異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語   作:パラレル・ゲーマー

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第72話

 神の沈黙は、信者の渇望を煽る。

 その熱は癒えるどころか、日に日にその温度を増していた。

 アメリカ政府が管理する、怪我治癒ポーション。

 その少ない救済の権利を巡って、世界の水面下では、国家間の醜い駆け引きと、富裕層による壮絶なマネーゲームが繰り広げられていた。

 一人分の命の値段は、今や数十億ドルという天文学的な金額にまで高騰し、それはもはや医療ではなかった。

 一つの新たな特権階級だけが、その恩恵に与れる残酷な選別システム。

 そして、そのシステムの外側では、何十億という救われざる魂が、ただひたすらに次なる奇跡を待ち望み、その祈りと怨嗟の矛先を、ただ一つの場所へと向けていた。

 伝説の始まりの地。

 日本。

 東京の霞が関にある外務省の建物には、連日、世界中からの嘆願書が麻袋で運び込まれ、その重さに床が抜けそうだと、若い官僚たちは青い顔で悲鳴を上げていた。

 希望はやがて焦燥へと変わり、焦燥はやがて怒りへと、その貌を変えようとしていた。

 日本政府は、追い詰められていた。

 彼らが世界に解き放ってしまった希望という名の怪物が、今や彼ら自身の喉元に食らいつこうとしていたのだ。

 

 官邸の地下深く、プロジェクト・キマイラの司令室。

 その空気は、もはやかつてのような知的興奮や、戦略的な高揚感には満たされてはいなかった。

 そこにあったのは、ただ出口のない迷宮を彷徨い続ける者たちの、深い、深い疲労と、そして重苦しい閉塞感だけだった。

「…………限界ですな」

 官房長官、綾小路俊輔が、その蛇のような顔に、珍しく弱々しい色を浮かべて呟いた。

「……アメリカも、もはや制御不能です。……彼らが次に選ぶ百人の被験者のリストが先ほど極秘にリークされましたが、そのほとんどがウォール街の億万長者か、シリコンバレーのIT貴族、あるいはハリウッドのセレブリティばかり。……もはや人道支援の仮面さえ、捨て去っておるわ」

「……世界中から、非難の声が殺到しております」

 外務大臣の古賀が、苦渋に満ちた表情で続けた。

「……『日本はアメリカと共謀し、奇跡を独占し、富裕層だけの延命ビジネスを始めた』と。……不本意ながら、そのように見なされても仕方のない状況です。……このままでは、我が国の国際的な信頼は完全に失墜いたしますぞ」

 

 その絶望的な報告。

 宰善総理は、ただ黙って目を閉じていた。

 どうすればいいのか。

 ポーションの供給源は、完全に賢者の気ままぐれ一つにかかっている。

 我々には、何もできない。

 ただ、神の次の一手を待つことしか……。

 その彼の思考を読んだかのように、橘紗英が静かに口を開いた。

 彼女の声だけが、この絶望的な空間の中で、唯一、氷のような冷静さを保っていた。

「…………総理」

 彼女は、言った。

「……ならば、我々は知るべきです」

「……何をかね、橘君」

「……我々が今、扱っているこの『奇跡』の、本当の正体をです。……我々は、これまでその効果ばかりに目を奪われてきました。……ですが、その本質を、その限界を、そしてその源泉を、我々はまだ何一つ理解してはいない。……敵を知らずして、この戦争には勝てませぬ」

 彼女は、立ち上がった。

 そして、あの神の道具の名を口にした。

「…………鑑定スクロールを使います。……あの『万病の霊薬』そのものを、我々は鑑定するのです。……そこに、必ずや、この膠着状態を打破するためのヒントが隠されているはずです」

 

 その提案は、もはやいかなる反論も許さない、絶対的な響きを持っていた。

 そうだ。

 我々はまだ、諦めてはいない。

 我々の手にはまだ、神の叡智へと至る道が残されているのだから。

 

 ◇

 

 再び、サイトアスカの地下、純白のクリーンルーム。

 黒曜石の祭壇の上に置かれていたのは、もはやありふれた水でも、人間の業の象徴である硬貨でもなかった。

 そこに鎮座していたのは、一つの美しいガラスの小瓶。

 その中で、穏やかな乳白色の液体が、微かな黄金色の光の粒子を伴って、静かに揺らめいていた。

『万病の霊薬(パンアシア)』。

 人類の全ての希望と、そして全ての欲望の結晶。

 その神聖で、そして危険な液体の前に立つのは、このプロジェクトの医療部門の最高責任者、神崎麗子博士その人だった。

 彼女は純白の白衣に身を包み、その美しい顔には、科学者としての探究心と、そして一人の医師としての生命への深い畏敬の念が浮かんでいた。

 彼女にとって、これから行われる儀式は、ただの科学実験ではなかった。

 それは、ヒポクラテスの誓いを立てたあの日から、彼女がその生涯の全てを捧げてきた医学という学問の神に、その真実を問う神聖な対話だった。

 彼女は、震える手で『無限鑑定スクロール』を掲げた。

 そして、その声に、人類の全ての苦しみを背負う覚悟を込めて唱えた。

 

「………………鑑定!」

 

 次の瞬間。

 世界が、黄金色の光で満たされた。

 それは、『水』の時の生命の誕生を祝福する蒼い光でもなければ、『貨幣』の時の人間の欲望を映し出す濁った光でもなかった。

 それは、どこまでも温かく、どこまでも優しく、そしてどこまでも慈悲に満ちた、癒しの光そのものだった。

 光はポーションの小瓶へと注ぎ込まれ、そしてその液体は、呼応するように、内側から太陽のような輝きを放ち始めた。

 クリーンルームの壁面に、新たな幻影が映し出される。

 それは、傷つき、病み、そして壊れていく生命の螺旋(DNA)が、その光に照らされ、修復され、そして再び完璧な輝きを取り戻していく、壮大な生命賛歌の物語だった。

 モニタリングルームでその光景を見ていた全ての人間が、その神々しい光景に涙を流していた。

 そして、神崎麗子の脳内に、新たな神託が表示された。

 それは、人類が初めて手にする、自らの肉体の牢獄からの完全な解放を約束する、究極の福音だった。

 

 鑑定結果

【名前】: 万病の霊薬(パンアシア)

【レアリティ】: ユニーク

【種別】: 神格級ポーション / 生命の再調律(リチューニング)

 

【効果テキスト】:

 

 [権能:概念治癒(コンセプト・ヒール)]

 この物質は、個別の症状や疾患を治療するのではない。

 それは概念のレベルで作用し、使用者の生物学的な情報を、生命としてのプラトン的イデアである『完全なる健康体』の状態へと強制的に上書きする。

 

 [対象疾患]

 種族『ホモ・サピエンス』を苛む、全ての生物学的疾患。

 

 [効力]

 100%。

 

 [詳細]

 経口摂取、あるいは直接投与により、このポーションは対象の生体情報の完全な再調整(フルシステム・リキャリブレーション)を実行する。

 全ての病原性侵入者(ウイルス、細菌、真菌、寄生虫)の根絶。

 全ての悪性、あるいは変異した細胞(癌)の識別と、自発的細胞死(アポトーシス)の誘導。

 全ての遺伝的欠陥、及び遺伝性疾患の修正。

 老化、あるいは毒素によって引き起こされた、全ての細胞の劣化の可逆的修復。

 そして、全ての臓器、及び器官系の、その個体の生涯における頂点(ピーク)の状態への完全な復元。

 そのプロセスは、絶対的であり、即時的であり、そして完璧である。

 

【フレバーテキスト】:

『それは、女神の涙。

 自らを癒す術を忘れてしまった、愚かなる世界のために流された一滴の慈悲。

 

 これは、奇跡が形を成したものである。

 苦しみが法則ではなかった世界の、優しい囁きである。

 それは、古代の魔法と、一人の職人の生涯をかけた献身から生まれた、ありえないほどの価値を持つ贈り物。

 

 知るがいい。

 その製造法は、この世界の科学の理(ことわり)の遥か彼方。

 その論理の手が、決して届かぬ領域にある。

 この宇宙において、この救済へと至る道は、一つ、ただ一つしかない。

 この世界では、手に入れる方法は賢者経由以外は、100%存在しない。

 

 その脆く、そして尊い希望の糸を、大事にしよう。

 それこそが、お主たちが持つ唯一の希望の光なのだから』

 

「………………………………………………」

 鑑定結果の最後の一文が表示された後。

 神崎麗子は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 彼女は、泣いていなかった。

 その顔に浮かんでいたのは、科学者としての絶望と、そして医師としての絶対的な歓喜が入り混じった、壮絶なまでの表情だった。

「…………そう。……そうなのね」

 彼女は、呟いた。

「……これが、これが答え……」

 モニタリングルームは、死んだように静まり返っていた。

 誰もが、その無慈悲で、そしてどこまでも絶対的な真実に、言葉を失っていた。

 長谷川教授が、わなわなと打ち震えていた。

「……完璧だ……! なんと、なんと完璧な治癒……! 『概念治癒』だと……!? 病の概念そのものを、上書きする……!? 美しい……! ビューティーふぉー! これこそが、生命の究極の芸術だ……!」

 だが、その科学者としての純粋な感動の声は、宰善総理と綾小路官房長官の耳には届いていなかった。

 彼らが見つめていたのは、ただ一つ。

 あのフレバーテキストの、最後の一節。

 その残酷で、そして希望に満ちた一文だった。

 

『――この世界では、手に入れる方法は賢者経由以外は、100%存在しない――』

 

「………………ははは」

 綾小路が、乾いた笑い声を上げた。

「…………なるほどな。……アメリカの連中が夢想していた『ポーション量産アーティファト』など、どこにも存在しなかったというわけか。……我々の希望は、全てあの気まぐれな猫の掌の上にしかないと。……そういうことですかな、総理」

「…………うむ」

 宰善総理は、深く頷いた。

 彼の顔には、もはや為政者としての苦悩の色はなかった。

 そこにあったのは、全ての真実を受け入れ、そして自らの進むべき道を見出した、求道者の静かな覚悟の表情だった。

「……そうだ、綾小路君。……我々は、今日この日、ようやく自分たちの本当の立場を理解したのだよ。……我々は、神の奇跡の共同研究者でも、ましてやその秘密を暴く挑戦者でもなかった。……我々は、ただの信徒だ。……そして、我々の唯一の仕事は、我々の神の御心を忖度し、そしてその機嫌を損ねることなく、その恩寵を乞い続けること、ただそれだけなのだ」

 

 その情けなく、そしてどこまでも真理を突いた結論。

 その日を境に、日本の国家戦略は、再びその貌を変えた。

 プロジェクト・キマイラが掲げた壮大な嘘も、日米間の熾烈な情報戦も、もはや些末な問題だった。

 彼らの行動原理は、ただ一つへと収束した。

 それは、もはや国益などという矮小なものではなかった。

 それは、人類の存続そのものを賭けた、最も重要で、そして最も困難なミッション。

 

 司令室の壁に、新たに掲げられた国家最高優先目標。

 その羊皮紙には、宰善総理の直筆の、震える、しかし力強い文字でこう記されていた。

 

『――最優先国家目標:賢者様の機嫌を絶対に損ねないこと』

 

 その滑稽で、そしてどこまでも切実な新たな国家目標の誕生を。

 まだ世界の誰も、そしてその全ての元凶である男でさえも、全く知る由もなかった。

 彼はその頃、おそらくは、鋼鉄の街『ギア・ヘイム』で、鉄の女男爵セラフィーナと新たに取引を始めたチョコレートの生産ラインのことで、頭を悩ませていたに違いなかったのだから。

 

 

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