異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語 作:パラレル・ゲーマー
神は、退屈していた。
新田 創(にった はじめ)、三十七歳。その肩書は、もはや「無職」でも「賢者」でも「異世界の神」でもなく、単に『究極のぐうたら』とでも呼ぶのが、最もふさわしい境地に達していた。
日本のどこか人里離れた、しかしネット回線だけは銀河レベルの山奥に築き上げた理想郷(ユートピア)。伝統的な数寄屋造りの美しさと、SF世界のオーバーテクノロジーが完璧に融合したその邸宅で、彼は文字通り、仙人のような、あるいは廃人のような日々を送っていた。
朝は鳥の声(環境制御システムが完璧に再現したハイレゾ音源)で目覚め、思考するだけでその日の気分に合わせた快適な衣服が身を包む。
昼は、縁側で寝転がりながら、異世界交易帝国の膨大な売上報告を、スマホのソシャゲのログインボーナスを受け取るくらいの気軽さで確認する。
夜は、巨大なホームシアターで映画を見るか、あるいは自室のゲーミング・サーバー・ルームに籠もり、新たな人生(ゲーム)を始める。
食事は、脳が欲する味と栄養を完璧に再現したフード・レプリケーターが、三食昼寝付き、おやつ付きで提供してくれる。
労働も、心配事も、人間関係のストレスも、何もない。
ただひたすらに、快適で満ち足りた時間。
それは、彼が夢見ていた「スローライフ」の一つの究極の完成形であったはずだった。
だが、人間という、あるいは神の領域に足を踏み入れてしまった元人間という生き物は、完璧な日常に最も早く飽きる生き物でもあった。
「…………はあ」
創は、源泉掛け流しの露天風呂の縁に腰掛け、湯気に煙る美しい日本庭園を眺めながら、ここ数日で何度目か分からない深い溜め息をついた。
「……なんか、刺激が足りないんだよなあ……」
その時、彼の脳裏に、ふと、あの懐かしい、そしてどこまでも俗な世界の光景が蘇った。
一年以上前に、顔を出したきりの実家。
母親が作ってくれた、何の変哲もない、しかし世界で一番美味い生姜焼きの味。
父親と、言葉少なげに、しかし心地よい沈黙の中で一緒にテレビの野球中継を見た夜。
そして、彼が71話でふと心に思い浮かべた、あのささやかな願望。
(……親父と母さん連れて、観光でもいいな……)
(……スカイツリー、行ったことないって言ってたっけな……)
そのあまりにも人間臭い記憶が、退屈という名の薄氷に覆われていた彼の心に、温かい亀裂を入れた。
そうだ。
俺は、神である前に、ただの息子だった。
「…………よし」
創は、温泉からザブンと音を立てて上がった。
その目には、新たな、そして最高に面白そうな「プロジェクト」を見つけた、プロジェクトマネージャーの輝きが宿っていた。
「……やるか。……俺の人生最高の、親孝行プロジェクトを!」
◇
「――まあ、創! 本当に、まあ!」
電話の向こう側で、母親の嬉しそうな、そしてどこか心配そうな声が響き渡る。
「……スカイツリー? ……ええ、もちろん行きたいわよ! お父さんも、テレビで見るたびに『一度は登ってみたいもんだ』って言ってたし……。でも、いいの? あんた、新しいお仕事、忙しいんじゃないの?」
「はは、大丈夫だよ、母さん。最近、大きなプロジェクトが一段落してさ。少し長期休暇をもらったんだ。だから、その、なんだ。たまには親孝行でもしようかなって」
創は、ゲーミングチェアの上でポテトチップスをかじりながら、完璧な嘘を並べ立てた。
「まあ、そうなの。……でも、車で行くんでしょう? 日曜日の都内は、道が混むわよぉ」
「大丈夫、大丈夫。俺に任せとけって」
その言葉に、何の根拠もない絶対的な自信がこもっていることなど、電話の向こうの母親が知る由もなかった。
かくして、人類の歴史上最も壮大で、そして最も滑稽な親孝行日帰り旅行の計画は、始動した。
創は、まず「足」の準備から始めた。
もちろん、彼の愛機『テッセラクト・ボイジャー』を使えば、実家の庭からスカイツリーの展望台まで、コンマ数秒で転移できる。
だが、それではダメなのだ。
今回のプロジェクトの目的は、あくまで「ごく普通の、どこにでもある家族の日帰り旅行」を完璧に演出すること。プロセスこそが、重要なのだ。
彼は、アークチュリアの銀河ネットを通じて、地球で市販されている全てのファミリーカーの設計図と性能データをダウンロードした。
そして、自らの邸宅の地下にある『夢幻の工房(ドリーム・フォージ)』(もちろん、これも彼が日本政府に隠れて個人的に調達したアーティファクトの一つである)を起動させた。
数時間後。
彼の家のガレージには、一台のピカピカの新車が鎮座していた。
それは、日本の道路で最もよく見かける、何の変哲もない白いミニバンだった。
だが、その穏やかな外見の内側には、創による魔改造の限りを尽くしたオーバーテクノロジーが、詰め込まれていた。
ボディは、不死鳥の羽衣と同じ自己修復機能を持つナノマシン繊維で覆われ、戦術核の直撃にも耐える。
エンジンは、魔石をエネルギー源とする半永久機関。
そして、車内にはSF世界の慣性制御システムが搭載され、どれほどの急加速、急ブレーキでも、乗員は淹れたてのコーヒーを一滴もこぼすことさえない。
「……ふっふっふ。……完璧だ。……これこそ、史上最強の親孝行専用車……!」
旅行当日。
創は、その魔改造ミニバンで実家へと乗り付けた。
「まあ、創、新しい車買ったの? ずいぶん大きいのねえ」
「ああ、まあな。こっちの方が、長距離も楽だろ?」
彼は両親を後部座席に乗せ、滑るように車を発進させた。
そして、本当の神の御業が、ここから始まった。
「……マスター。……これより、オペレーション『パーフェクト・ドライブ』を開始します」
創の脳内に、彼の宇宙船の管理AI、734の声が響く。
創は、日本上空の成層圏にステルスモードで待機させたテッセラクト・ボイジャーのメインコンピューターと、自らの脳を直接リンクさせていた。
彼の視界の隅には、無数の情報ウィンドウが、半透明で表示されている。
関東平野全域の、リアルタイムの交通情報。
数百万台に及ぶ車両の、数秒先の未来予測データ。
そして、警視庁交通管制センターのシステムに、バックドアから侵入した制御画面。
「……よし、734。……やるぞ」
彼は、心の中で命じた。
「……これより、我が車両が通過する全ての信号をグリーンに固定。……前方三キロ以内に存在する全ての車両の潜在的リスクを計算し、必要であればドライバーの脳に微弱な電磁パルスを送り、無意識のうちに車線変更を促せ。……目的はただ一つ。……親父に、一度たりともブレーキを踏ませることなく、スカイツリーの駐車場まで完璧にエスコートすることだ」
『――御意、マスター。……神々の戯れ、始めさせていただきます』
AIの、どこまでも楽しげな声と共に。
東京の交通網は、一人の男の親孝行という、あまりにも個人的な目的のために、完全にハッキングされた。
「いやあ、創。……なんだか今日は、やけに道が空いてるなあ」
ハンドルを握る父親が、不思議そうに首を傾げた。
高速道路は、まるで貸し切りのようにガラガラだった。
料金所のETCゲートが、奇跡的なタイミングで彼らのためだけに開く。
合流地点では、他の車がまるで示し合わせたかのように、綺麗に道を譲ってくれる。
「本当ねえ、お父さん。……それに、なんだかあなたの運転、すごくスムーズになったんじゃない?」
助手席の母親が、嬉しそうに言う。
「そうか? はっはっは。まあ、年の功というやつかな」
父親は、まんざらでもない様子で笑った。
そのあまりにも平和で、そしてあまりにも呑気な会話の裏側で。
彼らの息子の頭の中では、数百万のパラメータを処理するスーパーコンピューターが、悲鳴を上げていた。
(……うおおおっ! ……首都高3号線の渋谷出口付近で、玉突き事故の発生確率が12%上昇! ……734! ……当該エリアの車両三台のカーナビに、偽の『渋滞情報』を流せ! ……進路を強制的に変更させろ!)
(……くそっ! ……お台場方面から来た暴走族の集団が、こっちに向かってるだと!? ……あいつらのバイクのエンジン制御システムに、軽いバグを注入しろ! ……一時的にエンジンが吹け上がらなくなる程度の、優しいやつをな!)
その頃、警視庁交通管制センターは、大パニックに陥っていた。
「……なんだ、これは!?」
「……都内全域の信号システムが、完全に同期してやがる! ……しかも、まるで意思を持ったかのように、全体の交通フローを最適化しているだと!?」
「……見てください、係長! ……この五分間で、都内の交通事故発生件数がゼロになりました……! ……奇跡だ……! 交通の神が、降臨したんだ……!」
彼らの知らないところで、一人の親孝行息子が、神となっていた。
数々の見えざる奇跡の果てに。
創たちを乗せたミニバンは、信じられないほどのスムーズさで、スカイツリーの麓にある巨大な駐車場へと滑り込んだ。
そして、彼らが車を降りた、まさにその瞬間。
一台の車が出ていき、入り口の目の前の一等地の駐車スペースが、まるで彼らのために用意されていたかのように、ぽっかりと空いた。
「あら、まあ! 本当に今日は、運がいいわねえ!」
母親は、心の底から嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、創は、この数時間の激しい精神労働の疲れが、少しだけ報われたような気がした。
だが、彼の「おもてなし」は、まだ始まったばかりだった。
スカイツリーのチケット売り場。
そこには、日曜日の昼間らしく、蛇のようにとぐろを巻いた、絶望的なまでの長蛇の列ができていた。
「……うわあ……。こりゃ、二時間は待つわねえ……」
母親が、がっくりと肩を落とす。
「……まあ、仕方ない。……並ぶか」
父親が、覚悟を決めたように言った。
「……いや、待ってて、父さん、母さん」
創は、二人をその場に残すと、一人で列の最後尾へと向かった。
そして、彼は静かに目を閉じた。
魔法学院で学んだ、ごく初歩的な、しかしこういう場面では絶大な効果を発揮する精神干渉系の魔法。
その術式を、彼の脳内で展開する。
彼の周囲に、ごく微弱な、しかし抗いがたいほどの魔力の波紋が広がっていった。
それは、人々の無意識のほんの些細な部分を、優しく、そして的確に刺激する魔法だった。
創たちのすぐ前に並んでいた若いカップルが、顔を見合わせた。
「……ねえ、なんか急にトイレ行きたくなってきたんだけど……」
「……え、奇遇だな。俺もだ」
彼らは、慌てて列を離れた。
その前にいた家族連れの父親のスマートフォンが、けたたましい着信音を鳴らした。(もちろん、それは創が作り出した幻聴だ)
「……え!? なんだって!? 部長が!? ……すまん、みんな! 急な仕事の電話だ!」
彼もまた、家族と共に列から消えていった。
その前にいた女子高生のグループが、突然叫んだ。
「……きゃーっ! やばい! あそこにいるのって、超人気のアイドルグループ『スターダスト・プリンス』のユウキ様じゃない!?」
もちろん、そんなアイドルはどこにもいない。
だが、集団心理とは恐ろしいものだ。
彼女たちの叫び声につられて、周囲の何十人もの人々が、一斉にそちらの方向へと殺到していった。
まるで、モーゼが海を割ったかのように。
創たちの前の列だけが、面白いように、綺麗さっぱりと消滅していた。
創は、何食わぬ顔で両親の元へと戻った。
「……父さん、母さん。……なんか、すごく空いたみたいだから、行こうか」
「…………え?」
両親は、目の前で起きたあまりにも不可解な光景に、ただあっけにとられていた。
「……な、なんなのかしら、今の……。……でも、本当だわ! 全然並んでない! ……創、あんた、本当に幸運を呼ぶ子なのねえ!」
母親は、息子の強運(と彼女は信じている)に、心の底から感心していた。
高速エレベーターで、展望台へと昇る。
だが、その日の東京の空は、あいにくの厚い雲に覆われていた。
展望台の窓の外に広がっていたのは、期待していた絶景ではなく、ただの真っ白な霧のような世界だった。
「……あらら。……こりゃあ、残念だったわねえ」
母親が、がっかりした声を上げた。
その声を聞いた瞬間。
創の心の中の親孝行スイッチが、再び最大レベルでオンになった。
(……734!)
彼は、心の中で、成層圏で待機する相棒に緊急の指令を下した。
(……オペレーション『天照大神(アマテラス)』発動! ……スカイツリーの直上、直径五キロの範囲の積乱雲を、今すぐ完全に消滅させろ! ……ただし、周辺の気圧変化は最小限に! ……気象庁に気づかれるなよ!)
『――御意、マスター。……局所的高エネルギー・マイクロ波照射による雲散霧消(クラウド・ディスパージョン)を開始します。……所要時間、推定十七秒』
展望台でがっかりしていた人々の間から、どよめきが起こった。
「……おい、見ろよ!」
「……雲が……! 雲が晴れていくぞ!」
まるで、神が天のカーテンを開けるかのように。
彼らの頭上を覆っていた厚い雲の層が、中心から円形に、急速に消え去っていく。
そして、その雲の穴から、後光のようにまばゆい太陽の光が差し込んできたのだ。
次の瞬間、彼らの眼下には、その神々しい光に照らし出された、息をのむほどに美しい東京の絶景が、どこまでも、どこまでも広がっていた。
「…………おお……!」
「…………なんて、綺麗なんだ……!」
展望台は、歓声と感動のため息に包まれた。
創の両親もまた、そのあまりにもドラマチックな光景に、言葉を失っていた。
「…………すごいわねえ、お父さん。……まるで、映画みたい……」
「……ああ。……こんな景色、生まれて初めて見たぞ……」
彼らは寄り添いながら、その奇跡の光景に、ただ見入っていた。
その二人の心からの笑顔。
それを見ていた創の心もまた、これまでにないほどの温かい達成感で満たされていた。
その頃、気象庁の予報センターで、一人の若い予報官が、「観測史上全く意味不明な『ドーナツ型快晴』の発生を確認! ……これは、もはや気象ではありません! ……超常現象です!」と半狂乱で叫んでいたことを、もちろん誰も知らなかった。
その後の昼食も、完璧だった。
スカイツリーの麓にある、予約必須の高級レストラン。
創は、そのレストランの予約台帳を、時詠みの砂時計(クロノス・リーダー)の力で数時間だけ未来視した。
そして、午後二時にある家族連れが子供の急な発熱でキャンセルすることを確認すると、その時間に合わせて何食わぬ顔で店を訪れたのだ。
「……申し訳ございません、お客様。……本日は終日、ご予約で満席でして……」
「そうですか。……それは、残念だなあ」
創が、わざとらしくがっかりしてみせた、まさにその時。
店の電話が、鳴り響いた。
「……はい、もしもし……。え!? ……ああ、それはお大事になさってください……」
電話を切った受付の女性が、はっとした顔で創たちを見た。
「………………お客様! ……信じられませんが……! ……たった今、ちょうど三人様分のキャンセルが出ました……!」
そのあまりにも完璧なタイミングに、創の両親は、もはや驚くことさえやめ、ただ「うちの息子は何か持っている」と、漠然と、しかし確信を持って信じ始めるのだった。
完璧な一日。
その帰り道。
後部座席で、満足しきった両親が、心地よい疲れの中で、すやすやと寝息を立てていた。
その寝顔を見ながら、創は心の底から思った。
(……ああ。……たまには、こういうのも悪くないな……)
だが、その温かい感傷と同時に。
彼の全身を、これまでに経験したことのないほどの、凄まじい精神的な疲労感が襲っていた。
交通管制システムのハッキング。
集団心理の繊細な誘導。
局地的な天候操作。
そして、軽度の未来予知。
その一つ一つが、神の領域の御業。
それを、たった一日の間に、バレないように、さりげなく、そして完璧に実行する。
そのストレスと精神的な消耗は、異世界でドラゴンと戦うよりも、遥かに、遥かに骨の折れる「仕事」だった。
夜、両親を無事に実家へと送り届け、自らの山奥の理想郷へと帰還した創は。
玄関にたどり着くや否や、その場にばたりと大の字に倒れ込んだ。
彼は、美しい檜の天井を見上げながら、完全に燃え尽きた虚ろな声で呟いた。
その声は、この日の完璧なプロジェクトを終えた、プロジェクトマネージャーの魂の叫びだった。
「………………ははは……。………………スローライフって………………めちゃくちゃ、大変じゃねえか……!!!!!」
そのあまりにも情けなく、そしてどこまでも人間臭い絶叫は。
誰に聞かれることもなく、ただ静かに、神の不在の完璧すぎる理想郷の静寂の中へと、吸い込まれて消えていった。