里山の奥深くにある清流へと舞台は移っていた。
そこには一人の少女、風真いろはが立っていた。
手には使い込まれた釣り竿を握り、目をキラキラと輝かせている。
いろはが見下ろす川は、翡翠色の水晶を溶かし込んだかのように透き通っていて、底に敷き詰められた丸みを帯びた石ころや、時折顔を出す岩肌がはっきりと見て取れた。
涼やかなせせらぎの音は絶え間なく続き、風が運んでくるのは、濡れた苔と夏草の青臭い匂いが混じった清浄な空気だった。高い位置にある枝から伸びた柳の葉が川面に届きそうなほどしなやかに揺れており、そこへ止まった水鳥がのんびりと羽根の手入れをしている。
まさに秘境と呼ぶにふさわしい静寂と美しさが広がっていた。
いろはは肩掛け鞄から小さな椅子を取り出して設置すると、腰を落ち着けた。
「うむ!ここなら間違いなく居るはずでござる!」
期待に胸を躍らせながら、釣り竿を担いで狙いを定める。
「やはり天然ものに限るでござる!」
エサとなる練り餌を丁寧に付けながら、彼女の頭の中では早くも完成した料理の様子が浮かび上がっていた。
(この清流で育った鮎ならば、塩焼きにした時の皮目のパリッと焼けた音!骨ごとしゃぶりつく豊潤な身の甘さ!)
想像しただけでじゅるりと喉が鳴る。
いろはは鼻歌交じりに仕掛けを調整し、釣り糸を軽やかに川へ投じた。水面に小さな波紋が広がり、エサを付けた針が静かに流れに乗っていく。
「さぁ来い!風真の胃袋を満たしてくれる魚たちよ!今宵は逃さんでござるよ!」
高らかに宣言すると、竿をしっかり握り締め、一点集中。
あとは魚からの呼び声を待つのみであった。
翡翠色の川面を一心に見つめるいろは。ぴくりとも動かない竿先に、まだかまだかと逸る気持ちを抑えつつ、時折吹き抜ける涼やかな風に目を細めた。
(う~ん、焦ってはいけないでござるな。こういう時こそ忍耐が肝心……)
腹の虫が小さく抗議の声を上げるのを聞きながら、いろはは深呼吸して精神を落ち着かせようとした。
その時だった。
かさり、と背後で微かな音がした。
(む?)
釣り糸から意識をそらさずにちらりと目を向けると、少し離れた河原に一人の男が立っていた。
年の頃は三十代半ばだろうか。深緑色の古びた作業服を着込み、足元はしっかりとしたワークブーツ。帽子を目深に被っているため顔はよく見えないが、その佇まいはどこかこう……世捨て人のような陰鬱さを漂わせている。
(何者でござるか……?)
釣り客にしては荷物がほとんどない。釣り竿も持っていない。いろはが訝しんでいると、男はゆっくりと屈み込んだ。
そして、何やら河原の石ころを一つ一つ手に取り、日に透かしてみたり、角度を変えながら眺めたりし始めたのである。
(……石?)
男の行動は尋常ではなかった。
まず、選ぶ石の基準が謎だった。大きな石ではなく、拳大よりも少し小さいくらいの石を重点的に探しているようだ。表面のザラつきや色合いよりも、形――特に角の尖り具合や、妙に滑らかな平たい部分があるかどうかを入念に確かめている。
中でも気になるのは、いくつかの石を並べては何やら呟きながら比較検討している様子だった。
「……重心が……もう少し左か。いや、この湾曲が……うむむ……」
ぶつぶつと漏れ聞こえる独り言は、石職人が石材を選別するような真剣さを帯びている。いろはには全く用途が思いつかなかった。石工芸家か、あるいは古代遺物を探している考古学者崩れか。
男は夢中になっているようで、周囲の音など耳に入らないらしい。時折思い出したように川面に視線をやりながらも、その目的はどう見ても魚ではなく石に向いている。
いろはは釣りに集中したいと思いつつも、目の前の不審な男が気になってしょうがない。釣り針にかかるかもしれない魚と、河原で石選びに没頭する男。どちらに神経を注ぐべきか、胃袋と好奇心の狭間で激しく葛藤するのだった。
(あの石で何を作るつもりでござるか……まさか、河原に何かを築くとか……? いやいや、まさかでござるな)
男の選りすぐった石の輝きが、妙に不気味に見えたのは気のせいだろうか。
男の奇妙な行動はエスカレートの一途を辿っていた。
あれこれ吟味していた石の中から、手のひらサイズの、やや黒っぽく光沢のある石を選んだかと思うと、男はそれを日の光に透かして満足げに頷いた。
「……うむ。この硬度、この重量感。申し分なし」
そして。
男は躊躇うことなくその石を己の口に放り込んだ。
「なっ……!?」
いろはは思わず小さく声を上げた。見間違いかと思った。しかし目の前で男は、バリバリと音を立てて咀嚼している。時折眉間に皺を寄せながらも、確かな満足感を滲ませているように見える。
(た、食べているでござる!? あの石を!? 何故!? 何のために!?)
いろはの脳内で疑問符が乱舞する。思考回路は完全にショート寸前だった。忍耐力の化身たる侍としても、もはやこれ以上黙って見過ごすことはできなかった。釣り竿を握る手が、怒りとも恐怖ともつかぬ感情で小刻みに震える。
「ちょっ……ちょっと待つでござるうううーーーっ!!」
たまりかねたいろはの魂の絶叫が、静寂の河原に木霊した。
あまりの声量に鳥たちが飛び立ち、川面に漣が立つ。
男はびくりと肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り返った。帽子の下から覗く瞳が、じっといろはを見据える。
「……なんだ」
視線が絡み合った。いろはは口を半開きにしたまま固まっている。その表情は驚愕と混乱で満ち溢れていた。
そして、最悪のタイミングは重なるものである。
緊張と動揺で力の抜けたいろはの手から、愛用の釣り竿がするりと滑り落ちた。
「あっ!?」
次の瞬間。
ぽちゃん、と哀れな音を立てて、竿は川の流れに呑まれていった。
「―――――ッ!!」
いろはの悲鳴にならない悲鳴が喉の奥で炸裂する。
目の前には石を食べたばかりの謎の男。手元には失われた愛竿。そして何より、口に出したくもないが腹の虫が再び盛大に自己主張を始めた。
「ぎゃーーーっ! 風真の竿がぁぁぁーーーっ!! せっかくの晩酌のアテがぁぁぁーーーっ!!」
半狂乱で叫ぶいろはに対し、男は石を飲み込んだらしい喉元をさすりながら、不可解なものを見るような目で呟いた。
「……騒がしい奴だな。一体何なのだ」
石の味に満足したのか、あるいはこの奇行が日常茶飯事なのか。男の声には先程までの異様な熱中ぶりはなく、淡々とした響きがあった。
その冷静さが、尚更いろはの混乱を助長させるのであった。
「お、お前が一番何なのだあああーーーっ!!」
「・・・だるっ」
その様子を見て、男、ラキアは思わず呟いてしまう。