部屋を割り当てられてから、三日が過ぎた。
その間、僕に与えられたのは、ただ待機せよという命令のみ。
独房よりはいくらか広い個室。硬いベッドと、小さな机が一つ。
食事は変わらず、味気ないものだったが、文句を言う気はない。
僕は窓もない個室では、外の風景を眺めることもできない。
四日目の朝、簡素な朝食を終えた頃、部屋の扉がノックされた。
入ってきたのは、見知らぬ男だった。連絡係だろうか。
「ゼス様がお呼びだ。ついてこい」
男の後に続き、再びあの執務室へと足を踏み入れる。
部屋には既に、ゼスと、そしてクロウとミラの姿があった。
クロウは壁に寄りかかり、腕を組んで、不機嫌そうに窓の外を眺めている。ミラはゼスの斜め後ろに立ち、俯いて床の一点を見つめていた。部屋の空気は、まるで凍りついたように冷たい。
僕が入室しても、クロウはこちらを見ようともしない。ミラは、僕の気配に気づくと、びくりと肩を震わせ、さらに深くローブを被った。
「揃ったな」
ゼスは机の上に広げられた一枚の羊皮紙――この国とその周辺を示す地図――を指し示した。
「さて、任務の時間だ。貴様らには、北東の商業都市『ブリエンツ』へ向かってもらう」
ゼスの指が地図上の一点を叩く。初めて地図を見たため、現在地がどこかよくわからない。
「ブリエンツでは、近頃、王国からの独立を叫ぶ声が日増しに大きくなっている。表向きは、重税と、戦争による物資の徴発に対する不満が原因とされているが、その背後で何者かが扇動している可能性が高い」
ゼスは淡々と説明を続ける。
「貴様らの任務は、この独立運動の背後にいる原因を特定し、その原因を排除することだ」
「詳細は移動しながらミラから聞け。今すぐ出発しろ」
ゼスの言葉は、常に命令形で完結する。僕たちに、否やを唱える選択肢はない。
クロウは、壁を蹴って体勢を立て直すと、僕の横を通り過ぎる際に、わざと肩をぶつけてきた。
「ッチ。足手まといになるなよ、新入り」
吐き捨てるように言うと、クロウは先に部屋を出て行った。
ミラは、小さな声で「し、失礼します……」と呟き、小走りで彼の後を追う。
僕はただ、無言で会釈しし、二人の後に続いた。
馬車に揺られてブリエンツへと向かう道中は、苦痛な沈黙に満ちていた。
御者台にはクロウが座り、時折、舌打ちをしながら馬に鞭を入れている。僕とミラは、荷台で向かい合うように座っていたが、会話は一切なかった。
ミラは、僕から少しでも距離を取ろうとするかのように、荷台の隅で体を縮こまらせている。彼女が抱えるリュートの弦に、時折、風が当たって、か細い音を立てる。
僕は、ただ、流れていく景色を眺めていた。
収穫の終わった畑は、まるで骸骨のように痩せた土を晒している。道端には、手入れのされていない樹木が、枯れ枝を伸ばしていた。時折すれ違う人々は、皆、一様に暗い顔をして、僕たちの乗る馬車を、羨ましそうに眺めている。
その風景が、ガリア帝国との戦争によるものなのか、この国の日常なのかは僕はまだ知らない。
一週間近く馬車に揺られていると、遠くに高い城壁と、いくつもの尖塔が見えてきた。
ここがブリエンツだろうか。
街は、道中の寂れた風景とは裏腹に、多くの人々で賑わっていた。門をくぐると、様々な呼び声や、荷馬車の車輪が石畳をこする音、そして香辛料の入り混じった独特の匂いが、僕たちを出迎えた。
「着いたぜ」
クロウは、宿屋の手前で乱暴に馬車を止めると、荷台を振り返りもせずに言った。
「俺は俺のやり方でやらせてもらう。てめえらは好きにしろ。馴れ合うつもりはねえ」
そう言うと、彼はひらりと御者台から飛び降り、あっという間に雑踏の中へと消えていった。
残されたのは、僕と、そして相変わらず怯えたままのミラだけだった。
「あ、あの……」
ミラが、か細い声で僕に話しかけてきた。
「わ、私たちが泊まる場所は、決まっています。こ、こちらです……」
彼女はそう言うと、おぼつかない足取りで僕を案内する。
クロウの言う通り、僕もまた、彼らと馴れ合うつもりはない。だが、任務を遂行する上で、最低限の情報共有は必要だ。この気弱な精霊使いが、そのパイプ役ということなのだろう。
『梟のねぐら』と書かれた看板は、色褪せ、傾いている。酒場が併設されているようだが、客一人いない。
ミラに続いて中に入ると、カビと酒と汗の匂いが鼻をついた。
カウンターの奥で、大きな体を丸めた宿屋の主人が、無愛想な目で僕たちを一瞥した。
「あいにく満員だ。他を当たってくれ」
主人は、グラスを拭きながら、吐き捨てるように言った。
ミラは、おどおどとカウンターに近づくと、懐から小さな羊皮紙を取り出し、そっと主人に見せた。羊皮紙には、何かの紋章と文章が描かれているようだった。
主人は、その紙を一瞥すると、面倒くさそうに大きく舌打ちをした。
「……。奥の部屋を使え。突き当りのだ。面倒事はごめんだぞ」
主人は、鍵をカウンターに放り投げると、再び僕たちに背を向けた。
ミラは慌ててその鍵を拾うと、僕を促して店の奥へと進む。
ぎしぎしと音を立てる床を通り、一番奥の部屋へたどり着く。中は簡素なベッドが三つと、小さなテーブルが置かれているだけの殺風景な部屋だった。
「こ、ここが、私たちの拠点になります」
部屋に入るなり、ミラは少しだけ早口になった。早く僕の前から立ち去りたい、という気持ちが透けて見える。
「ここは、暗部に協力している宿屋で、いくつかある拠点の一つです。クロウさんも場所は知っているので、何かあればここに来るはずです。情報共有や、今後の打ち合わせも、基本的にはここで行います」
「私は、これから街の酒場を回って、吟遊詩人として情報を集めてきます。何かあれば、探して声をかけてください――リンさんは……その、どうされますか?」
彼女は、恐る恐る僕の顔を窺った。
「とりあえず、街を歩いてみるよ」
今の僕にできる唯一の返答だった。
僕の答えを聞いて、ミラはほっとしたような、それでいて少し困惑したような複雑な表情を浮かべた。
「そ、そうですか……。では、私はこれで……」
彼女は逃げるように部屋を出て行った。扉が閉まると、部屋には再び、静寂が訪れた。
一人になった僕は、ベッドに腰を下ろし、これからのことを考える。
いきなり与えられた、自由な時間。まるで、ラクサ村に来た当初を思い出させるような、そんな気持ちになった。
何から始めるべきか。クロウのように、独断で動くべきか。それとも、ミラの情報が集まるのを待つべきか。
――いや、どちらも違う。
僕には、僕のやり方がある。
僕は立ち上がり、部屋を出た。
まずは、この街を知ることから始めよう。
ブリエンツの街は、歩いているだけで様々な情報が流れ込んでくる場所だった。
市場には、見たこともない色鮮やかな果物や、巨大な魚や肉、そしてきらびやかな装飾品を売る店が軒を連ねている。活気に満ちた商人たちの呼び声が、まるで波のように押し寄せては引いていく。
僕は、人々の流れに身を任せながら、ゆっくりと市場を歩いた。
「兄ちゃん、見ていきな! 新鮮な果物だよ!」
一人の商人が、僕に声をかけてきた。店先には、真っ赤なリンゴのような果物が山と積まれている。
「最近は、物の値段が上がる一方で、値付けも大変だよ。戦争のせいで、南からの荷物も滞りがちでね。まったく、お偉いさんたちは、俺たち庶民の苦労なんて分かりゃしないんだろうな」
商人は、客である僕に、世間話のついでとばかりに不満をこぼした。
適当に返事を返して、人の間を縫って道を進む。
市場を抜けると、街の中央にある広場に出た。
広場の中心では、一人の男が台の上に立ち、声を張り上げて演説をしていた。
「我々ブリエンツの民は、これ以上、アルシオン王国の搾取に耐えることはできない! 彼らは我々の汗と血を吸い上げ、意味のない戦争に注ぎ込んでいるだけだ! 今こそ我々は立ち上がり、我々の手で、この街の未来を掴み取るべきなのだ!」
男の言葉に、集まった聴衆の一部が、熱狂したように拳を突き上げ、歓声を上げる。しかし、多くの人々は、遠巻きにその様子を眺めているだけだった。彼らの眼には冷めた光が宿っていた。
あれが、今回の調査対象だろう。しかし、聴衆の様子を見る限り、すぐに反乱がおこる雰囲気ではない。
僕が半日歩いて得た結論だった。
宿屋に戻ると、日は既に西に傾いていた。
僕は、カウンターで酒を飲んでいた宿屋の主人に声をかける。
「水場を借りたい」
主人は、僕の顔をちらりと見ると、また面倒くさそうに舌打ちをした。
「……裏の井戸を使え。他の客の迷惑になるようなことはするなよ」
僕は無言で頷き、店の裏手へと回った。
古びた石造りの井戸が、夕闇の中に黒い口を開けていた。
僕は、井戸の縁に手をかけ、その深い闇を覗き込む。ひんやりとした空気が、僕の頬を撫でた。
僕は、指先に意識を集中させる。
僕の体から、一滴の黒い雫が生まれ、ぽつりと、井戸の水面へと落ちた。
雫は、音もなく水に溶け、見えなくなった。
しかし、僕の意識の中では、その一滴が、蜘蛛の巣のように、水脈の隅々まで広がっていくのが見えた。
この街の地下を網の目のように走る、巨大な水脈。それは、この街に住む全ての人々の生活に繋がっている。
僕は部屋に戻り、ベッドの上で静かに目を閉じた。
そして、意識を、街の地下深くへと沈めていく。
最初に認識できるのは、雑音。
地下を流れる水の音。
街の上へと汲み上げられて、運ばれる音。
染み出す音。零れる音。滴る音。
――そして、声が聞こえる。
『パン屋の旦那は浮気しているらしいよ』
『最近、子供が動きすぎてすぐ服が破れちまうんだ』
『あそこの息子さんは前線へ行ったみたい』
井戸端での、主婦たちの他愛ない会話。
『また材料費が上がったのか……これじゃあ、もう商売上がったりだ』
『てめぇ!何回失敗しやがる。次やったらクビだからな』
『ここで、これを入れて。あとは煮込むだけ』
厨房で、仕込みをする料理人の声。
『今日のリラ草は念入りに洗う必要があるな……』
『いいか、川の水を利用する際は一度煮沸してから使うのじゃ』
薬師たちが、薬を調合する音。
街を流れる小川で、子供たちがはしゃぐ声。
酒場で、喉を潤す男たちが、国の情勢を憂う声。
誰かが使い、飲む一杯の水に僕の意識は溶け込んでいく。
膨大な量の情報と感情が洪水のように僕の頭の中へと流れ込んでくる。
さすがにこの情報量を整理するには時間がかかりそうだ。
そう思いながら、情報の海へと意識を溶け込ませていく。