異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語   作:パラレル・ゲーマー

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第38話

 国王アルトリウス三世の、神の如き叡智と、雷鳴の如き実行力によって、グランベル王国は、歴史上前例のない巨大な変革の時代へと、その舵を切った。

『豊穣の女神(デメテル)計画』と、『氷の心臓(アイス・ハート)計画』。

 二つの壮大な国家プロジェクトの始動を告げる王の勅命は、王宮の最速の伝令官たちによって、王国全土へと瞬く間に伝達されていった。

 そして、その最初の、そして最も重要な舞台として選ばれたのが、南方に位置する王国最大の港町、ポルト・マーレだった。

 

 ポルト・マーレ。

 その名は、大陸共通語で「海の港」を意味する。

 一年中温暖な気候に恵まれ、その豊かな漁場から水揚げされる多種多様な魚介類は、王国の食卓を古くから支えてきた。

 だが、その豊かさは、常に一つの絶対的な敵との戦いと共存していた。

『太陽』だ。

 南国の、容赦なく照りつける太陽の光と熱は、海がもたらす恵みを、同時に腐敗させる呪いでもあったのだ。

 水揚げされた魚は、数時間もすればその輝くような鮮度を失い始め、一日も経てば鼻を突く腐臭を放ち始める。

 この街の漁師たちや、商人たちの人生は、常にこの時間との戦いだった。

 彼らは、日の出前のまだ涼しい時間帯に魚を市場に運び込み、その日の昼までに売りさばけなかった魚は、塩漬けか干物にするしか道はなかった。

 新鮮な魚の刺身など、この街の漁師でさえ、水揚げされた直後のほんの束の間しか味わうことのできない、幻のご馳走だった。

 王都の貴族たちの食卓にこの街の魚が届く頃には、それはもはや大量の塩で固められた保存食となってしまっている。

 それが、この街の千年以上変わることのなかった、当たり前の日常だった。

 

 その日常が、ある日唐突に、終わりを告げた。

 王の勅命が、この街に届いたのだ。

『――港に隣接する第一地区を、完全に封鎖。そこに国家の威信を懸け、巨大な氷室を建造する。全ての市民は、王立建築技師団の指示に従い、その建設に協力すべし』

 街は、大混乱に陥った。

 氷室?

 この一年中、夏のような気候の港町に?

 正気か?

 市民たちは、誰もがそう思った。王は、とうとう暑さで気が狂われたのか。あるいは、これは我々の信仰心を試すための、何かの壮大な神託なのか。

 だが、王命は絶対だ。

 混乱と疑念の渦の中、王都から派遣されてきた百名を超える建築技師団と、彼らが引き連れてきた数千人規模の労働者たちが、ポルト・マーレに到着した。

 そして、ラングローブ商会の紋章を掲げた巨大な船団が入港し、そこから、見たこともない大量の石材や木材、そして断熱材として使われるという大量の木炭やおが屑が、次々と陸揚げされていった。

 街の男たちは、半ば強制的にその建設作業に動員された。

 彼らは、文句を言いながらも、しかし王が本気であることを悟り、やがてその途方もないプロジェクトに巻き込まれていった。

 建設は、昼夜を問わず続けられた。

 魔石の光が夜の闇を煌々と照らし、職人たちの怒号とハンマーの音が、眠らない港町に響き渡った。

 

 その狂騒の中心に、一人の老いた漁師がいた。

 名を、マルコという。

 年は六十を超え、その顔には、長年の潮風と太陽によって刻まれた深い皺が、まるで古い木の年輪のように刻み込まれている。

 彼は、このポルト・マーレで生まれ育ち、その人生の全てを海と共に生きてきた、根っからの海の男だった。

 彼は、港の一角で腕を組み、忌々しげな表情で、目の前で進められていく巨大な建造物の建設を眺めていた。

「……ちっ。馬鹿げたことを、しやがる」

 彼は、吐き捨てるように呟いた。

「氷室だぁ? この南国で、氷が一日以上持つとでも思ってんのかね。王様も、貴族様も、陸(おか)の上でふんぞり返ってるだけで、俺たちの苦労なんざ、分かりゃしねえんだ」

 彼の独り言に、周りにいた若い漁師たちが同調する。

「まったくだぜ、マルコさんよ」

「あんなでけえ石の墓場を作る金があるなら、俺たちの船の修理代でも出してくれってんだ」

 だが、彼らの不満をよそに、氷室は驚異的な速度で完成へと近づいていった。

 そして、着工からわずか十日後。

 港の一等地に、まるで古代の神殿のような、白亜の石で作られた巨大な窓のない建造物が、その威容を現した。

 王立大氷室、ポルト・マーレ支部の完成だった。

 

 落成式は、荘厳に執り行われた。

 王の代理として派遣されてきた宰相シュトライヒ伯爵が、集まった市民たちを前に、高らかに宣言した。

「これより、この氷室は、王家の名において、この街の全ての漁師たちのために開かれる! その奇跡の力を、その目で、しかと見届けるがよい!」

 だが、市民たちの反応は冷ややかだった。

 奇跡?

 どうせ、王都から貴重な冬の氷でも運んできたのだろう。それも、数日もすればただの水たまりになるだけだ。

 そんな冷笑的な空気が広場を支配していた、その時。

 ラングローブ商会の会頭、ゲオルグ・ラングローブが、一歩前に進み出た。

 彼の手には、一つの麻袋が握られている。

 彼は、その袋から一握りの青黒い石ころを取り出すと、氷室の中に運び込まれた巨大な水槽の前に立った。

 そして、その石ころを水槽の中へと投げ入れた。

 次の瞬間。

 広場にいた全ての市民が、我が目を疑った。

 水槽の水が、まるで生き物のように内側から白く濁り始め、パキパキパキという不気味な音と共に、一瞬にして巨大な氷の塊へと変貌を遂げたのだ。

「なっ……!?」

「い、今、何が……!?」

「水が……! 水が、凍ったぞ!」

 広場は、どよめきと混乱の渦に包まれた。

 そのあまりにも非現実的な光景に、老漁師のマルコでさえも、その口をあんぐりと開けたまま、凍り付いていた。

 

 その日、宰相シュトライヒ伯爵は、街の漁業組合の長たちを集め、王の新たな政策を説明した。

 水揚げされた魚介類の中から、最高品質のものを、王家、及びラングローブ商会が、これまでの相場の倍の価格で買い上げる。

 そして、それをこの魔法の氷と共に、王都へと輸送すると。

 漁師たちは、最初は、そのあまりにも虫の良い話に半信半疑だった。

 だが、倍の買い取り価格という魅力には、抗えなかった。

 そして、その最初の栄誉ある実験台として選ばれたのが、他ならぬ、この街で最高の腕を持つ漁師、マルコだった。

 彼は、その日の早朝、沖合で奇跡的に釣り上げた、体長二メートルを超える幻の大魚『蒼鰭鮪(そうきまぐろ)』を、水揚げしていたのだ。

 その全身が、サファイアのような青い輝きを放つ美しい魚は、千匹に一匹しか獲れないと言われ、その身は至上の美味として知られていた。

 だが、その鮮度は、驚くほど早く失われる。

 これまで、その本当の味を知るのは、この街の人間だけの特権だった。

「……分かった」

 マルコは、覚悟を決めた。

「……俺の人生、最高の獲物だ。こいつが王都に届く頃には、ただの腐った魚になってるだろうが……。まあ、それもいいだろう。王様と貴族様方に、俺たちの現実を思い知らせてやるのも、悪くねえ」

 彼は、自嘲気味に笑った。

 そして、彼の宝物である蒼鰭鮪は、ラングローブ商会の者たちの手によって、砕かれた魔法の氷と共に、巨大な木の棺桶のような箱に詰め込まれ、王都行きの最も速い駅伝馬車に載せられていった。

 

 それから、五日が過ぎた。

 マルコは、いつものように港の酒場で、安物のエールを呷っていた。

 周りの漁師たちは、皆、あの蒼鰭鮪の噂で持ちきりだった。

「おい、マルコさんよ。もうそろそろ、王都に着く頃じゃねえか?」

「ああ。今頃、箱を開けた王宮の料理人様が、その腐臭に鼻をつまんでる頃だろうよ」

 誰もが、そう信じていた。

 その時だった。

 酒場の扉が勢いよく開かれ、王宮からの伝令官が、息を切らしながら飛び込んできた。

「……お、おられるか! 漁師マルコ殿は、おられるか!」

 そのあまりの剣幕に、酒場は静まり返る。

 マルコは、面倒くさそうに立ち上がった。

「……俺が、マルコだが」

 伝令官は、マルコの姿を認めると駆け寄り、一枚の羊皮紙を、震える手で差し出した。

「……国王陛下からの、親書にございます! そして、これは陛下からの褒賞金!」

 伝令官が差し出した、ずしりと重い革袋。

 中からは、チャリンという金属音と共に、金貨の輝きがこぼれ落ちた。

 マルコは、訳が分からなかった。

「……一体、どういうことだ」

「……お読みください! 全て、そこに!」

 マルコは、震える手で王の紋章が刻まれた封蝋を解いた。

 そして、そこに記された流麗な文字を読んでいくうちに、彼の顔から血の気が引いていった。

『――漁師マルコよ。そなたが届けし蒼鰭鮪、誠に天上の美味であった。あの魚が、水揚げされてから五日も経過しているとは、到底信じられぬほどの完璧な鮮度。その身は、まるで海の宝石のようであった。この奇跡を、朕に届けてくれたそなたの忠義と、その腕に、心からの感謝を表する。この金貨は、その褒美のほんの一部である。今後も励め。我が国の民は、そなたのおかげで、真の海の恵みを知ることになるであろう――』

 

 マルコは、その羊皮紙を握りしめたまま、その場にへたり込んだ。

 信じられない。

 だが、このずしりと重い金貨の感触は、現実だ。

 酒場は、爆発したような歓声に包まれた。

「うおおおおおっ!」

「やったじゃねえか、マルコさん!」

「本当だったんだ! あの氷室は、本物だったんだ!」

 漁師たちは、マルコを担ぎ上げ、彼を英雄として讃えた。

 マルコは、仲間たちの肩の上で揺られながら、ただ呆然と呟いた。

「…………なんてこった……。これは、すごい……。本当に、国全体がいつでも美味い魚を食べられるようになるぞ……」

 その日を境に、ポルト・マーレの漁師たちの人生は変わった。

 彼らは、もはや腐敗を恐れることなく、存分に漁に打ち込むことができるようになった。

 街は、空前の好景気に沸き、ラングローブ商会の買い取り所には、連日、新鮮な魚介類が山のように持ち込まれるようになった。

 そして、王の勅命通り、王国全土の主要都市に、次々と巨大な氷室が建造されていった。

 氷の心臓(アイス・ハート)計画は、王国中に新鮮な血液を送り込む大動脈のように、その機能を果たし始めたのだ。

 

 時を、同じくして。

 王国中央部の、広大な穀倉地帯。

 そこでもまた、もう一つの静かな、しかし、より根源的な革命が進行していた。

 豊穣の女神(デメテル)計画。

 王都の実験農場で、その神の如き効果が証明された魔石の粉末は、ラングローブ商会を通じて、各地の有力な農村へと、限定的に分配され始めていた。

 その一つの、のどかな田園風景が広がる小さな村、グリューネワルト。

 村長の娘であるエララは、頑固な父親を説得し、自分たちの畑のほんの一角で、その王家から下賜されたという奇跡の粉を、試してみる許可を得ていた。

 村の人々は、遠巻きに彼女の挑戦を眺めていた。

「……本当に、あんな怪しげな粉で、作物が育つのかね」

「王様のお考えは分からんが、わしはご先祖様伝来のやり方が一番だと思うがなあ」

 エララは、そんな村人たちの声を背中で聞きながら、黙々と作業を続けた。

 彼女は、信じていた。

 王が、民を欺くはずがないと。

 そして、ラングローブ商会の者たちが語っていた、あの熱狂的な物語を。

 彼女は、丁寧に耕した土に魔石の粉を混ぜ込み、そこに野菜の種を蒔いた。

 そして、祈るような気持ちで、その夜を過ごした。

 

 そして、翌朝。

 彼女は、奇跡の目撃者となった。

 夜明けと共に畑へと駆けつけた彼女の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。

 昨日まで、ただの土くれだったはずの場所が、一面、青々とした葉で覆い尽くされている。

 そして、その葉の間には、瑞々しく、そして完璧な形をしたカボチャやキュウリが、ごろごろと実っていたのだ。

「…………すごい……」

 エララは、呆然と呟いた。

「……こりゃ、すごい……! 本当に、一晩で実が成っている……!」

 その噂は、瞬く間に村中に広まった。

 村人たちは、最初、信じようとしなかったが、実際にその奇跡の畑を目の当たりにし、そしてその野菜を一口味わった瞬間、彼らの長年の常識は、粉々に打ち砕かれた。

 味が、違う。

 これまで、自分たちが作ってきた野菜とは、甘みも、瑞々しさも、香りも、全く次元が違うのだ。

「……二晩目には、次の実がなるぞ!」

 誰かが、叫んだ。

 そうだ。収穫を終えたその蔓からは、既に新たな小さな実が顔を覗かせ始めていたのだ。

 その無限とも思える、生命力。

 その圧倒的な、豊穣の約束。

 村人たちの顔から、長年の労働で刻まれた厳しい表情が消え、代わりに、純粋な子供のような喜びと、驚嘆の色が浮かび上がっていた。

「……これさえあれば……」

 村の長老が、震える声で言った。

「……もう、わしらは日照りや長雨に怯える必要はない……。野菜や果物に困ることは、これから先、二度とないかもしれんぞ……!」

 その言葉は、村人たち全ての心の叫びだった。

 

 そして、その奇跡は、さらなる奇跡と結びついた。

 数日後、村の近くの宿場町に新設されたラングローブ商会の氷室から、冷気を保ったまま運ばれてきた荷馬車が、到着したのだ。

 荷台から降ろされたのは、数日前にエララの畑で収穫されたはずの野菜たち。

「……こりゃ、すごい……!」

 村人たちは、再び驚嘆した。

「……全然しなびてない……! それどころか、まるで今もぎ取ってきたみたいに、シャキシャキで、冷たいじゃねえか……!」

 促成栽培がもたらす、圧倒的な生産量。

 そして、氷室がもたらす、完璧な保存能力。

 その二つの奇跡が組み合わさった時、人々はようやく、賢王アルトリウス三世が描いた壮大な計画の全貌を理解した。

「……全てが……」

 村長は、わなわなと震えながら呟いた。

「……全てが、完璧に計算されている……! 豊作で作物が余っても、氷室があれば腐らせることなく保存できる! そして、その新鮮な野菜を、遠くの街まで届けることができる! なんということだ……! 王様は、我々の未来の全てを、見通しておられたのか……!」

 その日を境に、グランベル王国の農村の風景は、永遠に変わった。

 人々は、もはや飢饉に怯えることはない。

 彼らの食卓は、一年中、新鮮で栄養価の高い野菜と果物で彩られることになった。

 そして、その感謝の念は、全て、この完璧なシステムを創造した偉大なる賢王アルトリウス三世へと捧げられるのだった。

 国は、変わる。

 急速に、そして劇的に。

 誰もが、その輝かしい未来を信じて疑わなかった。

 その巨大な歯車の一番最初の一押しをしたのが、遠い異世界の、ただ怠惰に暮らしたいと願う一人の男の気まぐれであったことなど、もはや誰も知る由もなかった。

 

 

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