夜が明ける。
東の空が白み始め、夜の闇を静かに押し退けていく。鳥のさえずりが、世界の再開を告げていた。
僕は、マリアさんたちが眠る墓の前で、ただじっと夜明けの光景を眺めていた。
身体は奇妙に軽かった。
胸の中に流れ込んできたあの黒い奔流は、僕を完全に作り替えた。
ふと、湖面に視線を落とす。
昨日まで、インクを垂らしたように黒く輝いていた湖は、その深い黒色を失い、夜明けの光を浴びて穏やかにきらめいていた。まるで、何もかもを洗い流したかのように、ただの透き通った水がそこにある。
そして、その水面に映る自分の姿を確認する。
雪のように白かったはずの髪は、漆黒に。
感情の機微を映すことのなかった瞳は、湖の底よりも深い、黒曜石のような色に染まっていた。
それが、今の僕の姿だった。
不思議と、驚きはなかった。
頭の中に、精霊と成った時に、膨大な知識が流れ込んできた。それは、僕自身の記憶ではなく、神代から綴られた古き精霊の記憶。
この世界の成り立ち、魔法の理、そして、自分が今、何者であるのか。
僕は人ではなくなった。
何ができて、何ができないのか。その全てを僕はわかった。
そして、その事実が、ひどく空虚なものに感じられた。
朝日と共に納屋に縛り付けておいた存在が騒ぎ出した気配を感じた。
そうだ。尋問をしようと思って、指揮官を捕えたんだった。
僕は、静かに立ち上がると、感情の抜け落ちた足取りで、村の中心へと歩き出した。
納屋の中は、血の匂いが漂う、不快な空気に満ちていた。
椅子に縛り付けられた男は、この村に攻め込んだ来た指揮官だ。服装がほかの兵士よりも幾分か上等だったので、連れてきた。僕が納屋に入ると、恐怖と混乱に染まった目で、睨みつけてきた。
「……貴様、何者だ」
絞り出すような声。その声には、まだ威勢が残っている。
僕は、彼の前に無言で立つ。
彼らは、先ほどまで村を襲撃していた記憶しかないだろう。
故に、この状況には緊張を感じているはずだ。
「質問に答えろ」
僕の声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦に響いた。
「この村を襲った目的はなんだ」
「……ふん。我らガリア帝国軍の進軍経路を確保するためだ。こんな辺境の村、踏み潰して拠点とするだけの価値しかない」
男はぺらぺらとしゃべりだす。だが、その瞳の奥に揺らぐ恐怖の色を、僕は見逃さない。
「嘘をつくな」
僕は、右手を軽く掲げる。
すると、僕の影から、黒い水が滲み出し、鞭のようにしなりながら指揮官の右足を抉る。短い悲鳴が納屋に響く。
「もう一度聞く。目的は」
男は驚愕の表情で僕を見ていた。今の現状を正しく認識できていないのだろう。
左足もいらないかな?
そう思って、再度黒い水を影から出すと、口を開き始めた。
「……せ、精霊の力を奪うためだ。この地の精霊と契約を結び、その力を我が帝国のものとする。それが、我らに与えられた任務だ」
観念したように、男は白状し始めた。
「この地は精霊の力を削ぐこと…そして、可能ならば奪うこと。
――それが、今回の侵攻の真の目的だ。アルシオンの連中の後ろに拠点を築くの計画も嘘じゃない!本当だ!」
なるほど。ただの侵攻ではないようだ。
そして、男は絶望的な情報を付け加えた。
「我らは、ただの先遣隊にすぎん。本隊がここに到着する。その数、五百を超える。貴様一人がどれほど手練れだろうと、もはやどうすることもできんぞ!」
男は、勝ち誇ったようにそう言った。
僕が一人でこの村の兵士を殲滅したことを、彼は知らない。彼が知っているのは、抵抗した村人たちが、なすすべもなく殺されていったという事実だけだ。
「そう」
聞きたいことは、聞けた。
僕は、再び右手を掲げる。僕の影から、今度は鋭い切っ先を持った黒い槍が、音もなく現れた。
「ひっ……! ま、待て! 私は捕虜だ! 捕虜を殺すことは――」
命乞いをする男の言葉を、僕は最後まで聞かなかった。
黒い槍が、彼の心臓を正確に貫き、影へと引きずり込む
僕の心は何も感じなかった。
ただ、排除しなければならないという使命感だけが残った。
それから数日間、僕は一人で、荒らされた村を整理して過ごした。
壊された家々を回り、まだ使えそうなものを集める。血に染まった道を、湖の水で洗い清める。そして、マリアさんたちが眠る湖畔の墓に、毎日新しい花を供えた。
それは、贖罪の行為だったのかもしれない。
あるいは、失われた日常を取り戻そうとする、無意味な足掻きだったのかもしれない。
僕の時間は、止まってしまったようだった。
食事も、睡眠も必要としないこの身体は、ただ黙々と、与えられた作業をこなし続ける。
時折、ロマナちゃんやミトラちゃんのことを思い出した。
彼女たちは、無事に隣国へたどり着けたのだろうか。僕がマリアさんを連れて帰らなかったことを、どう思っているだろうか。
会って、謝らなければならない。
そして、マリアさんの最後を伝える必要がある。
それに、ロマナちゃんが望むなら巫女にすることも考えなければいけない。
その目的だけが、今の僕をこの世界に繋ぎ止める、唯一の楔だった。
しかし、どうすればいい?
彼女たちがどこへ向かったのか、僕にはわからない。この広い世界で、どうやって彼女たちを探し出せばいいというのか。
無力感が、霧のように心を覆う。
精霊の力を得て、人ならざる者となったというのに、僕にできることは、あまりにも少なかった。
そんな無為な日々が、終わりを告げたのは、ガリア軍が攻めてきてから5日目の昼下がりのことだった。
地平線の彼方から、土煙が上がるのが見えた。
そして、地響きと共に、黒い鉄の塊が、津波のようにこちらへ押し寄せてくる。
ガリア帝国の本隊に違いない。
その数、指揮官が言っていた通り、五百は下らないだろう。
僕は、湖の畔に立ち、静かに彼らを待った。
軍勢が、村の入り口で停止する。
先遣隊からの連絡が途絶え、村が静まり返っていることに、警戒しているのだろう。
やがて、先頭の一団が、偵察のために村へと足を踏み入れてくる。
彼らは、燃え落ちた家々、そして、湖の畔に立つ僕の姿を認め、驚きと困惑の声を上げた。
「何者だ!」
一人の兵士が、剣を抜き放ち、叫ぶ。
僕は、答えない。
ただ、静かに、彼らを見つめる。
時間停止を使えば、彼ら全員を、痕跡一つ残さず始末することができるだろう。
だが、僕はそうしなかった。
それでは、意味がない。
この地に足を踏み入れたことを後悔させなければならない。
だから僕は、この力を見せつけなければならない。
精霊の怒りを。
「攻撃しろ!」
指揮官らしき男の号令と共に、兵士たちが一斉に僕へと殺到する。放たれた矢が、雨のように降り注ぐ。
僕は、動かない。
僕の足元から、黒い水が湧き出し、巨大な壁となって僕の前に立ち塞がった。矢は、その黒い壁に触れた瞬間、音もなく吸い込まれ、消えていく。
「なっ……!?」
兵士たちが、呆然と立ち尽くす。
僕は、右手を天に掲げた。
湖の水が、僕の意志に呼応するように、巨大な竜巻となって天へと昇る。それは、もはやただの水ではない。あらゆるものを飲み込み、分解する、混沌の奔流。
「――消えろ」
僕の呟きと共に、黒い竜巻が、ガリア帝国軍の軍勢へと襲いかかった。
阿鼻叫喚の地獄絵図。
兵士たちは、なすすべもなく、黒い水に飲み込まれていく。鎧も、剣も、そして肉体さえも、水に触れた瞬間から分解され、黒い奔流の一部と化していく。
「馬鹿な! 精霊使いは、人を直接攻撃できないはずではなかったのか!」
後方で、指揮官の一人が絶叫しているのが聞こえた。
その通りだ。古き神々との誓いにより、精霊は、人々の争いに直接干渉することを禁じられている。
だが、今の僕は精霊そのものではない。
そして、精霊と契約した、「精霊使い」でもない。
僕は、そのどちらでもあり、どちらでもない、理の外側に立つ存在。
神々の誓約など、僕を縛ることはできない。
半数以上の兵士を飲み込んだ黒い奔流は、村の残骸や廃墟をも飲み込んで辺り一面をすべて押し流していく。
そして、影へと還る。
かろうじて生き残った兵士たちは、恐怖に顔を引きつらせ、武器を捨てて逃げ惑う。
僕は、彼らを追わなかった。
目的は、達成された。
僕は、再び一人になった村で、静かに目を閉じる。
戦場に残された無数の死体は、僕の影から伸びた黒い水が、まるで何もなかったかのように、静かに異空間へと引きずり込んでいった。
村は、再び、静寂を取り戻す。
敵軍が撤退し、また一人になった村で、僕はただ、湖の畔に佇んでいた。
これから、どうすればいいのか。
ロマナちゃんたちを探しに行かなければならない。
でも、どこへ?
カルロスさんたちの目的は、時間がなかったので聞いていなかった。後を追うにしても、追跡されないように対策してるだろうし…
途方もない無力感と深い脱力感が、僕の全身を支配していた。
目的を見失った船のように、暗い海を漂っている。
その時だった。
背後に、複数の気配が現れた。
振り返ると、そこにいたのは、黒い装束に身を包んだ、三人の男女だった。彼らは深いフードをかぶっており、顔はよく見えない。その身のこなし、そして、殺気とも違う、研ぎ澄まされた気配。ただのならず者ではない。
「……見つけたぞ。精霊使いだ」
中心に立つ男が、感情のない声で言った。
「我らと共に来てもらう。これは、命令である」
彼らが何者なのかはわからない。
でも、僕は、抵抗しなかった。
いや、抵抗する気力が、湧いてこなかった。
一人の男が、僕の首に、冷たい金属の輪を嵌める。
隷属の首輪。所有者の命令に逆らえなくするという、魔道具だ。精霊の記憶がその知識を与えてくれる。
でも、この首輪が自分には効かないことを理解していた。
これで縛れるのはヒトだけ。そして僕はヒトではない。
だが、僕は、おとなしくそれを受け入れた。
どこへ行けばいいのかもわからない。
何をすればいいのかもわからない。
このまま、彼らに従っていれば、いつか、ロマナちゃんたちに繋がる情報が得られるかもしれない。
そんな、淡い期待だけが、僕の心を占めていた。
「連行する。大人しくしていれば、危害は加えない」
彼らは、僕の腕をつかみ歩き始める。
僕は、されるがままに、引きずられた。
最後に一度だけ、僕はラクサ村を振り返った。
マリアさんたちが眠る、湖畔の墓。
さようなら。
僕を乗せた馬車が、ゆっくりと動き出す。
これから僕を待ち受ける運命が、希望なのか、それとも更なる絶望なのか。
もうなにも知りたくなかった。