままだった。

 

「……はい。これ以上欲張ったら、今日見たものの情報を脳内で整理することすら追いつきません」

 彼は改めて創に向き直り、深く一礼した。

「本当に、ありがとうございました。あれを、あのように生きて動いている姿を、この目で見られる日が来るとは、夢にも思っていませんでした」

 

 創は、その感謝の言葉をあまり大袈裟には受け取らず、軽く前足を振った。

「ワシも面白かったぞ。ただ見るだけではなく、専門家の解説付きで、随分と得をしたわい」

 

 帰りの船内。

 万丈目は、席に戻るなり手帳を開き、猛烈な勢いで何かを書き込み、考え込み始めていた。

 あの熱線のエネルギー源となる器官はどうなっているのか。普段は何を食べてあの巨体を維持しているのか。あの青白い発光は、他にどんな意味を持つのか。

 彼の頭の中では、答えが出た満足感よりも、次なる無数の「問い」が具体性を帯びて溢れ出していた。

 

 創は、その一心不乱に鉛筆を走らせる学者の姿を見ながら、内心で心地よい満足感を覚えていた。

(ああ、まだまだこの世界には、面白いものがたくさんあるんだな)

 

 ◇

 

 アマテラス・ベースの空き地に、再び銀色の立方体が音もなく出現した。

 船のハッチが開き、東郷と万丈目が降りてくる。

 

 万丈目の顔は、出発前のあの血走った興奮状態から一転して、静かで、どこか思索の海に深く沈み込んでいるような表情だった。

 基地で待機していた郷田が、二人の帰還を見て駆け寄ってきた。だが、万丈目の静かな様子に気づくと、すぐに不安そうな顔になった。

「……教授。大丈夫ですか? 顔色が……」

「大丈夫です。大丈夫ですが、少し、頭の中の言葉を整理させてください。情報量が、多すぎました」

 万丈目は手帳を抱えたまま、近くの日陰に置かれた折り畳み椅子へ腰を下ろした。膝の上でページを開き直すと、出発前と同じ速さで鉛筆が動き始めた。

 

 東郷が、代わりに郷田に簡潔に報告を入れる。

 伝承に該当する可能性の高い、全長百二十メートル級の超巨大生物を確認したこと。そして、それが実際に口から熱線を放つ光景を、記録に収めてきたこと。

 

 東郷は、持参していたタブレット端末を取り出し、船内でスクリーンを撮影しておいた短い映像を郷田に見せた。

 岩場に同化した巨体。持ち上がる頭。そして、岩壁をドロドロに溶かす青白い光の奔流。

 

 映像を見た郷田は、途中で顔をしかめ、再生を止めた。

「……なるほど。これは、教授たちを地上から近づかせなくて正解だった。少なくとも、この基地の装備で正面から相手をするべきではないな」

 万丈目は手帳から顔を上げ、今度ばかりは異議を挟まずに頷いた。

「ええ。あの船でなければ、あそこまで落ち着いて観察することはできなかったでしょう。……ですが、見られたのです。発射の前兆も、その後の行動も!」

 

 郷田は地図上の観測地点に赤い印を付けた。巨神がどこまで動くのかは、まだ分からない。それでも、これから調査を進める先に何がいるのか、漠然とした伝承が具体的な姿を伴っただけでも大きかった。

 

 そんな人間たちの深刻なやり取りの傍らで。

 創が、本来の商人としての顔を覗かせた。

 万丈目が、船で撮影したあの高精細な記録データも、後で研究資料として分けてもらえるだろうかと、控えめに尋ねた時のことだ。

 創は、すぐに大きく頷いた。

「よいぞ。……ただし、そちらは『商品』じゃ」

 

「もちろんです! ぜひ購入させてください!」

 万丈目が即答すると、東郷が横からそっと口を挟んだ。

「教授、値段を伺う前に即答するのはお控えください。……賢者様、対価は何をご希望でしょうか」

 

 創は、少しだけ考えた。

「胡椒を百キロと、砂糖を一トン。次の仕入れのリストへ上乗せしてくれればよい。ここの基地の備蓄を減らすつもりはないから、本国で用意してくれ」

 東郷は、条件を書き留めかけた指を止めた。胡椒と砂糖。いずれも、いつもの仕入れ窓口へ連絡すれば手配できる品だ。隣の万丈目は、それでこの映像が手に入るのかと、今にも自分で注文を始めそうな顔をしていた。

 

 東郷は内心で安堵しながら、本国の仕入れ担当へ条件を伝えた。ほどなく届いた了承の返事を読み上げると、創は機嫌よく尻尾をひと振りした。

 創が734へ思念を送ると、小さな記録媒体が開いた船のハッチからふわりと運ばれてきた。中には、地球の端末で閲覧できる形式に変換された高精細映像と、撮影時刻、観測地点、大きさの測定記録が収められている。創はそれを、東郷の差し出した手に落とした。

 東郷からその記録媒体を受け取った万丈目は、まるで聖杯を捧げ持つかのように両手で包み込み、深く、深く頭を下げた。

 

 創の内心は、どこまでも俗で、そして満ち足りていた。

(遊びに行って、面白い怪獣映画を特等席で見て、おまけに商品の仕入れまで増えた。悪くない一日だったな)

 かつては異世界を歩き回って素材を拾い集めていた彼が、今は「安全に見てきた記録」そのものを情報として売り捌いている。金に困っているわけではない。それでも、自分の楽しかった休日が、ちゃんと実利にも繋がるという事実が、彼には嬉しかったのだ。

 

「では、ワシは帰るぞ。今日はなかなか良いものを見せてもろうた」

 創が、見送る人間たちに向かって、軽く前足を上げた。

 

 万丈目が、ハッとして口を開きかける。

「賢者様、また次の機会がありましたら、是非……」

 

 創は、その言葉を察して、笑いながら軽く答えた。

「また気が向いたらのう。今度も、何か面白い話を用意しておいてくれ」

「必ず!」と万丈目が勢い込んで答える。創は満足げに頷くと、開いたハッチへ軽く飛び込み、最後に尻尾だけをひと振りした。

 

 銀色の箱は、陽炎のように揺らぎ、アマテラス・ベースから静かに姿を消した。

 

 賢者が去った後、万丈目は記録を確認するためのテントへ東郷たちを招き入れ、すぐさま映像の再生を始めた。郷田は観測地点から基地までの地形を確かめるために地図を広げ直し、東郷は今日得たこの計り知れない情報を、いかにして本国に報告し、活用するかを考え始めている。

 同じ映像を前にしても、彼らが見ているものは少しずつ違う。学者は生き物の生態を、現場の責任者は安全と距離を、交渉官は情報の価値を。

 やがて、基地のスピーカーから昼食を知らせる放送が流れたが、彼らの机に運ばれた食事は、誰一人手を付けることなく、しばらく冷めていくことになった。

「教授、先に食べてしまいましょう。冷めてしまいますよ」

「あと一度だけ。あの首の鱗が光り始めるところを、もう一度だけ確認させてくれ」

 その「一度」が、すぐに終わる気配はなかった。

 

 一方、日本の自宅へと帰還した創は、黒猫の姿から人間の姿へと戻り、いつもの着慣れたスウェットに着替えていた。

 結局、昼飯は家で食べることにした。フード・レプリケーターから取り出したカツカレーと冷たい飲み物を机に並べ、ゲーミングチェアへ腰を下ろして、いつものようにPCのゲームを起動する。

 ゲームのロード画面を待ちながら、彼は今日船が撮影した、巨神の静止画のデータを一枚だけモニターの隅に表示させた。

 岩山と見紛うほどの圧倒的な巨体。首筋に走る青白い光のライン。カレーのかかったカツを頬張りながら、その規格外の存在を前にして目を輝かせていた万丈目教授の顔を思い出す。

「……いやあ、いい休日だった」

 

 その頃、アマテラス・ベースでは、二度目の昼食の呼びかけが空しく響いていた。

 新田創の休日は、楽しく終わった。彼が連れ出した人間たちの仕事は、どうやら、これからが本番らしかった。




【コミカライズ連載開始のお知らせ】
『異界渡り』のコミカライズ版が、ピッコマにて連載開始となりました!
漫画はTHEマァ先生にご担当いただいています。
掲載先などの詳細は活動報告にまとめていますので、ぜひご覧ください!
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