異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語 作:パラレル・ゲーマー
賢者・猫が、まるで子供の気まぐれのように、しかしその実、人類の常識と理性そのものを根底から揺るがす神々の玩具を、「貸し与えて」去っていった後。
東京、千代田区永田町の地下深くに広がるプロジェクト・プロメテウスの作戦司令室は、もはやただの緊張感では表現できない、一種の集団的な精神崩壊寸前の、異様な静寂に支配されていた。
巨大な円卓を囲むこの国の最高首脳たちの顔から、表情というものが完全に消え失せていた。
彼らの視線は、テーブルの中央に置かれた一つのモニターに、釘付けになっていた。
そこに映し出されているのは、インターネットの旧Twitter、現Xの、とあるアカウントのプロフィール画面。
『@Truth_Seeker_JP』。
そして、その下に並ぶ、ここ数日の間に投下された、今や世界中の人々が神託のように崇め奉る、数々の「預言」。
『囁きの羅針盤』、『停滞の砂粒』、『不死鳥の羽衣』。
そして、その預言と寸分違わぬ姿形で、今、彼らの目の前の厳重なセキュリティケージの中に安置されている、三つの、あまりにも非現実的な「現実」。
誰かが、乾いた喉でごくりと唾を飲む音が、静まり返った司令室に、やけに大きく響き渡った。
長い、長い、悪夢のような沈黙を最初に破ったのは、やはりこの国の最も老獪で、そして最も猜疑心に満ちた男、官房長官の綾小路俊輔だった。
彼は、その学者然とした細いフレームの眼鏡を指先でくいと押し上げると、蛇のように冷たい、静かな声で、その場にいる全員の魂に直接問いかけるかのように言った。
「…………皆様。我々はこれまで、一つの重大な、そして致命的な思い違いをしていたのかもしれませんな」
そのあまりにも不穏な切り出し方。
誰もが、息を殺して彼の次の言葉を待った。
「我々はこれまで、この『@Truth_Seeker_JP』なる正体不明のリーカーを、我々の『キマイラ計画』という壮大な嘘をより強固にするための、計算外の、しかし好都合な『協力者』、あるいは『煙幕』であると見なしておりました。……ですが」
彼は、一度言葉を切った。
そして、その声のトーンを、さらに数度低くした。
「……もし、その前提そのものが、根底から間違っていたのだとしたら? もし、我々が彼の掌の上で踊らされていたのだとしたら? いや、違う……」
彼の目が、すう、と細められる。
「……もし、我々が彼の書き下ろした壮大な『物語』の登場人物として、彼にその役割を演じさせられていただけなのだとしたら……?」
そのあまりにも冒涜的で、そしてあまりにも論理的な帰結。
会議室の空気が、凍りついた。
防衛大臣の岩城剛太郎が、その熊のような巨体をわなわなと震わせながら、絞り出すような声で言った。
「……あ、綾小路……。貴様、一体何を言っている……? ま、まさか貴様……。あのリーカーの正体が……」
「ええ」
綾小路は、きっぱりと頷いた。
その顔には、もはやいつもの人を食ったような笑みはなかった。
そこにあるのは、自らの知性の限界を超えた、絶対的な存在を前にした人間の、根源的な畏怖の色だった。
「……もはや、仮説ではありません。これは、ほぼ確定的な『事実』として認識すべきでしょう。……この『@Truth_Seeker_JP』というアカウントの中の人間は……」
彼は、ゆっくりとその神の名を告げた。
「…………我らが『賢者』様、ご本人、その人であると」
その一言は、呪いのように司令室の重い空気に響き渡った。
誰も、反論できなかった。
そうだ。
そう考えれば、全ての辻褄が合う。
あの神の如き情報源。
あのあまりにもタイミングが良すぎるリーク。
そして、今日のこの預言の、あまりにも完璧すぎる具現化。
全ては、あの超越的な存在が、退屈しのぎに仕組んだ、壮大な、そしてどこまでも悪趣味な一人芝居だったのだ。
我々は、神の観客であると同時に、神の道化だったのだ。
そのあまりにも恐ろしく、そしてあまりにも滑稽な真実に直面して。
日本の最高首脳たちの、理性の最後の砦が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
「…………は……」
「…………ははは……」
外務大臣の古賀が、乾いた引きつった笑い声を上げた。
「……な、なんということだ……。我々は、一体何と戦っていたのだ……。我々が、国家の全ての叡智を結集して作り上げた、あの『キマイラ』という壮大な嘘……。あれは、賢者様にとっては、ただの面白い『二次創作』程度の認識だったというのか……!?」
「……それどころかだ」
岩城が、呻くように言った。
「……我々は、その二次創作を原作者本人に、『これが公式設定です!』と大真面目にプレゼンしていた、痛々しいファンに過ぎなかったのかもしれん……!」
「……そして、その痛々しいファンを哀れに思った、心優しき(・・・・・)原作者様が」
綾小路が、続けた。
「『ふむ。お主たちの考えたその設定も、なかなか面白い。ならば、その二次創作のアイテムを、本物にしてくれてやろう』……と。そういうことで、ございますかな……?」
そのあまりにも的確で、そしてあまりにも残酷な分析。
それは、彼らの為政者としての最後のプライドを、完全に粉砕した。
司令室は、もはや国家の危機管理センターではなかった。
それは、自分たちの無力さと滑稽さを突きつけられた男たちの、集団的な絶望と自己嫌悪のための部屋と化していた。
彼らは、もはや発狂寸前だった。
だが、彼らはギリギリのところで耐えた。
その崩壊しかけた彼らの精神を再び一つに繋ぎ止めたのは、他ならぬこの国の最高責任者、宰善茂総理大臣の、静かな、しかし鋼のような一言だった。
「………………面白い」
彼は、呟いた。
その顔には、もはや恐怖も絶望もなかった。
そこにあるのは、全てを受け入れ、全てを超越した、求道者のような穏やかな笑みだった。
「…………面白いじゃあないか、諸君」
彼は、立ち上がった。
「……神が自ら我々の舞台に降りてきて、脚本を書き換えてくださったのだ。これほどの栄誉があるか? これほどのスリルがあるか?」
彼は、円卓を見渡した。
「……我々は、もはやただの為政者ではない。我々は、神と共に新たな神話を創造する、共同脚本家なのだよ。……ならば、やろうではないか。このあまりにも面白すぎる神々の戯曲を。最後まで、最高の役者として演じきってやろうではないか」
そのあまりにも常軌を逸した、しかしあまりにも力強いリーダーの言葉。
それは、絶望の淵にいた閣僚たちの心に、再び小さな、しかし確かな闘志の火を灯した。
そうだ。
発狂している暇などない。
我々は、神に選ばれたのだ。
この壮大な茶番劇を演じきる、唯一無二の役者として。
「…………御意」
橘紗英が、最初にその場にひざまずいた。
「……総理のお覚悟、しかと拝聴いたしました。……ならば、我々の次なる『演技』の方針を、決定せねばなりません」
彼女は、顔を上げた。
その目には、もはやいつもの氷のような冷徹さが戻っていた。
いや、それ以上の、全てを受け入れた鋼のような覚悟の光が宿っていた。
「……まず、賢者様ご自身が運営されていると思われる、あの『@Truth_Seeker_JP』というアカウント。……これに対する我々の基本姿勢は、これまで通り、『完全黙殺』を維持すべきかと存じます」
「……ほう? それは、なぜだね、橘君」
総理が、問い返す。
「……賢者様は、遊んでおられるのです」
橘は、きっぱりと言った。
「……我々が、彼のその『遊び』に気づいていることを、彼に気づかせてはなりません。それは、興醒めというものです。我々は、あくまで『何も知らない、愚かで哀れな、しかし懸命に真実を追い求める人間』という役割を、演じきらねばなりません。……それが、この戯曲の主役である賢者様を、最も楽しませる、最高の『おもてなし』であると、私は考えます」
そのあまりにも屈辱的で、そしてあまりにも忠実な僕(しもべ)としての完璧な回答。
総理は、満足げに深く頷いた。
「……うむ。分かった。では次に、賢者様が我々に『貸し与えて』くださった、この新たな三種の神器。……これを、どう扱うべきか。……これについても、君の考えを聞かせてもらおうか」
その問いに対し。
橘は、待ってましたとばかりに、新たな、そしてより大胆な提案を口にした。
「…………公表すべきかと、存じます」
「…………何!?」
その場にいた全員が、息を飲んだ。
「……ただし」と、橘は続けた。
「……もちろん、その全ての能力をありのままに公表するのではありません。それでは、世界が本当に破滅しかねません。……これもまた、我々の壮大な物語(キマイラ)の、新たな一章として、世界に提示するのです」
彼女の頭脳は、既に次なる脚本を完璧に描き終えていた。
「……皆様、思い出してください。我々の物語の主人公は、誰でしたかな? そう、悲劇の巫女王『星見子』です。……彼女が、我々に何を遺してくれたのでしたかな? そう、『無数の用途不明のアーティファクト群』です」
橘は、ホワイトボードの前に立つと、新たな計画を書き記していく。
「……我々は、こう発表するのです。『先日発見されたホシミコ女王のアーティファクト群の、その後の解析作業により、我々は、新たに三つの驚くべき遺物の、初期解析に成功いたしました』……と」
彼女のそのあまりにもしたたかな計画。
それは、賢者がもたらした新たな奇跡さえも、自分たちの都合の良い物語の中に完全に組み込んでしまおうという、恐るべき情報戦略だった。
「……ですが、橘理事官」
外務大臣の古賀が、不安げな声を上げた。
「……それほどの奇跡の道具の存在を公表すれば、今度こそ諸外国は黙ってはいませんぞ! 特にアメリカは、必ずや『同盟国として、その一つを共有すべきだ』と、強硬に要求してくるでしょう! その時、我々は、どう対処するというのですか!」
そのあまりにも当然の懸念に対し。
橘は、氷のような笑みを浮かべた。
「……ええ。もちろん、そうでしょうね、大臣。……だからこそ、公表するのです」
「……は?」
「……我々が公表するのは、あくまで、『現在もまだ検証中の、不完全な情報である』という、前提付きでです」
橘は、指を三本立てた。
「……例えば、こうです。『囁きの羅針盤』。これは、失くし物を探す便利な道具などでは、断じてない。『極めて微弱な未知の地磁気を感知し、古代のレイラインの方向を指し示す、古代の祭祀用のコンパス』。……その用途は、全くの不明。下手に使えば、精神に異常をきたす危険性さえあると」
「……『停滞の砂粒』。これは、時間を止める神の砂などではない。『特定の有機物に対し、その分子運動を極低温状態にまで低下させる、未知の触媒』。……その効果は、極めて不安定。下手に使えば、対象物は分子レベルで崩壊する危険性さえあると」
「……そして、『不死鳥の羽衣』。これは、絶対的な守護の鎧などではない。『自己修復機能を持つ、未知の有機繊維で織られた、古代の儀式用の衣装』。……その修復機能は不完全であり、いかなる原理でそれが起きるのかも、全くの不明。下手に身につければ、未知のアレルギー反応を引き起こす危険性さえあると」
そのあまりにも巧妙で、そしてあまりにも意地の悪い情報の小出し。
それは、世界の好奇心を最大限に煽り立てながらも、その技術の核心部分には決して触れさせない、完璧な情報統制だった。
「……我々は、あくまで『分からない』、『危険かもしれない』、『まだ研究中だ』と、言い続けるのです」
橘は、言った。
「……そうすれば、いかにアメリカとて、強引に『その危険な玩具をよこせ』とは言えなくなります。……むしろ、彼らはこう申し出てくるでしょう。『その危険なアーティファクトの、共同研究を提案する』……と。……そうなれば、しめたもの。我々が、その共同研究という名目のもと、彼らの優秀な頭脳をただ同然で利用しながら、全ての主導権は、我々が握り続けることができるのです」
その悪魔の如き外交戦略。
会議室にいた全ての人間が、もはや言葉を失っていた。
彼らは、改めて理解した。
目の前のこの鉄の女は、神さえも、そして世界最強の超大国さえも、自らの壮大な物語の駒として利用し尽くす、恐るべき、そして何よりも頼もしい、この国の守護女神なのだと。
宰善総理は、満足げに深く頷いた。
「…………素晴らしい」
彼は、心の底から言った。
「……実に素晴らしいぞ、橘君。……君こそが、我が国の最高の『アーティファクト』やもしれんな」
その最大限の賛辞に。
橘紗英は、初めてその鉄の仮面のような表情を、ほんの少しだけ和らげ、深々と一礼した。
「……もったいのうございます」
こうして、日本政府の新たな、そしてよりしたたかな反撃の狼煙が上がった。
彼らは、もはや神の気まぐれに、ただ翻弄されるだけの哀れな存在ではなかった。
彼らは、神がもたらした奇跡の奔流を、自らの国家の利益という強固な堤防の中へと巧みに誘導し、そしてその莫大なエネルギーを利用して、世界の奔流そのものをコントロールしようとする、恐るべき治水家に変貌を遂げていたのだ。
その壮大で、そしてどこまでも滑稽な、神と人間の化かし合いの次なるステージの幕が、今、静かにその幕を開けようとしていた。
そして、その全ての元凶である男が、その頃何をしていたかというと。
彼は、久しぶりにログインした『Path of Exile』の世界で。
自分のキャラクターのあまりの強さに、少しだけ飽きてしまい。
「……たまには気分転換に、新しいキャラでも育ててみるかなあ……」
などと呟きながら。
全く新しい、そして全く実用的ではない、奇妙なスキルビルドの構築に、その類稀なる才能の全てを、無駄に費やしていたという事実を。
まだ、この世界の誰も、知る由もなかったのである。