異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語 作:パラレル・ゲーマー
歴史の歯車は、一度その回転を早め始めると、もはや誰にも止めることはできない。
グランベル王国が、神の気まぐれによってもたらされた奇跡の数々に酔いしれ、かつてないほどの豊穣と幸福を謳歌していた、まさにその裏側で。
大陸の勢力図という冷徹な天秤のもう一方の皿は、その均衡を保つため、静かに、しかし確実に沈み込もうとしていた。
北方に、その広大な版図を広げるヴァルストライヒ帝国。
鉄と、規律と、そして揺るぎない野心によって大陸の北半分を支配する、尚武の軍事大国。
その国の空気は、豊穣の女神に微笑まれたグランベルのそれとは、全く異質だった。
帝都ヴァルハラの街並みは、優美な曲線を描く白亜の石ではなく、天を突くほどの鋭角的な黒鉄の尖塔で埋め尽くされている。空は、無数の工場から吐き出される石炭の煙によって、常に鉛色に淀んでいた。
道行く人々は、笑顔ではなく、硬い規律に満ちた表情で、足早に行き交う。彼らの会話は、陽気な世間話ではなく、常に国家と、義務と、そして栄光についての熱っぽい議論に満ちていた。
この国の全ての道は、一つの場所へと繋がっている。
帝都のまさに中心に、巨大な黒竜が大地にその身を伏せているかのような圧倒的な威容を誇って鎮座する皇帝の居城、『黒曜宮』へと。
その黒曜宮の、最も奥深く。
『万竜の間』と呼ばれる、玉座の間。
そこは、かつて帝国の建国者である初代皇帝が従えたという百頭の飛竜の頭蓋骨が、壁一面に飾られた、荘厳で、そしてどこまでも血生臭い空間だった。
その玉座の間に、たった一人。
若き皇帝が、静かに腰を下ろしていた。
彼の名は、レオポルド・フォン・ヴァルストライヒ。
年は、まだ二十代半ば。その顔立ちは、神が精魂込めて作り上げた彫像のように、完璧に整っていた。陽光を思わせる金色の髪。そして、冬の夜空のようにどこまでも深く、そして冷たい蒼穹の瞳。
だが、そのあまりにも美しすぎる容姿とは裏腹に。
彼の全身から放たれる雰囲気は、春の陽だまりではなく、真冬の絶対零度の氷河のそれだった。
彼は、先帝であった父の急逝により、若くしてこの巨大な軍事帝国の全てをその双肩に担うこととなった、若き獅子。
そして、その胸の内には、父祖の誰よりも大きく、そしてどこまでも冷徹な野心の炎が、静かに、しかし猛々しく燃え盛っていた。
彼の視線の先には、巨大な黒曜石のテーブルの上に広げられた、大陸全土の精密な軍事地図があった。
そして、その指先は、一つの国を、まるで愛撫するかのようにゆっくりとなぞっていた。
南の隣国。
グランベル王国。
彼の美しい唇の端に、ふっと、微かな、しかし獲物を見つけた捕食者のような、冷たい、冷たい笑みが浮かんだ。
「…………面白い」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
その声は静かだったが、巨大な玉座の間全体を支配するほどの、絶対的な響きを持っていた。
「…………実に面白いではないか。……アルトリウス三世……」
彼の脳裏には、数週間前から帝国の諜報網がもたらし続けている、信じがたい報告の数々が鮮明に浮かび上がっていた。
南の、あの常に食料の安定供給に問題を抱えていた、穏健で、そしてどこか退屈な王国が。
この数ヶ月の間に、まるで神の祝福でも受けたかのように、劇的な変貌を遂げていると。
『豊穣の女神計画』。
石ころを砕いた粉末を肥料にすれば、作物が数日で実るという、錬金術の如き農業革命。
『氷の心臓計画』。
人の意志の力だけで水を瞬時に氷へと変え、食料の保存と流通に革命をもたらしたという、魔法の如き低温技術。
そして、何よりも。
その全ての奇跡の源泉であるという、謎の鉱物。
『魔石』。
その存在。
「……最初は、我が国の国力を恐れたアルトリウスが流した、壮大な偽情報(ブラフ)かとも思ったが……」
レオポルドは、続けた。
「……どうやら、そうではないらしい。……我が国の商人たちも、実際に彼の国の市場でその奇跡の産物を目にし、その味を確かめておる。……そして、そのあまりの豊かさに、腰を抜かしておったわ」
彼の蒼穹の瞳が、すう、と細められる。
「……野心をたぎらせていたか。……いや、違うな。……これは、もはや野心などという矮小な感情ではない。……これは、天命だ」
彼は、立ち上がった。
そして、地図の上のグランベル王国を、まるで手のひらの上で転がすかのように見下ろした。
「……これほどの奇跡の力。……世界の法則そのものを捻じ曲げるほどの、神の火。……それが、なぜ、あのアルトリウスのような、民の幸福などという甘っちょろい夢想にうつつを抜かす感傷的な王の下に現れたのか。……解せぬ。……実に、解せぬわ」
彼の声には、純粋な疑問と、そしてそれを遥かに凌駕する絶対的な確信が込められていた。
「……このような力は、それを正しく、そして最大限に活用できる、真の王者の手にこそ相応しい。……すなわち、この私、レオポルド・フォン・ヴァルストライヒの手にだ。……そうだ、これは天が私に与えた試練であり、そして大陸統一という我が一族の悲願を達成するための、最後の天啓なのだ」
そのあまりにも傲慢で、そしてあまりにも揺るぎない自己への確信。
彼は、玉座の脇に置かれた銀のベルを一つ鳴らした。
澄んだ、しかしどこまでも冷たい音色が、広大な玉座の間に響き渡る。
それは、帝国の最高意思決定会議の始まりを告げる合図だった。
数分後。
万竜の間に、帝国の運命をその双肩に担う重鎮たちが集結していた。
彼らは、若き皇帝の前に深々とひざまずき、その命令を待っていた。
皇帝の右手に控えるのは、帝国軍の全てを統帥する元帥、アウグスト・フォン・シュタウフェン。
年は七十を超え、その顔には、大陸の歴史そのものとも言える無数の戦傷が刻み込まれている老将。
その用兵は、常に慎重で、石橋を叩いてなお渡らぬほどの堅実さで知られていた。
皇帝の左手に控えるのは、帝国諜報庁の長官を務める妖艶な美女、イザベラ・フォン・ルクス伯爵夫人。
その美しい笑みの裏に、毒蛇の如き冷徹な知略と、いかなる裏切りも許さぬ残酷さを秘めた、帝国の陰の女王。
そして、その下に控えるのは、いずれも百戦錬磨の将軍たち、そして老獪な文官たち。
彼らが、この巨大な軍事帝国を支える歯車だった。
「……面を上げよ」
レオポルドの静かな声が響いた。
重鎮たちが、一斉に顔を上げる。
「……皆には、既に我が諜報庁がもたらした南の隣国に関する報告書には、目を通してもらっておるな」
「「「はっ!」」」
「……して、皆の意見を聞きたい。……この神の戯れか、悪魔の悪戯か分からぬこの事態に。……我がヴァルストライヒ帝国は、いかに対処すべきか。……忌憚のない意見を述べよ」
その問いに、最初に答えたのは、やはり老元帥シュタウフェンだった。
彼の声は、長年の戦で嗄れていたが、その言葉の一つ一つには、揺るぎない重みがあった。
「……陛下。……恐れながら、申し上げます。……ここは、慎重に事を運ぶべきかと存じます」
彼は、ゆっくりと、しかしきっぱりと言った。
「……グランベル王国が手にしたという、その『魔石』なるものの力。……その正体も、そして限界も、我々はまだ何一つ、正確には把握できておりませぬ。……そのような未知の兵器を相手に、軽々に軍を動かすは、あまりにも危険な博打。……まずは、さらに多くの情報を収集し、その力の本質を見極めるべきかと。……下手をすれば、それは我が帝国軍、百万の精鋭を、一夜にして塵芥へと変えかねない、神の雷(いかづち)やもしれませぬ故」
それは、老将としてのあまりにも当然で、そしてあまりにも正論な意見だった。
だが、そのあまりにも臆病に聞こえる意見に、若き将軍の一人、ヴァレリウス卿が、血気盛んに反論した。
「……元帥閣下! お言葉ではございますが、それでは好機を逸しまする!」
彼は、その若々しい顔に野心の色を浮かべて叫んだ。
「……グランベル王国は、今、その新たな富に浮かれ、完全に平和にボケております! 彼らの王アルトリウスは、戦を知らぬ学者上がりの若造! その民は、美味い飯と酒に骨抜きにされた、ただの豚に過ぎませぬ! ……彼らが、その新たな力を真に軍事力へと転換する前に! 我が帝国軍の圧倒的な鉄槌を以って、その奇跡の芽を根こそぎ踏み潰すべきでございます! ……好機は、今、この瞬間にしかございませんぞ!」
それは、若さ故の功名心に逸る、勇ましい、しかしどこまでも短絡的な意見だった。
その二つの意見がぶつかり合い、将軍たちの間で激しい議論が始まろうとした、その時。
諜報庁長官、イザベラ・フォン・ルクスが、その扇子で口元を隠しながら、くすくすと妖艶な笑い声を立てた。
「……まあ、お二人とも。……どちらのご意見も、一理ございますわね」
彼女の声は甘く、しかしその瞳は、氷のように冷たかった。
「……ですが、わたくしはこう考えますわ。……なぜ、『情報収集』と『軍事行動』を、二者択一で考えなければならないのかしら? ……その二つを、同時に行えばよろしいではありませんか?」
そのあまりにも狡猾で、そしてあまりにも残酷な提案。
玉座の間が、静まり返った。
イザベラは、続けた。
「……全面的な戦争ではありません。……あくまで、国境付近の小さな村を襲撃する、『限定的な懲罰的軍事行動』。……その目的は、第一に、我が帝国の力を見せつけ、あの平和ボケした王国に警告を与えること。……第二に、その混乱の中で、彼らが新たに訓練しているという噂の『魔法兵』とやらを数名、生きたまま捕獲し、そしてもちろん、その力の源泉である『魔石』そのものも、サンプルとして鹵獲すること。……そして、第三に」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
そして、その美しい顔に、悪魔のような笑みを浮かべた。
「……その捕虜とサンプルを材料に、この帝都で、我々自身の手で彼らの奇跡を再現し、解析し、そしていずれは我が国のものとして量産する。……どうかしら? これならば、元帥閣下の懸念も払拭され、ヴァレリウス卿の功名心も満たされる。……まさに、一石二鳥の名案では、ありませんこと?」
そのあまりにも完璧で、そしてあまりにも冷徹な作戦計画。
玉座の間にいた全ての人間が、その女狐の恐るべき知略に戦慄し、そして魅了されていた。
彼らは皆、玉座に座る若き皇帝の、最終的な決断を待った。
レオポルドは、その全ての議論を、無表情のまま聞いていた。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がった。
そして、その蒼穹の瞳に、絶対的な王者の決意の光を宿して言った。
「…………シュタウフェン元帥。そなたの慎重さは、我が帝国の盾だ。……ヴァレリウス卿。そなたの勇猛さは、我が帝国の矛だ。……そして、イザベラよ。そなたの知略は、我が帝国の頭脳そのものだ」
彼は、静かに語り始めた。
「……だが、そなたたちは皆、一つだけ見誤っておる。……これは、もはや国と国との領土や資源を巡る、矮小な争いなどではない。……これは、天命だ」
彼の声は静かだったが、その言葉の一つ一つが、神託のように重く響き渡った。
「……自然の法則そのものを覆す、神の力。……それが、我々のすぐ隣に現れたのだ。……そのような力を、あのアルトリウスのような感傷的な理想主義者の手に委ねておくことこそが、この大陸全体の未来にとって、最大の罪なのだよ。……その力は、それを正しく導き、そして大陸に真の秩序と平和をもたらす天命を負った、真の皇帝の手にこそ相応しい。……すなわち、この私の手にだ」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして、高らかに命令を下した。
その声は、若々しく、しかし大陸の歴史そのものの重みを宿していた。
「…………聞け。……我が忠実なる臣下たちよ。……我々は、これより全面戦争は行わぬ。……イザベラの献策通り、あくまで『限定的な懲罰的遠征』を行う」
彼は、ヴァレリウス卿を見据えた。
「……ヴァレリウス卿。そなたに、命じる。……我が帝国軍第三軍団を率い、明日の夜明けと共に、グランベル王国北の国境を越えよ」
「は、はっ!」
ヴァレリウスが、歓喜に打ち震え、ひざまずいた。
「……ただし」と、レオポルドは続けた。その目は、氷のように冷たかった。
「……そなたの目的は、征服ではない。……殺戮でもない。……そなたの目的は、ただ一つ。……彼らの新たな『力』のサンプルを、生きたまま、この帝都へと持ち帰ることだ。……よいな? ……決して、深追いはするな。……そして、決してしくじるな。……これは、皇帝としての朕の、絶対の勅命であるぞ」
「…………御意! このヴァレリウス! 我が命と名誉に懸けて!」
その皇帝の絶対的な決断を前にして。
もはや、いかなる異論も存在しなかった。
老元帥シュタウフェンでさえも、その若き主君の、その器の大きさと、その揺るぎない覚悟の前に、ただ深々と頭を垂れることしかできなかった。
会議は、終わった。
だが、帝都ヴァルハラは、その瞬間から眠りから覚めた。
玉座の間の決定は、瞬く間に帝都中に張り巡らされた伝令網を駆け巡った。
第三軍団が駐屯する巨大な兵舎は、一斉に灯りが灯され、制御された、しかし熱狂的な混沌の渦へと叩き込まれた。
兵士たちの雄叫び。
軍馬の荒々しい嘶き。
そして、何千という鋼鉄の武具が擦れ合う、不気味な金属音。
それらが、一つの巨大な戦争の交響曲となって、夜の帝都に響き渡った。
その交響曲の指揮者は、若き将軍ヴァレリウス卿だった。
彼は、自らの司令部の天幕の中で、その精悍な顔を野心と興奮に輝かせながら、次々と部下たちに命令を下していた。
「……第一大隊は、先鋒として国境の川を、夜陰に紛れて渡河せよ! ……第二大隊は、その後方に続き、敵の斥候を完全に沈黙させよ! ……我々本隊は、夜明けと共に、一気に最初の村へと雪崩れ込む! ……目的は、略奪ではないぞ! 抵抗する者は斬り捨てて構わんが、決して必要以上の殺戮はするな! 我々は、文明の光をもたらす解放軍なのだ! ……そして何よりも! ……敵の中に、『魔法』を使う者が現れたら、絶対に殺すな! 生きたまま、捕らえるのだ! そいつらこそが、陛下がお求めになっておられる、最高の『土産物』なのだからな!」
その若き将軍の檄に、兵士たちの士気は最高潮に達していた。
彼らは、信じていた。
自分たちが、今から赴く戦が、ただの侵略戦争ではなく、大陸に真の秩序をもたらすための、正義の聖戦なのだと。
月が西の空へと傾き、東の空が微かに白み始めた、その刻。
帝都ヴァルハラの巨大な城門が、ギギギ、と重々しい音を立てて開け放たれた。
そして、その闇の中から、鋼鉄の鱗を持つ巨大な竜が這い出してくるかのように、ヴァルストライヒ帝国第三軍団が、その威容を現した。
完璧に統率された、歩兵の方陣。
その両翼を固める、重装騎兵の精鋭。
そして、その後方に控える、巨大な攻城兵器の数々。
それは、グランベル王国の騎士団のような、個々の武勇を誇る集団ではなかった。
それは、一つの巨大な意志の下に、完璧に統率された、冷徹で、そして無慈悲な、戦争のための機械だった。
その鋼鉄の流れが、夜明け前の静寂を切り裂き、南へ、南へと進んでいく。
彼らの何千という軍靴が、大地を踏みしめるその音は、これから始まる新たな時代の、血なまぐさい産声を告げる、不吉な鼓動のようだった。
その頃。
彼らが、その殺意の矛先を向けているグランベル王国の、北の国境の小さな村では。
人々が、平和な眠りから覚め、新たな一日の始まりを迎えようとしていた。
農夫は、畑へと向かい、その驚異的な速さで実る奇跡の作物の世話を、始めようとしていた。
母親は、厨房で火をおこし、昨夜、氷室から届いたばかりの新鮮な魚で、家族のための朝食のスープを、作り始めていた。
そのあまりにも平和で、そしてあまりにも無防備な幸福。
その上に、今まさに、鉄と血の嵐が吹き荒れようとしていることを。
まだ、この世界の誰も、知る由もなかったのである。